5-5
牧原と病室に戻ると、堀北はベッドの上で体を起こし、窓の外を眺めていた。人が入ってきたにも関わらず、堀北は栞たちの方を一度も見なかった。
「堀北」
牧原の声に反応して、振り向いた堀北の目を見た栞は急激に不安に襲われた。堀北の目は虚ろで、ひどく濁って見えた。栞はこの目を知っていた。
「牧原……と花木さん」
「お見舞いに来たよ」
平静を保ちながら、牧原に一歩遅れてベッドに近づく。
「堀北……その、電話では悪かった。俺、お前の気持ちも考えずに色々言っちまった」
「俺こそ悪かったよ。電話でも謝ってくれたし、気にしないでよ」
栞は恐る恐る堀北を見た。すると彼の目は見慣れたものに戻っていて、一度安堵したが、先ほどの堀北の目を見なかったことにするのは間違いだとすぐに思い直した。
「大丈夫……なの?」
「その質問はすごく難しいね。よくある溺れてる彼女とお母さんのどちらか一人を助けるならどっちにしますか、みたいな質問だよ」
「なんかそれ、ちょっと違くね?」
牧原と堀北は失っていた時間を取り戻すかのように話を弾ませた。牧原が栞に話してくれた堀北との過去や、堀北が辞めた後の野球部のこと、最近の流行りのものから懐かしいものまで、途切れることなく続く会話を栞は静かに聞いていた。
「それで今日は堀北に言わなきゃいけないことがあるんだ」
牧原はそう言うと栞を見た。突然視線を向けられ、自分でももう少しまともな反応ができただろうと思うほど、栞はたじろいでしまった。
「え? 何?」
堀北が思っていたよりもずっと低い声を出して、牧原と栞を交互に見た。
「実は俺、花木さんと友達になった!」
照れくさそうに笑う牧原はこの病室で一番浮いていた。堀北の口はぽかんと開いたままで、栞は固唾を飲んで堀北の反応を待った。
「そっか、良かったね花木さん。俺は友達同士が仲良くなって嬉しいよ」
堀北の言葉は本心であると同時に、寂しそうな、それでいてどこか安心したような声に聞こえた。
「なぁ、その帽子の下って、やっぱりその、ないのか?」
「あぁ、うん」
堀北が被っていたニット帽を取ると、そこは黒ではなく、首から上と同じ色で覆われていた。
「野球やってた頃より短くなっちゃった」
堀北の笑いは狭いはずの病室に吸い込まれて、すぐに聞こえなくなった。
「そんな顔しないでよ二人とも。ほら、俺中学の頃も一回こんな感じになってるし、俺的にはそんなショック受けてないから……」
堀北の言葉が途切れた理由は、隣でぽろぽろと涙を流す牧原が居たからだった。
「……ごめん、俺が泣くのは違うよな。でも……でもさ……」
牧原は必死に涙を拭っていたが、止めどなく流れ落ちる雫がズボンにシミを作っていた。
「俺って幸せ者だなぁ。泣いてくれる友達がいるんだもん」
牧原を見ながら堀北は目を細めた。
「そんなやつ置いていけないよな」
堀北は今日で一番の笑顔を見せた。それは強がっていない、心からの感情が滲み出たものだった。
「治すよ。それで三人で学校で会おう。花木さん、図書室でいいよね?」
「図書室は静かにしないといけないからまずいと思う」
「ははっ、厳しいな」
「堀北、約束だからな」
「うん」
明日も部活のある牧原はそろそろ帰らなければならない時間になり、堀北に別れを告げ、二人で立ち上がった。
「花木さん、ちょっといいかな」
「なに?」
「……俺外で待ってるわ」
牧原は気を遣ったようで先に病室を出て、堀北と二人きりになった。
「ごめん、呼び止めといてなんだけど、これと言って話したいことがあるわけじゃないんだ。ただ、あんまり話せてないなと思って」
「そうだね。牧原くん最初は怖かったけど、いい人だね」
栞の言葉に堀北はピクッと体を揺らし、また少し寂しそうな顔をした。
「花木さんと牧原が仲良くなってくれたのは凄く嬉しい。これはホント。でも、ちょっと妬けちゃうな」
「どうして?」
「どうしてって……なんでだろうね」
堀北は眉を下げて困ったように笑った。しばし二人の間に沈黙が流れた。
「あ、本ありがとね。おかげで退屈せずに済んでるよ」
「よかった」
「あと、牧原と仲直りできたのは花木さんのおかげだよ。だから、ありがとう」
「私は何も……ただ連絡を取ってあげただけだよ」
栞は何もしていない。堀北と牧原が仲直りできたのは二人の人間性があってこそで、仮に合わない者同士だったとしたら、栞が何をしても変わらなかった。
「いや、俺も牧原も花木さんに助けられたよ。もちろん、言葉を掛けてくれたかもしれないけど、花木さんっていう存在が僕たちを助けてくれた」
「存在?」
「うん。俺と牧原だけだった関係に花木さんが加わった。たったそれだけと言えばそへまでだけど、関係性が変化して、新しく生まれ変わった。これは良いことだと思うんだ。人間、誰かに影響されるものだから」
