6 君のいない世界

6-1

学校の生徒がワイシャツの上にセーターやカーディガンを着るようになった。夜の肌寒さ、虫の声、夏特有のこもった緑の匂いが気配を消し、そのことに気づかない振りをしていたが、栞は時の流れを否応なく感じさせられていた。


堀北は未だに学校に来れていない。長期に渡る治療は体力的にも精神的にも堀北を追い詰めているのではないかと心配していた。


しかし堀北は気丈に振る舞っていた。メッセージの文面や電話の声も明るく、前向きなものがほとんどで、それがむしろ栞を不安にさせた。


放課後、図書室の窓側の一番奥から三番目の席に座り、本を広げる。変わらない日常、堀北がいないという日々に栞は慣れ始め、それが自分で受け入れがたかった。


読書に集中できず、窓の外の校庭を見下ろし、運動部の姿をぼんやりと眺めていると、図書室の扉が開いた。


「花木、ちょっといいか」


堀北のクラスの担任である木下が栞を呼んだ。


「なんでしょうか?」


「とりあえず場所を変えよう」


前に一度話したときと同様に、木下は栞を生物準備室に招いた。


「いきなり悪いな。まあ、話と言っても話題は一つしかないんだが」


「堀北のことですか?」


木下は頷き、自分と栞の分のインスタントコーヒーを紙コップに作った。


「最近、堀北とはどうだ?」


「たまに連絡を取っています。この頃は返信が遅いこともあって、少し心配してました」


「堀北自身は病気について何か言ってなかったか?」


「特には……堀北に、何かあったんですか?」


木下は口ごもり、適切な言葉を必死に探しているようだった。それを見て、不安が募る。


「病状はともかく、堀北の気持ちが少し不安定なようなんだ。俺も親御さんから聞いた話だから何とも言えないんだが、心配でな。何か聞いてないかと思ったんだ」


「そう、ですか」


普段明るい人ほど落ち込みやすいと聞いたことがある。堀北は突き抜けてポジティブだ。自分が重い病にかかっていても、現実を前向きに捉えていた。


しかし一度それが崩れた時、修復は難しいことなのかもしれない。言ってしまえば、栞は堀北とは違う人種だ。現実を受け入れずに逃げる術を知っている。


「先生、私はどうしたらいいでしょうか。堀北が私に言わないのだとしたら、それは私に敢えて言わないのだと思います。それを私は待つべきなのか、それとも話を聞き出してあげるべきなのか」


「それは難しい問題だな」


木下はコーヒーを一口飲んでから腕を組んだ。


「花木と堀北の関係は友達同士だ。先輩と後輩、クラスメイト、教師と生徒という間柄ではないな?」


「はい」


友達、という言葉に少し痛みを感じたことは今は胸の奥に仕舞い込む。


「友達に上下関係はない。それに仕事上の付き合いというような損得もない、対等な関係だ。対等な立場同士なら、そこに義務は発生しない」


栞は先ほど自分が『べき』という言葉遣いをしていたことに気づいた。


「友達同士というのは、感情や意志で行動を決めるものだと俺は思う。こうしてほしい、こうしたい、我が儘になっていいんだ。もしそれで喧嘩になってしまったら、その時にこの先も付き合いを続けるのかを考えるんだ。互いを受け入れ、尊重し合い、高め合い、成長していくものが友情だと思う」


ちょっとくさいこと言ったな、と木下は照れながらコーヒーを飲み干した。


栞にはこれまで、友人と呼べる存在がいなかった。十七年生きてきてようやく友人と呼べる、堀北と牧原という存在ができた。そのため友人に対する振る舞い方を知らなかった。


「先生、私にはこれまで、友人と呼べる存在がいなかったんです。だから、友情とは何か、ということがわからなかったんです」


「友情とは何か、それは生物の教師には難しい質問だな」


「わからないと言っても、知らないわけではなくて、物語の中には友情をテーマにしたものや、友情と恋愛の違いを取り上げたものも多くて、想像はできました。でも、実際自分がその立場に置かれると、よくわからないんです」


木下は栞を見てふっと笑い、慌てて謝罪した。


「それでこそ高校生だよ。君たちの世界は中学と比べると大きいが、社会に比べたらまだまだ小さい。大人になると色んな感情を諦める。高校生は色んな感情を知って、それを一つ一つ処理する練習期間みたいなものだ。そして、一言では言い表せない複雑な感情を抱えていく術を学んでいくんだ」


「感情を抱える術、ですか」


「そうだ。だから今は、感情のままに行動してみるんだ。大人になったら、それは許されないからね」


何がしたいのか、何を求めているのか、何を感じているのか自分に問いを向ける。


「私は、堀北の力になりたい。支えになりたい。頼ってほしい。何もできないかもしれないけど、寄り添うことしかできないけど」


「うん。それでいいんだ」


木下は仕事があるからと、生物準備室に残り、栞を扉で見送る。


「悪いな、話が長くなって」


「こちらこそ、話せて良かったです」


栞は立ち去ろうとしたが、木下が呼び止めた。


「前とは顔つきが変わったよ。君の中で、感情の変化があったのかな?」


「言い切る自信はないですけど、多分」


「そうか」


木下は嬉しそうに笑い、今度こそ栞はその場を離れた。


図書室に戻り、先ほどまで読んでいた本を広げる。これは女の子二人の、友情を越えた依存の物語。


幼い頃から共に時間を過ごしてきた二人は何をするのも一緒。相手のことは何でも知りたい、理解していたい。それが高じて、お互いが相手に理想を押しつけ合う。


反発して、壊れても、またお互い寄り添い合い、どんどん壊れていく二人は、やがて相手のいないところで勝手な行動を取り始める。


『あなたのためを思ってやったこと』、『あなたが心配だったから』、これらは二人を縛り付け、相手を許容すること以外の選択を許さない。


そして、二人の前に現れた一人の男が、二人の関係に綻びを生み、周囲を巻き込んだ騒動を引き起こす。


この物語では、主人公の二人の視点が交互に入れ替わりながら進んでいくが、お互いが描く人物像と言動が少しずつズレていくところが見所だ。


そしてことあるごとに描写される、『私がなんとかしないと』という表現が、読み手に段々と恐怖を与える。


人との関わりがない栞には、当然依存などという言葉は無縁だ。物語には依存しているかもしれないが、人に対して期待を持つことはなかった。


この二人は、初めは友情だったのかもしれないが、どんどんそれが大きくなり、依存に変わってしまった。栞には、その変化のきっかけ、どこまでいけば依存なのか、ということはよくわからなかった。


相手を思い遣って起こした行動は間違っていたかもしれないが、全て悪いことかと言われると、栞には答えることはできない。


依存が引き起こす行動を恐ろしいと感じながらも、人をそれほどまでに変えてしまう感情を羨ましいとも思った。


相手に自分の感情をぶつける、というのは人間関係には大切なのかもしれない。この二人ほどではないにしろ、深く関わるためには、傷つくことを恐れず、相手に期待をかけることは必要なのだと思った。


自分の気持ちを、意志を優先した行動を、堀北に対しては取ってみようと、栞は一番端の空っぽの席を見ながら心に決めた。

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