4-3
家に帰りつくと、父親に代わって母親の派手なヒールが玄関に脱ぎ捨てられていた。靴を脱いでいるとちょうど風呂場から出てきた母親と鉢合わせ、お互いの顔を見合ったまま無言の時間が流れた。
「あんた、男のとこ行ってたの?」
「どうだっていいでしょ」
開口一番そんな言葉しか出ないのかと栞は少し頭にきて喧嘩腰になってしまった。自室に戻ろうとする栞を母親が呼び止めた。
「その顔、あいつにやられたの?」
少しは心配してくれたのかと足を止め振り返った栞だったが、次の母親の言葉に心底ガッカリした。
「さっさと家出てけば? ほら、男の家でいいじゃん」
「私はあんたとは違うからそんなことしない」
栞が傷つけようとして放った言葉は、相手に刺さる前に床に落ちたのか、母親は笑い出した。
「残念ながらあんたはあたしの子よ。高校生の時の私とそっくり」
母親は目を三日月のように細めて栞を嘲笑った。
「自分が世界で一番不幸みたいな目をしてる。自分の境遇も性格も何もかも周りのせいにしてる。でもね、今の自分は全部あなたが今まで生きてきた結果よ。他の誰のせいでもない」
母親の言うことを理解できてしまう自分が悔しかった。父親に言った内容を母親にそのまま言い渡され、父親がどれだけ屈辱的だったか身を持って思い知った。
「さっきも言ったけど、出ていきたければ好きにしなさい。女なんだからいくらでもやりようはあるわよ」
「どういう意味?」
「今あんたが持ってるブランドはもう私が欲しがっても二度と手に入らないものなのよ? 使わない手はないでしょう?」
栞は目の前にいる人が自分の母親だと認めたくなかった。
「若いうちだけよちやほやされんのは。あたしなんてどんだけイジったと思ってんのよ」
栞は最近母親の顔をしっかりと見たことがなかったが、確かによく見ると目や鼻、年齢にしては若すぎる肌も天然のものではなくなっていた。
「罪悪感なんて最初だけよ。一回始めたら後は何回でも一緒。ああでも、あんたまだ男知らないか。だったら最初くらいは選んだ方がいいかもね」
「いい加減にして!」
栞は我慢の限界だった。視界に映すのも声を聞くのも、同じ空気を吸うことさえも耐え難い。存在自体が憎い。
「なあにそんなに怒ちゃって。あたしが何か間違ったこと言った? 男が若い女を求めるのも、女が体を売るのも事実よ? 昔から何一つ変わらない。これが現実なの。綺麗事だけじゃ生きてはいけないの」
「確かにあんたの言うことは間違ってない。でも、あんたも現実を受け入れられてないじゃない」
「どういう意味?」
母親は口角は上がっているが、目は笑っていなかった。
「整形したり、若作りしたり、それで男を取っ替え引っ替えして。そんなの全部現実の自分を受け入れられてない証拠じゃん! そんな見た目だけで空っぽなあんたには何も残ってない」
母親の顔からは笑顔が消えていた。
「私のこともあの人のことからも目を背けて、他の男にすがって、みっともなくないの? なんで離婚しないの? なんであの人に何も言わないの?」
母親の顔は俯いて前に垂れ下がった長い髪のせいで見えなかったが、何か言おうとしているのはわかった。
「黙ってないでなんか言ってよ! 私は今まで二人のことを避けてきた。この二人が両親だって認めたくなかった。でも私は二人から生まれたってことは変えようもない現実だから、今こうして向き合おうとしてるの」
父親も母親も嘲笑うかのように栞を自分の子供だと言った。伝え方や普通の親が子に対して言う言葉ではなかったが、それは二人とも心のどこかで認識している。まだ今を変える希望があるはずだ。
「ねえ、お母さん!」
栞の言葉にゆっくりと顔を上げ、髪の隙間から見えた母親の顔に背中の毛が逆立った。栞の目に映る母は知らない人のようだった。
「初めはあたしだって二人のために何とかしなきゃって思ってたわ。事業に失敗して落ち込むあの人を励まして、また立ち直るまであたしが支えないとって。でも、あの人にあたしの言葉は届かなかった。身を粉にして働いてる自分が馬鹿らしくなってきたわ。なんでこんな人のために頑張ってるんだろうって。自分のために生きたっていいじゃないかって」
