3-4


昼食を終えて少し休憩したあと、栞は堀北に連れられて散歩に出掛けた。気温は高く、日差しも強かったが、時折吹く風がその分心地よく感じられた。


「小さい頃よく遊んでたなー。近所に住んでる子供と仲良くなってさ。名前もわからない相手だけど」


「子供の時って不思議と仲良くなれるって言うよね」


栞も遥か彼方の記憶を引っ張り出せば、小さい時公園で見知らぬ子供たちと遊んだことがあるような気がしないでもない。


「そうだ。ファンタジーなんだけど、こんな本知ってる?」


堀北が話した物語は、田舎の祖父母の家に遊びに来た小学校低学年の少年が、不思議な雰囲気を持つ同年代の少女に出会うというものだった。少女は少年が悩んでいる話を聞いて寄り添い、孤立している少年を支え、認めてあげる。そして物語の最後には、その少女は亡くなった少年の母親だったということがわかる。少年は母の愛を知り、生きることに前向きになるという物語だった。


「読んだことはないけど、とても良い話だね」


「でしょ? なんて名前だったかなぁ。おじいちゃんが教えてくれた本なんだよね」


「おじいさんも本を読む人だったの?」


「うん。俺はそんなに本を読む子供じゃなかったけど、おじいちゃんが薦めてくれた本はなんか読めたんだよね」


堀北は栞のように本をたくさんは読んでこなかったらしいが、本を読むことには慣れているように見えた。おそらく堀北の祖父の影響なのだろう。


「その本に男の子が生きてるのが辛いって泣き出すシーンがあったんだ。その時女の子、お母さんの言葉でね、『私は生きてほしい。どんなに辛くても苦しくても、生きていてくれる、それだけで嬉しい』って言ったんだ。親がそう思うことに読者は不思議に感じないけど、男の子はこの女の子がお母さんだって知らない。でも不思議と男の子の心に届くんだよね。きっと無条件で認めてくれるっていうのが姿は違っても伝わったんだろうね」


堀北が教えてくれた物語はとても良い話だったが、栞にとっては現実を突きつけるものだった。栞は無条件で親に愛されなかった人間だ。この世界のどこを探しても、栞を無条件で認めてくれる人はいない。


「でもここで違った解釈をしてみようか」


「違う解釈?」


堀北は人差し指を立てて得意気に顎を上げた。


「男の子にとっては母親ではない、仲の良い友達。その友達の言葉でも信頼している相手なら届くってことなんだよ」


「……さっきと矛盾してない?」


「だから違う解釈! 俺が言いたいのは、親じゃなくたって無条件で認めてくれる人はいるってことがこの物語からわかるってこと」


その時栞は、堀北が栞のためにこの解釈を話してくれたと気付いた。


「そんな、気を遣わなくてもいいよ」


栞は愛された人に囲まれている堀北に言われると惨めな気持ちになった。栞は堀北から見てもかわいそうな人間なのだ。


「俺が気を遣って話してると思う?」


栞は堀北の顔を見て目を逸らした。堀北は嘘偽りない目をしていた。


「俺は、花木さんを無条件で認めてるよ」


「……なんで?」


「俺は友達だって思った人はみんな認めてるから。俺の見る目は確かだからね」


自信たっぷりに言う堀北を見て、栞はなんだかおかしくて笑った。


「え? 俺今面白いこと言った?」


「ううん。ただ笑いたい気分なの」


笑い続ける栞に堀北は変わってるね、と言ったが、変わっている人に変わっていると言われるのは全然嫌ではなかった。





随分と遠くまで歩いてきて、堀北は栞を山道へと案内した。昔よく遊んでいた場所らしい。


「この辺りが一望できるところがあるんだ」


堀北の後に続いた栞だったが、思ったよりもキツい山道で、徐々に堀北との距離が開いていった。


「ごめん早かった? なんだかわくわくして早足になってた」


そう言う堀北も汗をたくさん流し、疲労の色が見えた。少し休憩しようと木陰に二人で並んで座った。座ったところから地面の冷たさが伝わってくる。


「天気悪くなってきたね」


堀北に言われて空を見上げると、さっきまで晴れていた空が厚いねずみ色の雲で覆われていた。休憩はそこそこにまた歩き始めて十数分。


「ここだ! 着いたよ」


堀北に連れられて来た場所の眺めはとても心が落ち着くものだった。一面に広がる水田、その中にぽつりぽつりと家があり、視界の果ては山、その上には空。綺麗な夜景や荘厳な自然が見えるというわけではない。夜になれば真っ暗で何も見えなくなるだろう。しかし、自然と人が共存している日常がそこにはあった。


