7-4

【どんな時も思い出せるように、この日々に栞を挟む】

      堀北勇樹






これから始まる希望に満ち溢れた高校生活。念願の高校に入れて、野球に打ち込んで、絶対に甲子園に行く。青春を全て白球に捧げる。


そう思っていたはずなのに、俺は見つけてしまった。初めてこの学校の生徒として登校した日。桜の花びらが舞い散る中、風になびく、黒く真っ直ぐな長い髪を押さえる、彼女を見つけてしまった。





入学式の後、早速クラスで自己紹介をすることになった。俺は真ん中からやや窓よりの一番後ろの席。目の前はだ。


出席番号順に自己紹介が始まり、クラスメイトたちが名前、希望の部活動、趣味などを話していたが、内容は一つも入ってこなかった。


目の前の彼女の名前はなんと言うのだろう。部活動は、趣味は、自分が話す内容すら考える余裕がなかった。


彼女の順場になり、上品な振る舞いで立ち上がった彼女は自己紹介をした。


「花木栞です。部活動には入るつもりはありません。趣味は読書です。よろしくお願いします」


簡潔な彼女の自己紹介に、少し期待外れの空気が教室に流れていたが、その凛とした高過ぎず低すぎない声に聞き惚れ、ピンと伸びた背筋に見惚れていた。


「おーい、次は誰だー」


「は、はい! えっと、堀北勇樹です。野球部志望です! 趣味は食べることと……ど、読書です。よろしくお願いします」


拍手の中席に着いたが、心臓は激しく暴れていた。なんで趣味が読書なんて言ってしまったのだろう。活字は苦手だし、読むのはもっぱら漫画だ。


机に肘を着いて頭を抱えた。チラリと見た花木栞の背中は変わらず真っ直ぐで、天井から糸で引っ張られているようだった。


クラスメイトは結局一人しか覚えられなかった。ホームルームの後、席を立つ彼女を目で追った、つもりだったが体まで動いていて気づけば後をつける形になってしまった。まだどこに何の教室があるかは把握していないが、彼女は恐らく図書室に向かっているのだと不思議と確信を持っていた。


数メートル離れた位置から追っていた彼女の姿が消えた。順に教室を覗いていくと、図書室があり、扉を開けた。


中はシンと静まり返っていて、誰も見当たらなかった。少しカビ臭い本の匂いが懐かしい。なんとなく本棚の間を行き来して本を眺める。背表紙のタイトルを見ても本を読もうなどという気は一ミリも湧いてこなかった。


