2-4

夏の体育館は暑い。風は吹いても湿度を含んだ生温かい風がほんの少し空気を入れ換えるだけで、数百人の生徒が集まれば空気がよどんで呼吸もしづらい。


こんな暑い中だが生徒はそこまで気落ちしておらず、少なからず浮かれているように見えた。なぜなら明日から夏休みだからだ。


長々とした校長の話はもはや夏の風物詩で、聞いたことあるようでなさそうな格言について熱く語っていた。そのあとは生活指導の教師から諸注意がされた。基本的に夏休みでも学校の図書室か家の近くの図書館に行く栞にはどちらもどうでもいい話だ。


教室に戻ってくると夏休みの課題や休み明けついてなどの諸連絡を受けて、昼前には解散となった。栞は昼食を買いに購買に向かったが、購買はすでに今日から夏期休業になっていた。


仕方なくそのまま学校の目の前にあるコンビニに向かい何か買おうとしたが、帰りの生徒たちで溢れ返っていてとても買えるような状況ではなかった。時間を置いてからまた来ようと栞が学校に戻ろうとした時だった。


「花木さん!」


声をかけてきたのはコンビニの袋を提げてホットスナックを片手に持った堀北だった。その後ろには数人の男子が見えて、どうやら友人たちとコンビニで買い物をしていたようだった。


「何か買うの?」


「昼ごはんを買おうとしたんだけど、人がいっぱいだから後で来ようと思って」


「え! そんな待ってたらお腹空いて倒れちゃうよ! 熱中症だよ!」


空腹と熱中症をごちゃ混ぜにした堀北はちょっと待ってて、と言って友人のもとへ行ったと思うとすぐに戻ってきた。


「じゃ、行こうか」


「え、どこに?」


「昼ご飯食べに」


堀北は栞の返答を聞かずにどんどん歩いていってしまい、栞は後を追った。堀北の持っていたコンビニの袋の中には弁当やパンなどの食べ物が入っているのが見え、栞はそれを指摘した。


「これは別にいつ食べてもいいから。お薦めの蕎麦屋があるんだよね。あ、蕎麦で良かった?」


「いいよ。今は蕎麦を食べたい気分なんでしょ?」


「正解」


堀北は栞を連れて、下校する時とは反対方向の住宅街に入っていった。見たところ本当に家ばかりで蕎麦屋はおろか、スーパーもまだ見ていない。


「こっちであってる?」


「あってるよ! もう見えるよ。ほらあれ」


堀北が指差した方を見ると『そば』と書かれた暖簾のれんが掛けられた、戸建ての一階を使った蕎麦屋が見えた。


暖簾をくぐると、カウンター席が4つ、テーブル席が3つとかなり規模は小さく、栞と堀北以外客はいなかった。


「あらいらっしゃい。まあまあ今日は可愛い子連れてるじゃない」


「こんにちは」


三角巾にエプロン姿の笑うと目がくしゃくしゃになる年老いた女性と堀北は面識があるようだった。栞も頭を下げて堀北とテーブル席に座った。


「はい、冷たいお茶ね」


「ありがとうございます。最近腰はどうですか?」


「ぼちぼちだねぇ。こればっかりは治るもんじゃないからね」


「無理しないでくださいね」


決まったら呼んでねと言って店主は店の奥に戻っていった。堀北は栞に手招きをして顔を近づけた。


「俺、あのおばあちゃん大好きなんだ」


「……うん」


「すごい優しいからきっと花木さんも好きになるよ」


小声でそう言った堀北は顔を戻してメニューを机に広げた。栞は小声で話す必要はなかったのではないかと疑問に思ったが、堀北が変わったことをするのには慣れていた。


「やっぱり冷たい蕎麦かなー、でもあったかい蕎麦も捨てがたい」


堀北はああだこうだ言いながら中々注文を決められずにいた。栞はざる蕎麦にするとすぐに決めた。理由は一番安いし今日は暑いからだ。


「花木さん、俺どうしたらいいと思う?」


「じゃあ私のざる蕎麦少しあげるからあったかい蕎麦頼んだら?」


「えっ! いいの!?」


堀北は救世主を崇めるような目で栞に手を合わせ、栞は仏にでもなった気分だった。


注文を通し、十分ほどで料理が運ばれてきた。堀北が注文したのは特盛天ぷらそばで、海老やかき揚げ、カボチャやナスなど下の蕎麦が見えなくなるほど天ぷらが高く積まれていた。


