3 外の世界

3-1

夏休みに入ってから数日経ち八月の初め、栞は堀北に言われて朝から東京駅に来ていた。夏休みなのは学生だけのため、スーツ姿の人が足早に目の前を通り過ぎていく。昨晩はなんだか落ち着かず、今日も朝早くに目が覚めて待ち合わせの時間より早く着いてしまった。


「おはよう。花木さん早いね」


待ち合わせの五分前にやってきた堀北は、当然いつも見る制服姿ではなく半袖の白い無地のTシャツにデニム姿で、なんだか知らない人のようだった。


「花木さんの私服初めて見たけど、雰囲気変わるね」


そもそも栞は休日に出掛けるといっても大抵は学校の図書室に行くため、あまり私服を持っていない。今日は数少ない私服の中から一応まともに見えるものを着て来たつもりだが、栞はファッションに疎く、お洒落な服装というものはよくわからなかった。


「でもちょっと……恥ずかしいね」


「え、変かな?」


栞は堀北の言葉を聞いて自分の服装を確認した。小さなロゴの入った半袖の白いTシャツに水色のデニム、サンダルはあまり好きではないのでスニーカーを履いてきた。そこまで考えてから、自分と堀北の服装が被っていることに気付いた。


「ペアルックコーデってやつ? ま、いっか!」


さすがに堀北も少し恥ずかしそうにしていたが、今さら着替えることはできない。栞も急に恥ずかしくなってきた。しかし、堀北はすぐに切り替えたようで栞に切符を差し出した。


栞はどこに行くか知らされていなかったが、切符を見ると名古屋行きの新幹線の切符だった。


「名古屋まで行くの?」


「そう! おばあちゃんの家があるんだ。そんなに長居するわけじゃないから今日中には帰ってこれるから心配しないで」


「私が行ってもいいものなの?」


仲の良い友人や恋人ならまだしも、栞と堀北は友人、というよりは読書仲間のような関係だ。そんな人を祖父母の家に普通連れていくだろうか。


「切符のお金は親が出してくれたから気にしないで。じゃあ、もうすぐだし行こっか」


栞と堀北は改札をくぐり新幹線に乗り込んだ。朝早い時間だったがそれなりに席は埋まっていて、栞が窓側、堀北が通路側の席に座った。


「新幹線に乗るなら本持ってくれば良かった」


「ダメだよ! せっかくの遠出なんだから! 仮に持ってきてても本読む隙なんて与えるつもりはないからね!」


堀北はなぜか張り切っていて、まだ少し眠い栞は少しついていけなかった。まだ新幹線は動き出していないが、堀北は早速鞄からお菓子の袋を取り出した。


「今日はたくさん食べようね」


「私は普通でいいんだけど」


「えー、遠足みたいで楽しいじゃん」


堀北のお菓子を食べながら、栞と堀北の旅は始まった。堀北の祖父母の家は名古屋駅から電車に乗り換えて三十分ほどの市にあるらしく、堀北も行くのは久し振りらしい。


「どうして突然行こうと思ったの?」


「どうしてって言われるとなぁ……顔見とこうかなって思って。それに花木さんを連れていきたかったんだ。田舎なんだけど、自然が多くて時間の流れがゆっくりで、きっと気に入ると思って」


確かに栞は都会の喧騒より自然が溢れた田舎の方が好きだ。しかし、それだけの理由で栞をわざわざ遠出に連れ出すのも釈然としない。


「仲良い友達連れてったらさ、おばあちゃんに楽しく過ごしてるんだなって思ってもらえるかなって。本当は俺一人じゃ自信がなかったんだ。ごめんね、なんか利用するみたいになっちゃって」


「私は全然いいけど」


栞には堀北がなぜ自信がないと言うのかがわからなかった。孫が祖父母に会うことに何か不安になる要素があるだろうか。栞はほとんど祖父母に会ったことがないためわからないが、一般的には孫は目に入れても痛くないと言われるほど、祖父母にとっては可愛いものなのではないか。


その時栞たちの後方で赤ん坊のぐずりだす声が聞こえた。そちらを見ると母親が慌ててあやしている。


「かわいいね」


堀北は心からそう言っているのだとわかる表情で目を細めた。栞はというと、可愛いとも可愛くないとも思っていなかった。ただ、赤ん坊が泣いている、という現象を脳に情報として受け入れているだけだった。


