3-5

感覚ではとてつもなく長く、残酷な時間を過ごしていた。堀北は無事なのか、それだけを待ち続ける時間など栞には耐えがたかった。


堀北の祖母は祈るのを止めており、呆然と目の前の空間を見つめるだけだった。昼間会った時よりとも数段老け込んだように見えた。


「ゆうちゃんは……強い子なんだよ」


ぽつりと独り言のように堀北の祖母が話し始め、栞は黙って耳を傾けた。


「昔からやんちゃで、うちに来てはいつも泥んこになって帰ってきてたよ。でもどこか大人びていて、たまにこの子は本当に子供かね、と思うことを言う時もあったよ。なんにせよ、私にとってはかわいい孫だけどね」


掠れた声は聞き取るのがやっと、意味は遅れて理解できた。


「それが神様はなんて残酷かね。中学生の時だったか、突然病に冒されてしまったのは。治療で治る確率が昔よりは上がってるみたいで、懸命に治療していたよ。あんなに小さな体で病と闘っていた姿を見たときは、代われるものなら代わってやりたかったよ。痩せ細って、髪の毛も抜け落ちて、見るのが辛かった」


栞は堀北が過去にそんな闘病生活を送っていたとは知らなかった。今は体格もしっかりしていて、今の話を聞いても全然ピンとこない。


「でもゆうちゃんは病に打ち勝った。治療生活を終えて元気に学校に行って、こうしてお友達と楽しく過ごしているのを知って、どんなに嬉しかったか。なのに、なのにどうして神様はまたゆうちゃんに試練を与えるのかね……。あの子は十分頑張ったっていうのに」


試練とは堀北が言っていた病気が悪化したということを指しているのだろう。世の中には完治したと思われても再発する病気がある。癌や白血病なんかがそうだということは栞も知っている。


「栞さん、ゆうちゃんとずっと仲良くしてやってちょうだい」


「もちろんです。言われなくても」


話している二人のもとに医者がやって来て、話がしたいと堀北の祖母を連れていった。一人残された栞は堀北と出会ってからの日々を思い出していた。


図書室で出会った堀北の最初の印象は変わってる人だった。本を呼んでぼろぼろと泣きながら笑顔で栞に本を薦めてきた。その後も図書室に来るようになって、暗くて地味で、いつも一人でいる栞のような人に話しかけてきた。栞は今までそんな人に出会ったことがなかった。


登校中にお菓子を食べ、ズレた発言をしたかと思えば、急に真面目な顔つきになって考え込まれた人生観について話してくれた。


自分たちが読んだ本の内容を紹介し合って、捉え方の違いや好きなシーンについて語り合い、栞は人生で初めて読書仲間ができた。


物語にばかり目を向け、現実にも人にも興味を持たなかった栞が人と話すようになり、現実の世界も悪くないということを堀北は教えてくれた。栞も最近は本を読みながら、このシーンは堀北が好きそうだとか、きっと感動して泣くだろうなと、物語に入り込んでから外の現実世界へと抜け出すようになっていた。


しかし、そんな微かな希望を踏みにじるかのように残酷な現実が栞を襲っている。やはり現実は不確実で、変わっていってしまうものなのだと言われているような気がした。


栞は落ち着かず、立ち上がって病院の中を歩いて回った。外はすっかり暗くなっていて、病院内は静かで、無機質な冷たさを感じる。


栞は夜間通用口を出て外に出た。都会とは違い、気温は下がり、風が吹くと肌寒い。敷地内を散歩していると古びたベンチが目に入り、そこに座った。


空を見上げると都会の数倍、数十倍の光が散りばめられていた。栞はある物語を思い出していた。それは病に冒された主人公のもとに一匹の猫が現れるファンタジーの物語。


生まれた頃から病弱な主人公は病院の窓から見える景色、時折夜に抜け出して見上げる星に嫉妬する。人間に生まれてきたがために病院という檻に閉じ込められている境遇を呪った。草木や動物は病に冒されればその運命を受け入れ死んでいく。自分はなんのために生き永らえているのか。親に迷惑をかけ、人の世話にならないと生きていけない体に存在意義を見出だせなかった。