母親の心の内を栞は初めて知った。普段着飾って、整形までして作り上げた鎧は、自分自身を守るためのものだったのかもしれない。
「私たち家族はもう元通りにはならないわ。遅すぎたのよ。私も今さら今の生活はやめられない。あんたも好きにしなさい。高校出るまでは面倒見るだけの良心は残ってるわ」
そう言った母親は自室へと消えていった。母親もまた、現実から逃げるために必死だったのかもしれない。
誰しも受け入れがたい現実がある。それを何とか変えようとする人も、耐えきれずに逃げてしまう人もいる。逃げた人を責めることはできない。人間はそんなに都合良くできていないのだと栞はよく知っている。
今日だけで、栞は父親と母親の二人と向き合った。それは想像以上に残酷で散々な思いをした。物語なら、ここから両親が改心してもう一度家族関係をやり直すことができるのかもしれない。栞の訴えが物語でその重要な役割を果たしただろう。
しかし、これが現実の世界なのだ。物語に無駄なことがなくても、現実では無駄になることばかり。栞は自室に戻ると、今まで我慢してきたが本を手に取った。心を落ち着かせるためには本を読むしかない。物語の世界に堕ちなければという一種の脅迫観念に似たものを感じていた。
しかしいくら読んでも文字が頭に入ってこない。ページを何度も捲ってみても物語を読むことができない。文字はぼやけ、やがてページにいくつもの染みを作った。
現実と向き合ったのは初めてと言って良い。自分なりに努力したつもりだった。その努力は無駄だったのかもしれない。現実はままならない。
努力が必ず報われるとは限らない。努力しても叶わないこともある。できないことはできない、それが現実だ。
本は涙で読むことはできなかったが、栞はある物語を記憶から引っ張り出した。それは高校球児の物語。
主人公は野球部のエース。実力があるだけでなく、情に厚く、周りから信頼されている。一方、小学生の頃から一緒に野球をやってきた親友は補欠。全体練習も自宅での練習も人一倍努力をしていた。しかし、最後の夏の大会で親友はレギュラーを勝ち取ることはできなかった。
親友は野球の練習に出ず、受験勉強をするようになった。それを主人公は最後まで一緒に野球をしようと説得する。しかし、エースである主人公の言葉は補欠の親友には届かない。
主人公は初め、ありきたりな言葉を並べていたが、それは親友の心を踏みにじっていると気付き、自分が本当に思っていることを伝えた。
『お前が誰よりも努力してきたことは知ってる。試合に出るために野球をやってきたことも知ってる。でも、努力が報われないこともある。誰にだって得手不得手はあるし、努力しても要領良く身に付けられない人も今までたくさん見てきた。そう考えると、お前は努力が下手な人かもしれない。それでも俺は、一つのことに全力を注げるお前を尊敬してる。試合に出れないから野球をやめるなら、俺のために最後まで野球をやってくれよ。お前がいない野球は、俺にとっては野球じゃない。お前がいないと勝ったって意味ねえよ』
親友は、主人公がその言葉を言うのにどれだけ勇気が必要だったのかを察し、最後まで主人公と野球をすることを約束した。
結局彼らは県大会途中で敗退してしまうが、親友は負けた時に主人公に礼を言うのだった。
『お前と野球ができて良かった。俺に、悔しい思いをさせてくれてありがとう』
どれだけ頑張っても無駄になることもある。しかし、その無駄な努力に意味をつけるかどうかはその人次第だ。堀北がかつて言っていたように、人生とは意味付けをしていくことだ。栞も今、今日の努力も必要なものだったと思うようにしている。
しかし頭で考えていることと体は思うようにリンクしない。栞の目からは止めどなく涙が溢れていた。
その時携帯が着信を知らせた。画面に表示された名前を見て、栞は余計に涙が止まらなくなった。
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