4-2
栞を責め立てた父親はその足で家を出ていった。おそらく虫の居所が悪くて酒でも飲みに行ったのだろう。
部屋を片付けた後、栞は堀北に連絡を取ろうか悩んで、何度もメッセージを打ち込んでは消してを繰り返した。
栞とは比べ物にならないほど辛く苦しい思いをしている堀北に、自分の話を聞いてくれなどと言えるはずがなかった。堀北の容態も気になったが、あちらから連絡がくるまで待つことにした。
家にいるのが嫌になって栞は外へ出掛けた。父親に殴られた左の頬が腫れて目立つため、大きな麦わら帽子を被ることにした。それを被れば栞の顔よりも帽子に目がいくだろう。
栞はあてもなく歩みを進め、途中木陰で休みながらどこまでも歩き続けた。本を読んでいなければ現実についてあれこれ考えてしまう。しかし今は、ようやく踏み出した一歩を無駄にしたくなかった。無理矢理にでも現実に向き合わなければならないと感じていた。
父親のこれまでの行いを糾弾した。父親にとっては実の娘にかなり屈辱的なことを言われただろう。しかし彼自身も認めざるを得ないことだったはずだ。その何よりの証拠が栞の腫れた左頬だ。
父もまた、栞と同じように現実から目を背け、その結果酒やパチンコに逃げ込んでいたのかもしれない。そう思うと、父親を罵ったことに罪の意識を感じ始めた。
父親には、栞にとっての堀北のような人がいなかったのだ。現実の世界に引き戻してくれる人が父親の側にいたら、今の彼とは何か違ったかもしれない。
最寄り駅の五つ隣の駅まで来て、栞は駅前の本屋を見つけて入ろうとしたが、店の前で入るのをやめてその隣の喫茶店に入った。今本屋に入ると、また物語に逃げてしまいそうだったからだ。
落ち着いた雰囲気の店内は、かつて堀北と一緒行った喫茶店に似ていた。カウンターの席に座り、アイスカフェオレを注文した。カウンターの中にいた愛想の良い二十代くらいの女性店員が栞にアイスカフェオレと小さなクッキーが一枚乗ったお皿を出してくれた。
「これ今日試作で作ったものなのでよかったら」
クッキーを指して女性店員がニコッと笑った。
「ありがとうございます」
長距離を歩いて火照った体に冷たいカフェオレが染み渡る。貰ったクッキーを一口食べると、ホロホロと崩れる食感の中にいくつかのスパイスの香りを感じた。
「美味しい……」
思わず口から出た言葉が女性店員の耳に入ったのだろう。視線を感じて栞は顔を上げた。
「どうです?」
「おいしいです。初めはシナモンかなと思ったんですけど、他にも色んな香りがして」
「そうなの! 色々ブレンドしてるんですよ」
嬉しそうに話す女性店員は敬語とタメ口が入り混じっていたが、嫌な感じはせず不思議と初対面な気がしなかった。
「この一番香ってくるのは何でしょうか?」
「一番香るのですか? なんだろう、カルダモンかな? よくチャイに入ってるやつ」
「チャイってインドの飲み物ですよね?」
「そうそう! 本場のチャイは美味しいですよ。一度インドに行った時に飲んで以来
照れる女性店員の仕草は、同姓の栞から見てもとても可愛らしいものだった。
「高校生ですか?」
「あ、はい」
「若いなぁ。女子高生なんてもう十何年前だろう」
栞はその言葉に驚いた。二十代と思われたが、その言葉通りに聞くと既に三十代手前、もしくは三十代ということになる。
「あ、年齢バレちゃうね」
ペロッと舌を出す仕草も二十代にしか見えなかった。
栞は仕事に戻る女性店員の後ろ姿を見て、ある物語を思い出していた。それは喫茶店を営む魔女の物語。
魔女は人間から若さを奪い取り、何百年も美貌を保っていた。ある時一人の男と恋に落ち子供を授かったが、魔女は愛する夫と息子が日に日に体調を崩していくこと気づいた。奪っていたのは若さではなく、人の生命力だったのだ。
魔女は愛する家族から離れる決心をしたが、やはり忘れられず、遠く離れた地で喫茶店を営み、やってくる客からほんの少しずつ生命力を貰いながら、いつか愛する家族と再び出会う日を夢見ているというものだった。結局魔女は百年の間喫茶店を続けていたが、夫と息子に出会うことはなかった。
