2-3
「これは
図書室に入ってくるなり座って本を読んでいた栞の前にドン、とハードカバーの本を置いた堀北は鼻息を荒くしていた。
「これを読まないなんて読書家の風上にも置けない!」
「いや、まだ読むとも読まないとも言ってないけど」
栞は堀北の置いた本を見た。最近出た本のようで、栞はまだ見たことがなかった。表紙に描かれているのは建物から港町を見下ろした視点で、色鉛筆のようなタッチで温かみがある。
「なんかこうぐっと込み上げてくるものがあるんだよね! 愛しさと切なさと心強さが!」
「それ歌の名前じゃない?」
季節は流れ七月、日差しは日を追うごとに勢いを増して地球に降り注ぎ、登下校するだけで汗だくになる。出会った頃は学ランを第一ボタンまで閉めていた堀北は、今は半袖シャツで髪の毛もかなり伸びてきてマリモのようになっている。
「図書室涼しいね、ちょっと寒いくらい。あ、そうだ」
堀北は鞄から保冷バックを取り出して、中から
「いや、なんで突然饅頭なのかもわからないし、ここ図書室だし」
「いやー急に食べたくなってさ! これ見て、もみじ饅頭だよ! こし餡だよ!」
それから堀北はつぶ餡とこし餡の違いを力説して自分は絶対にこし餡派だと言うことを栞に言い聞かせた。
「とにかく食べよう! 気分が変わる前に!」
栞は読んでいた本を閉じて、図書室を出て堀北と共に中庭に向かった。ちょうど日陰になっているベンチに並んで座り、堀北からもみじ饅頭をもらった。
「いただきます!」
「いただきます」
久しぶりに食べた和菓子の控え目な甘さが舌の上で転がり、しっとりとしたこし餡はそこらのあんパンよりずっと美味しかった。
「さっきの本にもみじ饅頭が出てきたんだよね。和菓子屋に行くシーンがあってさ」
堀北の解説によると、病に伏して入退院を繰り返している主人公の少女のもとに、同じように病を患っている少年が現れるようになり、次第にお互いを意識し始めるという物語らしい。和菓子屋は、二人が出掛けた最初で最後のデートので立ち寄ったらしく、物語の最後にもそのもみじ饅頭が登場して良い役割を果たしているらしい。
「急に食べたくなったのはそういうことだったんだね」
「そういうこと。朝から食べるの我慢してたんだよ? 花木さんと食べるために」
「別に他の人と食べれば良かったのに」
堀北は人差し指を左右に振りながらチッチッチ、と芝居じみた口調でわかってないなぁと言った。
「あの本の物語の良さがわかる人と食べなきゃ意味ないでしょ」
「いや、私まだ読んでないんだけど」
「花木さんはわかってくれるっていう信頼があるから」
堀北は嬉しそうにもみじ饅頭にかぶりついた。堀北は特に深い意味は込めていないだろうが、栞は人から信頼してるなどと言われたことがなかった。それと同じように栞は他人に信頼を置いたこともない。
二人とも食べ終わり、少しの間中庭でぼうっとしていた。栞は普段何もしていない時間を作らないようにしている。何かしていないと、余計なことに思考を巡らせてしまうからだ。自分はこれからどうなるのか、何がしたいのか、何のために生きているのか、生きることに理由がないのなら、地球環境のためにも、世界で飢餓に苦しむ子供たちのためにも栞一人生きる分の資源を回してほしいと思うこともある。
「何か悩み事?」
気付くと堀北は栞の顔を覗き込んでいた。
「あ、もしかしてもみじ饅頭がどんな役割か気になってる? それは言えないなぁネタバレになっちゃうし。あーでも言いたい気持ちもある」
堀北は隣で勝手に頭を抱えて困っていた。
「大したことじないから」
「大したことじゃなかったら、人に話しちゃいけないの?」
堀北は時折見せる真面目な顔つきで栞を見た。
「些細なことでも、くだらない話でも、オチのない話でも俺は聞くよ」
栞は堀北のこういうところが苦手だった。堀北は栞の心を見透かし、そして寄り添ってくれる。しかしされた側は、その親切に応えなければならないという気持ちにさせられる。今回も栞は堀北に何か話さなければならないと感じていた。