しかし、ある時一匹の三毛猫が主人公の前に現れ、人の言葉で会話をするのだった。その猫は外の世界を知ることができない主人公のために、病院の外の風景を話した。そこで少し可笑しいのは猫目線の世界であるため、スケールの大きさや、人を見る目、一日の過ごし方が猫らしくて可愛らしいのだ。


大きな手術を控えて弱気になっている主人公に、その三毛猫は勇気を与える。


『私と世界を旅しよう。美味しい魚やお肉を優しい人に分けてもらいながら、疲れたらゴロゴロして、時間を気にせず歩く。君は私のために生きてくれよ』


人のために生きるということを考えたことがなかった主人公は、誰かに必要とされることの嬉しさを知る。無事に手術を終えた主人公が猫に会いに行くと、そこには小さな野ねずみの死体がぽつんと置いてあるだけでそれきり会うことはできなかった。


しかし主人公は猫の言葉を胸に、世界を旅して、いつかまたその猫に会うことを期待して生きていく。


この物語では、生きる意味を見失っている主人公が病に冒され、彼を外の世界へ連れ出すのが三毛猫だ。栞と堀北に置き換えると、生きる意味を見失っているのは栞、外の世界へ連れ出す堀北が病に冒されている。


堀北は友人や、祖母、家族から必要とされているにも関わらず、病を抱えている。一方栞は健康であるにも関わらず周りから必要とされず、生きる意味がわからないなどと贅沢な悩みを抱えている。栞は自分自身が恥ずかしくなった。


どのくらいの時間そこに座っていたかはわからないが、電話が鳴り、堀北からの着信で慌てて出ると、堀北の祖母が堀北の携帯を使ってかけてきたらしく、戻ってくるようにという内容だった。


待合室に戻ると堀北の祖母が病室の中へと栞を促した。堀北は腕に点滴がつながれ、眠っていた。


「私には難しいことはわからないんだけどね、なにかの数値が悪くなったみたいで、ゆうちゃんはまたしばらく病院にいなきゃいけないそうな。今日はもう遅いから泊まっていきな。お家の人にそう連絡しなさい」


堀北の祖母にそう言われたが、栞は両親に連絡しなかった。普段から栞が家にいるかどうかなど気に留めない人たちだ。一日家を空けたところで差し支えないだろう。


堀北の祖母が運転する車で家に戻ると、栞はタオルと着替えを持たされて風呂場に押し込まれ、風呂から上がると既に客間には布団が敷いてあった。


「お腹空いてないかい?」


そう言うと堀北の祖母は返事を待たずに冷蔵庫からあれこれ小皿に盛られたものを机に並べた。


「何から何まですみません」


栞は机に並べられたものを全て食べてしまい、自分が空腹だったと知った。その後はお互い気疲れをしていることもあり、栞は客間に戻った。


電気を消して布団に入ったものの、栞は中々寝付けず縁側に出た。雨のせいで水分をたっぷり含んだ空気は、腐葉土の不思議と懐かしい香と少し刺激のある草木の濃い匂いを運んできた。


栞は自分の両親について考えていた。もはや見ることも、声を聞くことも避けてきた両親について頭を働かせるのは何年振りだろうか。しかし栞は今、自分の家族を受け入れなければならないという気がしていた。


それは堀北が倒れたことと、孫を心配する堀北の祖母を見たからかもしれない。しかし栞は堀北に出会ってから、ずっとそうしなければならないと分かっていながら気付かぬ振りをしてきた。


物語の世界に引き込もっていては、栞は一生このまま変わることはない。現実を受け入れ、向き合い、その上で自分の身の振り方を決めなければならない。


現実から目を背けたままでは、この先堀北と関わることに罪悪感を抱くようになるだろう。そして、栞はそれがすごく自分にとって嫌なことだと分かっていた。


栞の生きる物語の中に、堀北が存在しないことなど考えられない。仮に大人になって疎遠になったとしても、栞の物語の中に堀北は存在し続けるだろう。それだけ、彼は大きな影響を持って栞の前に現れた。


物語の外の世界へと、栞は踏み出さなければならない。そう決心を固めたところで、栞の決断を嘲笑うかのように携帯に一通のメッセージが届いた。

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