「どう?」


「気に入った」


「よかった」


自然と会話は少なく、二人でしばらく時の流れに身を任せていた。


しかし、いよいよ空が不機嫌になり始め、このままでは帰り着くまでに雨に打たれそうだという空模様になってきた。


「そろそろ帰る?」


栞は堀北を見て異変を感じた。明らかに顔色が悪い。血の気が引いて、呼吸が浅い。


「大丈夫?」


「ちょっと……張り切りすぎたかも。もう少し休んだら、歩けると思う」


栞はとても堀北が歩けるような状態ではないと思った。それに休んでいたらそのうち雨が降りだしてずぶ濡れになることが予想できた。


「堀北、ケータイ貸して。おばあさんに連絡しよう」


堀北はゆっくりとした動きで栞に自分のスマートフォンを渡した。栞は連絡先の中から『ばあちゃん』と書かれている電話番号に電話をかけた。しかし、堀北の祖母は電話に出てくれなかった。


「あんまりケータイ見ない人だからね……」


遂に空が限界を迎え、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。栞は堀北を木の下の雨があまりかからないところまで連れていった。


「ごめん……最近、調子良かったから……大丈夫だと思って……油断した」


栞も堀北が体に病を抱えていることをほとんど忘れかけていた。激しい運動ができない体と言われていたが、正確なことは堀北に聞けずにいた。


栞は目に見えて苦しさが増していく堀北をこのまま放っては置けず、決断をして立ち上がった。


「ここで待ってて。通りかかる車に助けを求めてみる」


栞の言葉に堀北は弱々しく頷いた。栞は走って来た道を引き返した。ここに来るまで通りかかった車は数台。最悪山の下まで降りてみるしかない。雨は時間が経つにつれてどんどん勢いを増し、雨滴が地面を跳ねるほど強くなっていた。


走り始めて数分、一台の車が山道を上ってくるのが見えた。栞は立ち止まって大きく両手を上げた。しかし速いスピードで駆け上る車は止まってくれず、栞に水をかけて去っていった。


栞はもう一度山を駆け下りた。何度も転びそうになりながらも懸命に足を動かした。すると再び一台の車が栞に向かってやってきた。


栞は何としてもこの車の人に助けてもらおうと、車道のど真ん中に立って両手を広げた。


「止まってください!!」


栞に気付いた車両は数十メートル手前で止まった。栞が車に駆け寄ると、運転席の窓が開いた。


「なぁにやってんだこんなとこで! 危ねぇだろ!」


訛りの入った話し方の老人は怒り半分、驚き半分といった様子だった。


「友人が……動けなくなってるんです! 助けてください!」


「んなこと言ったってよぉ」


「お願いします!」


栞は頭が太ももにつくくらいに体を折り曲げた。栞の緊迫感が伝わったのか、老人は栞を助手席に乗せてくれた。堀北のもとへ向かう車はやけに遅く感じた。


堀北を置いてきた場所に近づくと、横たわる人が見えて栞の心臓は跳ね上がった。


「停めてください!」


老人は慌ててブレーキを踏み、車が完全に止まる前に栞は車を降りて堀北のもとに膝まづいた。


「堀北!」


堀北は意識を失い、顔は陶器のように青白かった。


「ねえちゃん、こいつぁやべえんでねえか。速くその兄ちゃん車に乗せろ」


「救急車を……」


「車で運んだ方がはやぐ着く」


老人と二人で堀北を後部座席に寝かせ、老人が運転する車で大学病院へと向かった。栞は道中何度も後ろを振り返り、堀北を確認した。栞には堀北がどんな状態なのかわからなかった。ただ早く医者に診せた方が良いということはわかった。


車で三十分は走っただろうか、いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から光が差し込んでいた。


病院に着き、中に駆け込んだ栞が急患がいることを伝えると、すぐに手の空いた医者と看護士が堀北を診てくれた。


医者が診ている間、栞と老人は待合室で待っていた。栞は今になって老人にお礼を言っていないことに気付き、頭を下げた。


「いいんだよ。それより、兄ちゃんなんともねえといいけどなぁ」


十五分ほど待った頃、看護士の一人が栞と老人のもとへやって来た。


「先ほど運ばれてきた方のお連れ様ですよね? これから血液検査を行います。ご家族の方ですか?」


「いえ、友人です」


「ご家族の方には障害者手帳に書かれていた連絡先へ電話をしてあります」


するとそのタイミングで、一人の看護士に連れられた堀北の祖母が取り乱した様子でやって来て栞にすがり付いた。


「ゆう、ゆうちゃん……ゆうちゃんは……!」


「落ち着いてください。今検査をしてますので」


栞から引き離され、その場に座らされた祖母は両手を体の前で合わせ、祈るように擦り合わせていた。


栞はここまで連れてきてくれた老人はそろそろ帰ると言い、後日お礼をさせてほしいと連絡先を聞きこうとしたが、老人は気にすんなと言って帰っていった。


看護士の一人に呼ばれ、ここまで来た経緯を説明し、たまたま手が空いていたから診れたものの、次は必ず救急車を呼ぶようにと少し説教をされた。


栞の横には気が動転した堀北の祖母が座り、状態のわからない堀北を待つ待合室はひどく静かで、栞はこの状況から逃げ出したくなった。今回の堀北との遠出に本を持ってこなかったことを栞はひどく後悔していた。

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