「自分がなんで生きてるんだろうって考えてたの。こうなりたいとか、何かしたいと思うこともないし、ただ食べて、息をして、寝て。そんな私が生きてる意味ってあるのかなって」
「うーん、難しいなぁ」
栞は案の定言ってから後悔していた。こんな重い悩みを人に話してもその人を困らせるだけだ。色んな人が考えても結論が出ない問いに一般の人が答えられるわけがない。それについて考えがあったとしても、それは個人の見解だ。
「俺の考えだけどいいかな? 俺は人生に意味なんてないと思う。というより生きること、命に意味があるとは思わない。だって犬や猫、今鳴いてるセミだってそんなこと考えてないし、本能として生きてるとしか言いようがないからね」
堀北は栞が想像していたよりも淡白な回答を提示してきて少し驚いた。堀北のことだからそんなこと考えるだけ無駄で、今を楽しめばいいんだなどと言ってくると思っていた。
「だから俺たちは、意味のない人生に意味をつけていくんだよ。生きるどうこうって言うよりも、意味のあることをしていく。別に世界を救うとかそんな大きなことじゃなくて、自分にとって意味があることを一つずつ積み重ねていって、そうしたら死ぬ時に自分の人生に意味がなかったなんて言いたくても言えないよ」
堀北の言うことは屁理屈のようにも聞こえた。意味のあることができなかったら結局は意味のない人生になってしまうではないかと栞は感じた。しかし、不思議と堀北の言葉は栞の中にスッと入り込んで馴染んでいた。
「あ、そう考えると人生って物語みたいだね。自分の行動に意味をつけていって、死んだ時に物語が完結する。みんな自分の物語を一生懸命書いてるんだよ」
人生は物語という堀北の言葉は栞の心を動かした。活字の物語に逃げ込む栞にとって、人生、現実は物語ではなかった。しかし堀北の考えなら、栞は言わば『栞の人生』という物語の作家として現実に意味付けをしていっているということになる。
「だから俺からお願いしていいかな?」
「なに?」
「花木さんの物語に、俺を登場させといてよ。そうだな、超人気者のスーパースターみたいな感じで」
「スーパースターは無理でしょ」
堀北はダメかぁと肩を落としたが、表情は嬉しそうだった。
「じゃあさ、脇役でも良いからお願いね」
堀北は戻ろうか、と言って立ち上がり、栞は堀北と共に図書室に戻り、いつものように下校時間まで本を読んだ。
この時期は帰る時でも空はまだ明るい。部活動を終えた生徒に紛れて、栞と堀北は駅まで歩いた。堀北は横で煎餅を食べながら、今食べたくなったから食べると言い張っていた。
改札をくぐったところで栞と堀北は別方向のホームに別れる。
「じゃあまた明日ね」
栞は階段を下りながら思った。堀北と出会ってから数ヶ月しか経っていないが、栞にとって堀北は既に日常と化していた。栞の物語に堀北が登場しないなど、この先ありえない。
栞がホームに下りると、向かいのホームに堀北の姿が見えた。堀北も栞に気がつき、手元で小さく手を振った。栞は堀北に何か伝えたいと思ったが、何を伝えれば良いかわからなかった。すると、堀北のいるホームに電車が到着するアナウンスが流れた。栞は黄色の線を一歩越えて大きく息を吸った。
「堀北は脇役じゃないから!」
思ったよりも全然大きな声が出ず、栞は顔が熱くなるのを感じた。周囲の人も何事かと栞を見ている。
堀北はキョトンとしていたが、電車が近づく音を聞いたのか、栞とは比べ物にならないくらい大きな声を張り上げた。
「花木さんは俺の物語のヒロインにしとくねー!!」
堀北が言い終わるのと、電車で堀北が見えなくなるのはほぼ同時だった。わざわざ栞が見える位置まで電車の中を移動した堀北は、ありがとうと口を動かした。すぐに電車は動き出し、堀北は栞の視界から消えていった。
栞は自分でもなぜあんなことを堀北に伝えたのかわからなかった。しかし、堀北に伝えなければならないと思ったのは確かだった。
帰りの電車がホームに滑り込んできて扉が栞の前に止まった。扉にはぎこちなく笑う栞の顔が映っていた。
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