堀北の言う通り、栞は堀北に影響を受けて変わった。変われたかどうかはわからないが、変わろうとしている。
「俺も、花木さんと会って変わったよ」
「そうなの?」
「うん。良くも悪くもね」
栞が誰かに影響を与えるとして、それが良いものだとはとても思えない。ましてや、堀北のようにどこを取っても栞より優っている人には、こちらがもらうばかりだ。
「感情って一つじゃないし、人の思考も一つとは限らない。相反する感情とか、矛盾したことを考えるなんてよくあることだよね。俺、花木さんに会って弱くなったかも」
「どういうこと?」
「生き方について考えたことはあっても、自分の存在については深く考えてこなかったんだと思う」
確かに栞の目には、堀北は今の現実を楽しみたい、今を生きているように映っていた。
「突然ですが、俺から一つ物語の紹介するね」
堀北が教えてくれたのは、ある哲学者と少年の話。
少年はごく自然に人に親切にできる子供だった。困っている人がいれば手を差しのべ、人がやりたがらないことを、誰が見ているでもなくやった。それは彼がそれまで生きてきた人生で身に付けた、感覚的な行為でそこに偽善や自分へのメリットを考えたことはなかった。
しかしある時、少年は偽善者だと周りから揶揄された。彼は自分の行動について考えたことがなかったため、普段当たり前にしてきたことをする度に、これは偽善なのではないかという観念に囚われ、生きづらくなってしまう。
そんな時、川をぼんやりと眺める哲学者に出会う。哲学者と言っても今は老後を過ごしており、日課である川での長考の最中に少年が現れたのだ。
少年は家族でも友達でもない、関係性のない哲学者に悩みを打ち明ける。その時哲学者はこう言うのだった。
『自分の言葉や行動は初めは誰かの真似事だ。赤ん坊は親を見て、周りを見て言葉を覚え、マナーを覚え、考え方を身に付ける。それでは人間は過去の人間の模倣なのかと言われればそうではない。他人の言葉が、行動が自分に染み入り、それが習慣となった時、それは模倣ではなくなる。しかしそれではまだ自分のものとは言い難い。考えて、考えて、自分へ問い続ける。私とは何かということを。考え続けること、自分へ問い続けることだけが、人を人たらしめる方法であり、自分を形成する過程だ』
少年は哲学者の言葉を上手に理解することはできなかった。しかし考えることを辞めたとき、人はそこで成長が止まるということはわかった。
それから少年は偽善者だと指を差されながらも、自分の心を問い、自分の価値観を考え続け、自分の行動を選択していくことで、在り方を模索していくのだった。
「その物語についてはわかったけど、つまりどういうことなの?」
「何て言うのかな、俺は花木さんに会って、話をして、自分の在り方を問い直したんだ。それまでは、今を力の限り謳歌する! って感じだったんだけど……わがままになったというか、ごめん。やっぱり上手く言えないや」
堀北が伝えようとしたことを、栞は上手く汲み取れなかった。栞はまだ自分を含めた人の心情の理解に疎い。
「牧原待たせてるよね。今日はありがとう」
「うん」
堀北に別れを告げ、扉に一度手を掛けたが、手を離し、再びベッドの脇に戻った。
「早く……学校に、図書室に来てね」
「うん」
「堀北がいないと、学校が楽しくないの」
栞は言葉にすることで自分の感情を理解しようとしていた。
「堀北がいないと寂しい。物足りない。私の物語に何かが足りない。堀北のいない世界は、昼間の空も、夕焼けも、道端の花も、街並みも、鮮やかに見えない」
堀北のいない世界はモノクロだ。堀北を中心に世界が色付く。少なくとも栞の物語はそういう仕組みになってしまった。
「堀北のいない世界は、もう私の物語じゃないから」
「俺の物語も、花木さんがいないなんてありえないよ」
言いたいことが言えて、栞は満足だった。堀北の顔が、栞の言葉は確かに伝わったという証だった。
病室を出てると、椅子に座っていた牧原が立ち上がり、堀北の祖母に頭を下げて駅まで送ってもらった。また来てちょうだいね、と言って堀北の祖母は車を走らせて小さくなった。
電車を待つ駅のホームで、牧原はあのさ、と話を切り出した。
「花木さんは、堀北と付き合ってるの?」
牧原の問いを、栞はなぜかとても冷静に聞くことができて、ゆっくりと首を振った。
「付き合ってないよ。でも、私は堀北が好きなんだと思う」
栞は自分の気持ちを認めて、受け入れた。恋を知らない栞は好き、というものを理解しきれていないかもしれないが、それ以外の表現の仕様がないことがわかった。堀北のいない世界で栞はどうやって生きていけば良いのかもうわからない。
「そっか」
満足そうに、そしてなぜか嬉しそうな牧原の横顔の奥には、秋らしい鱗雲が青い空に散りばめられていた。
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