6-2

「花木さん、今日空いてる?」


帰りのホームルームが終わり、まだ席に着いたままだった栞のもとに、牧原がやってきた。


「空いてるよ」


「今日部活休みでさ、どっか行きたいなって思ってるんだけど、付き合ってよ」


「いいよ」


堀北のお見舞いに行ってから、牧原とは少し話すようになった。廊下ですれ違うときや、下駄箱ですれ違う時は大抵他の野球部もいるため、挨拶程度しか交わさないが、休み時間や少し時間があるときは小話もする。専ら内容は堀北のことだが、栞からすれば学校で誰かと会話をするだけ成長したと言える。


「誘っといてなんだけど、行くとこ決めてないんだ。どこか行きたいところある?」


「行きたいところ……」


「花木さんとは友達になったけど、お互いあまり知らないからさ、趣味とか好きなものとか教えてよ」


「じゃあ……」


栞は牧原と二人で、以前堀北と行った本屋に向かった。本屋に着くまで、牧原は常に話題を提供してくれていて、会話に困ることはなく、栞は牧原のコミュニケーション能力に感心していた。


本屋に入ると、牧原はキョロキョロと辺りを見渡して、迷路みたいだと呟いた。


「牧原くんは普段何読むの?」


「牧原でいいよ。俺は漫画ばっかりだなぁ。本当は小説も読みたいんだけど、ハードル高くて。初心者でも読みやすい本教えてくれる?」


牧原を連れて文庫本が並ぶ通路に入る。


「ジャンルは何がいい? ミステリーとか恋愛とか、青春とか」


「そうだな……恋愛は取っ掛かりやすい印象があって、読んでみたいのは青春かな。ミステリーは途中で読むの疲れちゃうんだよね」


「そっか。じゃあここじゃないね」


初心者でも読みやすく、内容も比較的わかりやすく、難しい言葉が使われない本と言えば、ジャンルは絞られる。


「ライトノベルがいいんじゃない?」


「あ、ラノベってやつ? 表紙とかに絵が描いてあるやつだよね?」


「そう。私もたまに読むけど、読んでて楽しいと思うよ。種類もたくさんあるし」


牧原はライトノベルのコーナーを目の前にして、少し怖じ気づいているように見えた。


「こんなたくさんある中からどうやって選べばいいんだ」


「表紙とか、裏のあらすじとか読んでみるのもいいと思うよ。時間はあるし、ゆっくり見よ」


栞は牧原を置いて本屋を巡った。読書家の人にとっては、本屋はいくらでも時間が潰せる場所だ。


好きなもので溢れた空間を歩いていると、一冊の文庫本に目が止まった。『涙の処方箋』という題名のその本を手に取り、裏表紙のあらすじを読む。


高校生の男女を描いた青春物語のようで、人助けをするためなら自分が傷つくことを厭わない男子生徒と、それを心配してなんとか止めようとする女子生徒との関係に焦点を当てたものらしい。


栞は本を持ったままライトノベルコーナーを覗くと、牧原はまだ買う本を決められていないようだった。邪魔をしないように栞はそのまま本を買い、店内にあった椅子に座ってその物語を読み始めた。


男子生徒はお人好しだ。頼まれると断れない。それを嫌々ではなく、心から力になりたいと思って行動している。そのため、揉め事に巻き込まれてしまう。


女子生徒は彼に好意を抱いている。そんな彼が、自分を傷つけてまで人助けすることを受け入れることができない。彼の優しいところが好きで、嫌いという相反する感情が揺れ動く。


彼は彼女の好意には気が付かず、別の女子の男女交際の別れを手伝ったり、利己的な理由で仕事を押しつけられたりしている。


彼女は、彼が特に何も考えず、生まれながらの性格上なのだと思っていた。そんな彼に、彼女は自分が損するやり方はやめるように説得した。しかし、彼の行動は彼女が思っていたよりも根が深いものだった。


『俺、ばあちゃんと二人で暮らしてるんだ。両親は離婚して、母親に引き取られたけど、母親は俺をばあちゃんに預けて姿を消した。幼いながらに自分が愛されなかった、必要とされなかったと感じたよ。でも、ばあちゃんは俺がほんのちょっと手伝うだけですごい喜んでくれたんだ。その時、俺は必要とされてるって思えたんだ。だから、俺がお人好しなのは、自分で自分の存在を確かめるための作業みたいなもんなんだよ。ある意味病気だね』