「図書室なんて小学生以来かなあ」


「じゃあ本はいつも買って読んでるの?」


「まさか、本屋で買うのは漫画くら……えっ!?」


いつの間にか会話していた相手は、本棚の前で地べたに座って本を読んでいた。


「は、花木さん?」


「名前、覚えてたんだ。確か堀北くん、で合ってる?」


文字から目を離さない彼女に対して何度も首を縦に振った。


「えっと、椅子に座らないの?」


「ここの方が本を近くに感じるから」


読書家、というイメージ通りの固い話し方をする彼女のような友人は周りにはいないが、不思議と嫌な感じはしなかった。


「確かに、ここの方が本の香りに包まれてる感じがするね。なんか落ち着くなぁ」


そう言った後、彼女は顔を上げた。俺はわかったような口振りをしていたことに気づいて急に顔が熱くなった。


「や、ごめん。本の香りに包まれてるなんて気持ち悪いよね。忘れて」


一刻も早くその場から逃げ出したくて彼女に背を向けた。


「どうして?」


彼女の質問に足を止めて振り返った。


「私もそう思うよ」


その時初めて彼女の笑顔を見た。ふわっと笑う彼女の背景に花びらが舞い、キラキラと輝いて見えた。


「花木さん、おすすめの本を教えてくれないかな?」


「いいよ」


立ち上がった彼女は真後ろの棚から一冊の本を取り出して、俺に渡した。


「これなら、でも読めると思う」


「ありがと……え、えぇ!?」


「本読まないことぐらいわかるよ」


今度はくすくすと楽しそうに笑う彼女が見れた。


「読んだら感想聞かせてね」


そう言うと彼女は本を借りずに図書室から出ていった。





彼女が登校するのを待つために、かなり早い時間に教室に入った。それでも数人のクラスメイトは既に席に着いていたが、彼女の姿はまだなかった。


半分以上の生徒が登校し終わった頃、彼女は教室の後ろの扉を開けて入ってきた。


「おはよう」


俺の席の横を通った彼女に挨拶をした。


「おはよう、堀北くん」


名前を言われ、自分も名前を言うべきだったと後悔した。話しかけたかったが話題が何も思いつかない。


すると何かが彼女の机からはらりと床に落ちた。手を伸ばして拾い上げると、小さな白い花をいくつか使った押し花の栞だった。


チャンスだと思い、後ろから彼女の肩を叩いた。


「しおり」


彼女は一瞬時を止めたような顔をしたが、すぐに元の表情に戻して栞を受け取った。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「急に名前を呼ばれて驚いた」


彼女の言葉の意味を汲み取るのに少し時間を要したが、それを理解した瞬間、自分の顔が真っ赤になるのがわかった。


「ああごめん! ただ栞を渡したかっただけで、呼び捨てにしたわけじゃなくて、ホント、栞! しおりって名前じゃなくて、あぁ何回言うんだよ」


頭を抱えた俺を見た彼女は小さく笑った。


「慌てすぎ。名前でいいよ。そうしたら私も名前で呼ぶから」


「え、いいの?」


「私、自分の名前好きなの。だから呼んでもらった方がいい。よろしくね、勇樹」


不意に自分の名を呼ばれて急に息苦しくなった。


「こ、こちらこそ……栞」


彼女は同級生とは思えない上品な微笑みを浮かべて、前に向き直った。


胸の鼓動が鳴り止まない。俺は動揺して、この動悸の原因を今までの知識を総動員させて突き止めようとした。そして一つの答えを導いた。


「栞」


再び名前を呼ばれて振り返った彼女の綺麗な横顔が、長く艶やかかな髪の奥から現れた。


「俺、栞のこと好きだ」


この時の俺はまともじゃなかった。単純で、彼女のことを何も知らないのに好意を伝えたところで、相手を困惑させるだけだ。ただ、俺が入学式の日に見た、あの桜が舞う幻想的な空間にいた彼女に一目惚れしたことは間違いなかった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「よーし休憩!」


