4 現実の世界

4-1

堀北の祖母の家に泊めてもらった翌朝、栞は一人で東京へ戻った。帰る前に堀北の顔をもう一度見ておきたかったが、なるべく早く帰ろうという意志が勝った。


昨晩、父親から『どこにいる 無断外泊は許してない 今すぐ帰ってこい』という連絡が入った。初めての父親からのメッセージは、文字の裏ではかなり気が立っている予感がした。


駅で堀北の祖母はまたいつでもおいで、と優しく送り出してくれた。他人の栞に対してこんなに親切にしてくれる人がいる一方で、実の娘に対して今まで放置してきたことは棚に上げて急に父親振る人もいる。そんな父親に栞は腹を立てていた。


あまり寝られていなかった分、新幹線の中ではよく眠れてすぐに東京に着いた。寄り道せずに自宅まで帰ると、家に誰もいなくて拍子抜けした。あんなメッセージを寄越しておいて父親はまたパチンコにでも出掛けているのだ。


自室に戻り一日振りに本を読む。一日以上本を読まなかったのは栞が物語の世界に逃げ込むようになってから初めてのことだった。栞は本を読み始めると、まるで鎖から解き放たれた猛獣が目の前の獲物に食らいつくように本を読み漁った。


次から次へと本を読みながら、内容は頭にほとんど入ってなかったようにも感じていた。


玄関の扉が開く音が聞こえて栞は現実に引き戻された。ガサツな足音で栞の部屋に近づく人が父親だとすぐにわかった。


ノックもせずに扉を開けた父親は、目蓋が重そうで頬が赤く、酒を飲んでいたようだった。


「お前昨日どこ行ってたんだ」


「友達の家」


「お前に友達なんかいるわけねえだろ。こんな地味でパッとしねえやつによ」


父親は辛うじて呂律は回っているが、頭は上手く働いていないような話し方だった。口を開く度にアルコールの臭いが鼻を突く。


「どこのどいつだよ」


「誰だっていいでしょ」


「……男か?」


栞はその質問に答えなかったが、その事をすぐに後悔した。赤かった父の顔が更に赤みを増していくのが見てとれた。


「てめえもそうなのか! あの女と同じか!」


父親の言うあの女とは母親のことを指している。


「男に媚売って求められることに執着してんのか!」


「そんなんじゃない。あの人と一緒にしないで」


栞の言葉は温度が下がり、どろどろとした感情を帯びる。


「はっ! 一緒にすんなって、残念ながらお前にはあの女の血が流れてんだ。どう足掻いたってそこは変わらねえ。お前もあいつと同じだ」


「そこまで嫌いならなんで結婚なんてしたの?」


今の質問は父親にとっては答えにくいものらしく、一瞬怯みを見せた。


「結婚したときはあいつもあんな人間じゃなかった。俺が事業に失敗して、あいつが働き始めてからだ、おかしくなっちまったのは。俺だってなんとかしたかった。でももう俺にはそんな気力は残ってなかった」


栞は目の前で子供のような言い訳を並べる男が酷く醜く見えた。


「結局何もしなかっただけじゃん」


父親に対する言葉は、栞自身への言葉でもあった。


「自分のことを棚に上げといてよくそんなことが言えるね」


「なに?」


栞の言葉に反応して父親の眉間に皺が寄る。


「毎日酒飲んでパチンコ行って、私の電車代とかくれてるのはお母さんだよ。あの人もあの人だけど、あんたよりマシなんじゃない?」


父親は実の娘の胸ぐらを掴んで殺気を帯びた目で睨み付けた。栞はそれに動じない。


「なんでもいいから働けばいいじゃん! お母さんが嫌なら別れればいいじゃん! なんで何もしないの! それじゃ何も変わらない! 何のために生きてるの!」


栞が父親に投げつけた言葉は、堀北と出会ってから自分自身に問い続けてきたことだった。


次の瞬間、視界が瞬き、体が横に吹き飛ばされた。何が起きたかわからなかったが、左の頬が熱を帯び始め、父親に殴られたのだと知った。


「親に向かって生意気な口利き方するな!」


恐怖、悲しみ、痛み、怒り、混ざり合った感情が栞の頭を支配し、自分でも自分の心の状態がわからなくなっていた。


「今さら父親振らないでよ! あんたがあたしに何をしてくれたの? 何を与えてくれたの? 常識も、人との関わり方も、生き方も、愛情も何一つ私に教えてくれなかったじゃない!」


「黙れ!」


父親は栞の部屋にある本棚を勢いよく殴った。バサバサという音と共に本が床に落ちる。


「お前が生きてるのは親がいるからだ。俺たちがお前を作ったんだ。子供は親の言うことを聞いてればいいんだよ!」


床に落ちた本を無造作に蹴り払い父親は大袈裟に足音を立てながら部屋を出ていった。


栞は荒らされた部屋をしばらく呆然と眺めていた。鼻をすすったときに、自分が泣いていることに気づいた。


散らばった本を丁寧に拾い上げながら、栞は今まで現実から目を背けてきたことの代償を思い知らされていた。


家族関係がここまで崩壊する前に何かできたのではないか。栞がもっと上手くやって両親の間を取り持てば、ここまで酷くはならなかったのではないか。


初めて自分の気持ちを父親にぶつけてみたが、栞の言葉が父親に届いたとは思えなかった。壊れてしまったものは元には戻らない。また新しく作り直すことも栞の家族には手遅れなのかもしれない。


父親が蹴り上げた本の中にページが折れ曲がってくしゃくしゃになっているものがあった。数年前に読んだその本は、崩壊した家族がもう一度やり直すという物語だった。


家族だから、一緒にいるから、絆があるからなどと理由をつけてわかり合おうとしてこなかった家族がぶつかり、思っていることを言い合い、そして受け入れる。


『家族だって人と人の集まりであることには変わりない。結局はわかり合おうとしなければ、上手くいくはずなんてなかったんだ』


最後に末っ子が言った言葉が印象的だった。栞はこの本を読んだとき、自分の家族と物語の家族を重ね合わせたが、現実はこんなに上手くいくはずがないと思ってしまった。


先延ばしにした結果が今の栞の部屋に現れている。それでも栞は思っていることをぶつけて良かったと感じていた。


堀北と出会い、現実と向き合う覚悟をした。堀北と対等でいたい。堀北の生きる世界、現実の世界で堀北と向き合いたい。そのためには栞が物語にすがることを辞めなければならない。


栞は今日、その一歩を踏み出したのだ。


現実には辛いこと、苦しいこと、理不尽なことはたくさんある。しかし、綺麗なものもたくさんある。物語の世界にはない、現実でしか味わえないこともあると、堀北は教えてくれた。


今栞の目から涙が溢れるのも、左の頬がズキズキと痛むのも現実だから味わえることなのだ。


栞は部屋を片付けながら、無性に堀北の声が聞きたくなった。

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