「私の蕎麦、本当に食べられる?」


「もちろん!」


堀北は豪快に天ぷらにかぶり付き、幸せそうな声を洩らした。栞もざる蕎麦をすすると、そばの香りが鼻を抜けて広がり、麺も程よいかたさに茹でられていて食べ応えがあった。



堀北が食べる姿を見ていてふと、よく見る天ぷらそばの天ぷらは別皿に盛られている印象だったが、この店は全て麺の上に盛り付けていることに気がついた。


「別皿でもいいけどさ、やっぱりこうやって乗っかってた方が食べ応えありそうに見えるよね」


口に出していない栞の考えに返事をした堀北は、店主から取り分ける器をもらい、そこにもう一つ小さな天ぷら蕎麦を作って栞に差し出した。


「ありがとう」


栞も器にざる蕎麦を取り分けて堀北に渡した。しかしざる蕎麦用のつゆは一つしかなく、堀北は最後でいいよと言って汁を吸って少しふやけたかき揚げをかじると、かき揚げからたっぷりと汁が染み出てきた。


「彼女さんの名前はなんて言うんだい?」


いつの間にか栞たちのテーブルの横に来ていた店主は、栞と堀北のやり取りを微笑ましそうに見ていた。


「あ、いや、私は……」


「花木栞さん。すごい読書家で、色々本を教えてもらってるんだ」


「そうかいそうかい。栞さん、ゆうちゃんをよろしくね」


栞は孫を見るような目の店主に曖昧に頷いた。それからはなぜか三人で話しをしながら蕎麦を食べ、店主に店番は平気なのかと尋ねるとあまり人は来ないから問題ないと笑い飛ばされた。


小一時間店で話をした後、栞と堀北は店を出た。堀北は満腹そうにお腹をさすっていた。


「いい人だったでしょ?」


「うん」


「また行こうね」


栞は店主に自分は堀北の彼女ではないと否定し損ねたことに気付いた。堀北もあの場面で否定をしなかったのは、説明が面倒だと感じたからだろうか。


学校へと戻る道は、空から照りつける日差しとアスファルトを反射する光で挟み込まれているようで、蝉も鳴きやむほどの暑さだった。


教室に荷物を取りに行ってから二人で図書室に行き、しばし冷房の効いた空間で涼んだ。堀北は腹が膨れたせいか少し眠そうだった。


「花木さんは、夏休みも図書室に来る?」


「うん。空いてない日は図書館かな」


「そっか」


それから二人の間に沈黙が流れた。お互いが何か相手に伝えることを抱えているような空気が、栞を話しにくくさせていた。


「ねえ、名前忘れちゃったんだけどさ、こんな本読んだことある?」


堀北が話した本の内容は、主人公の男子高校生がある日偶然街でナンパされていた女性を助けたところ、徐々に関わるようになるが女性は生まれつき心臓に病を抱えており、終盤になるにつれて症状が悪化していくというものだった。


「聞いたことある気がするけど、読んだことはないかも」


「これも良かったなぁ。女の人は段々生きることを諦めそうになるんだけど、主人公が何とか希望を与えようと頑張るんだ」


栞は堀北の病について考えていた。以前、野球部を辞めた理由は病気が悪化したからだと聞いていたが、これまでの堀北も今栞の目の前にいる堀北も変わらず快活だった。


栞は思い切って堀北に疑問をぶつけた。病気のこと、最近読んでいる本は登場人物が病を抱えているものが多いような気がすること。食べたいものをいつも食べているのは、この先いつ食べられなくなるかわからないからなのかということを。


堀北は普段と変わらない、とりとめのない話をするような調子で答えた。


「今は割と安定してるかな。過度な運動は控えてるし、定期的に病院にも通ってるし。昔は治らない病気だったらしいんだけど、今では治らなくても普通に生活は出きるようになってるんだ。医学の進歩だね」


栞は堀北が本心で言っているのか、栞に気を遣わせないために言っているのか判断がつかず、それ以上訊くことができなかった。


「ねぇ、八月の頭、俺に付き合ってくれない? 行きたいところがあるんだ」


「別にいいけど」


栞にはもともと本を読むこと以外の予定はない。


「決まり! 連絡先教えて」


栞のすかすかのアドレス帳に堀北の名前が追加された。親と堀北だけの連絡先を見ると、堀北は栞にとってそれだけ関わりの深い人だと示されているようだった。


「じゃあ、今日は先に帰るね」


堀北は本を読むことなく図書室を出ていった。数分後、堀北から栞にメッセージが届いた。


『また明日詳しく話すね』


栞はなんと返していいかわからず、三十分以上悩んだ挙げ句、『わかりました』と返信した。

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