物語に思考を巡らせていた栞に、再び視線を注ぐ者の気配を感じてそちらに目を向けると、女性店員とぴったり目が合った。薄い茶色がかった大きな瞳は見つめているだけで吸い込まれてしまいそうな魅惑が感じられた。
「もしかして、何か悩んでることある?」
「悩み、ですか?」
「私、不思議とそういうのわかっちゃうんだよね」
栞は目の前にいる人は本当に魔女なんじゃないかと思った。
「なーんて、悩んでますって顔してるからだよ。名前なんて言うの? 私はカレン」
「花木栞です。珍しいお名前ですね」
「これでも純日本人よ。で、何悩んでるの?」
栞は事細かく話すことは避け、親と喧嘩したとカレンに言った。
「親子ゲンカかぁ。それもただの親子ゲンカじゃないわけだ? 失礼を承知で言うけど、どうしようもない親でしょ?」
栞は驚きのあまり声がでなかった。敢えて両親の振る舞いを避けて話したにも関わらず、カレンはそれを見抜いたのだ。
カレンは栞の驚く顔を見てクスリと笑い、カウンターの中で何かしていたかと思うと、袋に入った氷を差し出した。
「その顔見ればすぐわかっちゃうよ」
栞は自分の左頬が腫れていることを思い出し、礼を言って氷嚢を受け取った。
「私はね、色々あって親の顔を知らないの。だから親子関係っていうのは自分の子供に対してしかわからない。言い訳でしかないけど、今は息子と離れて暮らしてるの」
栞はまさかカレンに子供がいたとは思いもよらず、またしても驚いてしまった。
「自分の事を棚に上げるつもりはないけど、親だって人間なんだよ。そこはあなたと何も変わらない。人間なんて弱くて醜くて、でもそこが愛らしいんだけどね」
カレンの顔は笑っていたが、どこか寂しげで、彼女をより魅力的に見せた。
「残酷なことを言うようだけど、親子でもわかり合えないことはあるよ。その時は無理に関わる必要ないと私は思う。栞ちゃんの命は栞ちゃんだけのものだから。人生は自分で作るの」
父親に言われた、子供は親の言うことを聞いていればいい、という言葉の正反対のことを言われて、栞は救われた気がした。
「……とても、素敵な考えだと思います。カレンさん、なんだか物語の主人公みたい」
「なになに? コーヒータダで飲もうとしてる?」
おどけたカレンが面白くて栞は笑ってしまった。
「いい顔できるじゃん」
カレンに言われて、栞は堀北と出掛けてから自分が笑っていなかったことに気がついた。
それからしばらく雑談をして、飲み物がなくなったところで栞は席を立った。
「また、来てもいいですか?」
栞の問いにカレンは笑顔で答えた。
「次は彼氏も連れてくるんだよ」
「いや、彼氏はいないです」
「じゃあ栞ちゃんが想いを寄せてる人かな?」
栞が出ていくとき、カレンはありがとうございました、をご馳走さまでしたと言い間違えて、恥ずかしそうに間違えちゃったと言っていた。
栞はカレンがやっぱり魔女なんじゃないかと思ってから、子供染みた考えはよそうと思ったが、もし本当にそんな物語のようなことがあったらどんなに素敵だろうと考えていた。
喫茶店で思い出していた魔女が出てくる物語には続きがあった。愛する夫と息子に会うことは叶わなかった魔女だったが、息子にそっくりの客と出会う。実はその息子が自分のひ孫だと知った魔女は涙を流しながらこう言うのだ。
『あなたが今ここにいること、それだけで私は店を続けてきた意味があったわ。あなたがこれからどんなに辛くて苦しくて、生きることを辞めたくなった時はここに来なさい。私は一生あなたと、あなたの家族の味方でいるから』
例え何があっても、必ず自分の味方で居てくれると信じることができる人がいるだけで、人は強くなれるのだとその物語は教えてくれた。
堀北の言葉が、堀北という存在が、自分を強くしてくれた。堀北が辛く苦しい思いをして、生きる気力を失いそうになることがあるならば、他の誰でもない栞が、堀北の力になりたい、生きる支えになりたいと、栞は夕方の道を歩きながらおこがましくも思っていた。
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