すると栞たちの斜め後方、赤ん坊と母親の少し前方から苛立った声が聞こえた。


「あーうるさいな。疲れてる中仕事で移動している人もいるって考えられないのかね。赤ん坊一人泣き止ませられないなんて母親としてどうなのかね」


独り言のように言われた中年男性の言葉だが、それは明らかに母親と、車内にいる人たち全員に伝えようとする意図が感じられる声量だった。母親は涙目になってすみませんと何度も頭を下げて明らかに冷静さを欠いている。


栞はこの良くない状況を理解していながら、何かをしようとは考えていなかった。栞は部外者で、この状況を解決する手立ても力もない。


「あー不快だなー。人間の風上にも置けないやつが車内にいて不快だなー」


栞は声の主が自分の隣に座っている人から発せられていることを認めたくなかった。堀北は不満をこぼした中年男性に対して真っ向から対抗する言葉を、同じように車内全体に届く声で発した。


「あ? どこのどいつが言ってんだ?」


先程より明らかに怒気を含んだ声が斜め後方から聞こえてきて、栞は体を硬くした。すると堀北はこれ持っててとお菓子の袋を栞に渡し、立ち上がって中年男性の声のする方へ歩いていった。栞は自分の席から堀北の背中を目で追った。


「独り言にしては声が大きいのでやめてもらえますか? とても不愉快です」


堀北は全く動じる様子もなく、抑揚のない声だった。


「あ? ついこの間までオムツしてたガキが何言ってんだ。赤ん坊の泣き声がうるさいのはこの車内にいる誰もが思ったことだろ」


「勝手に決めつけないでもらえますかね? それを言うならあなたの声の方がこの車内の誰もが不愉快だと思いましたよ」


「じゃあなんだ? 赤ん坊の泣いている声は黙って聞いてなきゃいけないのか? こっちだって金払って乗ってんだよ。赤ん坊ってのはそんなに偉いのか? 泣き止ませることもできないなら公共交通機関使わなきゃいいだろ」


「あなたは自分のことしか考えられないんですね。同情しますよ」


堀北は中年男性相手に一歩も引いていなかった。そのやり取りを見ていた母親は赤ん坊が泣き止まないのと、自分のせいで争いが起きたことに気が動転して何もできずにいた。


「このクソガキがあんまり調子に乗るなよ!」


中年男性は立ち上がって堀北の胸ぐらを掴み、大きな声で威圧した。しかし、その威圧は堀北には全く通用していないようだった。


「まず、あなたが赤ん坊の泣き声がうるさいと思うことについては何も言いません。あなたはそこで彼女にアドバイスをするべきだった。車両の連絡通路に一度出てあやしてきたらどうかと。彼女が子育てに慣れてないことは一目見てわかります」


堀北は声の調子を変えず、淡々と話し始めた。栞も堀北の言葉を聞くまでその事に気付かなかったが、確かに上手く対処できていないところを見ると、初めての子供なのかもしれない。


「しかしあなたは疲れている人がいると考えられないのかと言いました。そんなこと考えられるわけないじゃないですか、赤ちゃんなんですから。そして続けてあなたは母親としてどうなのかと言いました。あなたに言われる筋合いは彼女には全くありません。母親を始めて間もない彼女が母親としてどうなのかあなたに判断できますか? 僕はむしろその年で人に対してこんな言い方しかできない息子を持つあなたの母親がかわいそうだと思います」


中年男性の胸ぐらを掴んでいる手が震え始め、額には青筋が浮き出てきて、もはや我慢の限界を迎えるといったところまできていた。しかしそうなる前に、騒ぎを聞き付けた乗務員がやってきて中年男性と堀北の間に割って入った。


乗務員と中年男性、堀北は車両から出ていった。栞は騒ぎが収まり息を吐いた時に、自分が全身に力を込めてことの成り行きを見ていたことを知った。堀北から受け取ったお菓子の袋は栞の腕の中で小さく潰れていた。


しばらく堀北は戻って来なかった。二十分ほどして、中年男性が先に車両に戻ってきて不服そうにドカッと席に座った。その数分後に堀北も何食わぬ顔で車両に戻ってきて栞の隣に座った。


「大丈夫……だった?」


「うん、ごめんね一人にしちゃって」


堀北は無理して笑っていた。


それからしばらく車両が風を切る音だけが聞こえていた。栞は何度も何か話そうと思ったが、話の切り出し方がわからず結局黙り込んでいた。

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