彼の話を聞いた彼女は涙した。同情とか、やりきれないとか、そういう感情では言い表せない。自分が必要とした相手は、当の本人が自分を認めてあげられない。彼女は、彼という存在に自分を否定された気分になったのだ。価値があると思っていたものを、無価値だと突き付けられた彼女は、ありとあらゆる感情の受け皿を溢れさせた。


栞は、この二人が少し栞と堀北に似ていると思った。栞が男子生徒、堀北が女子生徒。堀北は涙を流すことはなかったが、自分に価値を見出ださす、生きる意味を見失い、物語に逃げていた栞に、堀北は現実を生きて欲しいと言ってくれた。もしかしたら堀北は、この物語の女子生徒と同じような気持ちを味わったのではないかと、栞は不安になった。もしそうなのだとしたら、堀北にとても悪いことをしてしまった。


「花木さん」


名前を呼ばれ、思考から引き離されると、目の前に牧原が立っていた。


「俺も本買ったんだけど、集中してるみたいだったから少し待ってた」


時間を見ると、三十分以上は待たせていたようで、慌てて立ち上がった。


「ごめん」


「全然いいよ。本当に本読むのが好きなんだね」


栞を責めない牧原に罪悪感が湧いてくる。


「何買ったの?」


「これ!」


牧原が取り出したのは、すでに数刊シリーズが出ているタイトルの本で、これなら牧原も読みやすいだろう。


「気に入ったら続きも買えるかなって思って。まずは頑張ってこれを読むよ」


「うん」


店の外に出ると、薄暗なくなった空に早めの月が浮かんでいる。駅に向かいながら、牧原に疑問に思っていたことを尋ねる。


「せっかくの休みなのに、野球部の人と遊ばなくて良かったの?」


「あぁ、うん。今日は花木さんと出掛けたくて。言ったじゃん、色々知りたいって」


何かを隠しているような気もしたが、栞との仲を深めようとしてくれている相手を疑うのは良くない。嘘でもそれは、とてもありがたい話だ。


「花木さん」


牧原は歩みを止め、改まった顔をした。


「堀北には……関わり続けてやって。拒絶されたとしても」


「うん?」


「よし! 帰ろっか」


牧原の真意が読めず、もやもやとした気持ちを抱えていたが、駅まで確認できず、電車に乗ってからも、牧原はすぐに乗り換えのために先に降り、話を聞くことはできなかった。


一人になり、栞は本屋で読んでいた物語の続きを読む。


女子生徒の涙の訴えにより、男子生徒は自分の価値を見つめ直すことになった。ただ存在するだけで自分を認めてくれる、無償の好意を向けられた彼は、すぐにとはいかないが自分を肯定できるようになった。


今まで通り人助けはするが、自分が損をするようなことには力を貸さなくなり、そのことで周囲の人間が離れていくことを彼は恐れたが、彼の思うような現実は訪れなかった。


周囲の人間は、彼を都合の良い存在と見ている人ばかりではなく、人柄を見てくれている人もいるのだと気づき、彼は生きることを許された気分になり、嬉しいとも安堵とも取れる涙を流すのだった。


栞はふと、堀北は涙を流すのだろうかと疑問に思った。涙とは、喜怒哀楽のどの感情でも、その人の許容量を越えた時に流れるもので、自分を静めるための体に備わった最終手段だと何かで読んだことがある。


感情の受け皿が大きい堀北は、恐らく涙を流すことは滅多になく、むしろ笑い飛ばしてしまう気がした。しかし、その笑いにはどこか諦めの要素が混じっているものだと栞は思っている。


仕方がないと割りきることで、感情に理性の蓋をする。そうすることが上手な人間が堀北だと感じていた。


だとするならば、どこかで理性の蓋が外れ、感情が溢れ出てしまう時が来るのではないだろうか。


栞はそのことがたまらなく不安になった。


木下に言われたこと、牧原に頼まれたことを思い出し、栞は家に帰り着くまで待てずに、堀北にメッセージを送った。

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