甲子園を目指そうという高校の練習は想像以上にハードだった。新入部員の中には練習に付いていけずにへばっている者もいる。


水を浴びようと水道に向かう途中、本を胸の前で抱えた女子生徒の後ろ姿が目に入った。顔を見なくても誰だかわかる。


「しおりー」


俺に気づいた栞はペコリと頭を下げると、再び歩きだした。


「待って待って」


慌てて追いかけると、ようやく立ち止まってくれた。


「どうしたの? 練習中でしょ?」


「今日もかわいい。好きだ」


「邪魔しちゃ悪いから戻るよ」


華麗にスルーされるのはもはや定番になりつつあった。俺は真剣なのだが、彼女はまともに取り合ってくれる様子はない。


「この後一年の紅白戦があるんだ。俺投げるから上から見ててよ」


「野球はよくわかんないんだけど、気が向いたらね」


「栞が見ててくれると思ったら絶対活躍できるわ!」


「そう。じゃあね」


栞の後ろ姿に見惚れていると、後ろからチームメイトに頭をはたかれた。


「お前も懲りないね。でもなんで花木さんなの? 確かに美人だけど、愛想悪くない?」


「そうかな?」


「お前は監督に期待されてるし、一年の女子の中でも人気あんだぜ? 他に目向ければいいのに。それより早く戻るぞ」


紅白戦は一年生の部員二十人を二チームに分け、五回延長戦なしというルールで行われた。


俺は五番ピッチャーで出場し、ピッチングは好調だったが、相手の投手も上々で、両チーム無得点のまま最終回を迎えた。


表の守備を0点で抑え、これで負けはなくなった。八番から始まった裏の攻撃は、相手の四球とエラーでツーアウト満塁で俺に回ってきた。


「堀北打てよー!」


ベンチからの声援を受けながら立った打席、初球はボール、二球目はファールとなり、続く三球目、甘く入ったストレートを俺は全力で振り切った。





練習後、宿題で使う教科書を忘れたことを思い出し、校舎のロッカーに向かうと、靴を履く途中の彼女に遭遇した。


「栞、今帰り?」


「うん、試合お疲れ様」


「あ、見てくれた?」


「読書の合間にちょっとね」


「えー、俺割と今日良かったんだけどなー」


そのままの流れで一緒に校門を出て駅まで並んで歩いた。


「三振とったところ見た?」


「うん」


彼女の反応は薄く、疲れているのかと思い口数を減らした。すると彼女は突然立ち止まり、コンビニを指差した。


「ちょっと寄るね」


「ああ、じゃあ外で待ってるね」


すぐに出てきた彼女は、袋の中からスポーツドリンクを取り出した。


「へえ、好きなの?」


「嫌いじゃないけど、お疲れ様」


「え? あ、ありがとう」


彼女からスポーツドリンクを手渡されたことに驚いた。正直疎まれてるとも思っていた相手から差し入れをもらえるとは考えてなかった。


「あと、落ち込んでるのかと思ったから」


「落ち込む?」


「最後、惜しかったね」


最終打席、捉えたと思った打球はセンターのファインプレーで捕球され、試合は引き分けに終わった。


「なんだ、最後まで見てくれてたんだ。でもそっか、バレてたか」


内心かなり悔しいと思っていた。態度には出していないつもりだったのだが、なぜバレたのだろうか。


「……話しかけてきた時いつもと違ったから」


「そうかな? いつも通りじゃなかった?」


彼女は少し言いづらそうにしていて、その理由が俺にはわからなかった。


「何か変なこと言ってた?」


「言ったというか、言わなかったから」


「言わなかった?」


「……好きだっていつもなら言うのに言わなかったから」


しばらく沈黙が流れたが、不思議と気まずさはなく、むず痒い空気感だった。


「あはは、そうだね。うん、落ち込んでたかも。励ましてくれてありがとう。やっぱり好きだ」


「台無し」


大きめの溜め息を付いて歩き出した彼女を慌てて追いかけた。


「俺さ、本当に甲子園に行きたいんだ。それもエースになって、俺がみんなを引っ張っていきたい」


「勇樹ならなれるよ」


「応援してくれる?」


「エースになって甲子園に行くようなら、きっとみんなの人気者になってるから私は陰で、そうだな、図書室から応援するよ」


「スタンドに来てよ」


二人で笑い合った。もうすぐ駅に着いてしまう。


「仮に俺が人気者になったとしても、俺は栞に応援してもらいたいし、俺はずっと栞が好きだよ」


「そう」


相変わらず塩対応の彼女だったが、きっと応援してくれると思った。


「じゃあ、俺はこっちだから。また明日」


手を振って彼女から視線を外し、数歩進んだ時だった。


「勇樹!」


彼女は別れた場所に立っていたが、俺に向かって真っ直ぐ歩いてきた。


「どうしたの?」


「勇樹がこれからどんな野球生活を送るかわからないけど、私の物語では勇樹を主人公にしてあげる」


彼女の言葉の意味がわからず、間抜けな表情をしていたと思う。じゃあね、と言って立ち去る彼女の背中に向かって俺は言った。


「俺の物語では、この先どんなことがあっても花木栞がヒロインだから!」


彼女は立ち止まらなかった。しかし声は届いていたはずだ。


彼女の言葉の意味を知るのは、もう少し後の話だ。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



書きかけの物語はそこで終わっていた。後半に進むにつれて、文字に力がなくなっていくのが見てとれた。


堀北は最後までこの物語を書き切ることなくその生涯を終えた。彼にとって、それがどれほどの心残りだったのかは計り知れない。


栞は堀北の母親に読了したことを伝えにるために立ち上がった。

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