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クラスメイトに不審に思われながらも、昨日よりも急いで掃除を終わらせた栞は、競歩の選手のように早歩きで図書室に向かい、最後の方は小走りになっていた。


図書室の前で呼吸を整えてから扉を開けて、一番奥の窓際の席に誰も座っていないことを確認して、栞はほっと胸を撫で下ろした。


真っ直ぐその席まで向かい、椅子を引こうとしたところで、椅子の上に誰かの鞄が置いてあることに気付いた。


「ごめん、俺座ってた」


突然耳元で喋りかけられた栞は体をビクッと震わせた。振り返ると昨日会った堀北が申し訳なさそうに、しかしどこか嬉しそうにしていた。


「花木さんだよね? もしかして毎日来てる?」


「ええ、まあ」


堀北は何の気なしに言った言葉だろうが、栞の頭の中では毎日来るなんて暇ですねと変換されていた。栞は堀北の席から一つ空けた昨日と同じ席に座った。鞄から本を取り出すと、隣に人が座る気配がした。堀北は隣の席で本を持たずに体を栞に向けていた。


「あの、何か?」


「今何読んでるの? 俺最近まで全然本読んだことなかったんだけど、本って面白いね! 色んな物語があって、それを誰かが書いてるなんて驚くよ。作家さんの頭の中には何個世界があるんだろうって。あ、ごめん喋りすぎた?」


栞は昨日会ったばかりの人に対してこんなにも馴れ馴れしく接することができる堀北をもはや尊敬していた。読書が好きという人は世の中にたくさんいるが、栞からすると大したことないと思えてしまう。寝食を惜しんで暇さえあれば本を読み、何度も繰り返して読む本もある栞と他の人とでは本の感想が全然違うと感じる。


今目の前にいる堀北もチープな感想しか言えなさそうな雰囲気をかもし出しているが、作家の頭の中に何個世界があるんだろうという感想には共感できた。栞も何度か自分で物語を作ろうとしたことがあったが、何度書いても自分の中にある世界はつまらなくて、読む人の心を掴むようなものは書けないと感じるばかりだった。


「知らない作家さんだ。有名?」


堀北が栞の本を覗き見てきて、咄嗟とっさに本を隠してしまった。特に見られたくないとか恥ずかしいという感情はなかったが、テスト中に教室をうろつく先生に答案を見られたくないのと同じような感覚だった。


「あ、ごめん。無神経だったね」


案外あっさり引き下がった堀北に栞は拍子抜けして、罪悪感が湧いてきた。


「これ、読むの二回目だから、読む?」


「え! いいの!?」


堀北は嬉しそうに栞から本を受け取り、表紙を眺めたり、背表紙のあらすじを読んだりしていた。はしゃぐ堀北の横で、栞は自分の行動に驚いていた。人と物の貸し借りなどしたことがないし、わざわざ友達でもない相手に本を貸す理由などない。


「読んだらを伝えるから」


「……じゃないの?」


「え、感動しないの?」


やはり堀北は変わっている。栞のように部活にも入らず一人で図書室で本を読んでいるような人に普通は話しかけないだろう。


栞は本を手渡し、鞄からもう一冊本を取り出して読書を始めた。本を読み始めると堀北は静かになって、ちらりと視線を向けると真剣な表情でページを捲っていた。


下校時間を知らせる放送が流れるまで、栞は外が暗くなっていることにも、三時間以上も時間が経っていることにも気がつかなかった。本を読み始めると、現実を忘れ、物語の世界に入り込むことができるが、時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。


「えっ! 外真っ暗だ!」


隣に座っていた堀北も驚いたように窓の外を見て、慌てて帰り支度を始めた。図書室を出て下駄箱まで堀北と並んで歩いていることに栞は違和感を覚えていた。学校ではいつも一人で行動していて友人はいない。当然、誰かと一緒に帰ったこともない。揃って靴に履き替え、十分ほど歩く最寄り駅へ向かう。


「貸してくれた本すごい面白いよ。読書家の人が読む本は違うね」


「別に。私は物語だったら何でもいい」


栞にとって物語とはことが起こるものであって、面白いと感じたり、悲しいと感じたりすることもあるが、結局は物語だから、という考えに至ってしまう。


「じゃあ、どうして本を読むの?」


「…………現実を、見たくないから」


栞は今まで誰かに弱音など吐いたことがなかったが、なぜか堀北には思っていることを言ってしまった。


堀北は栞の言葉を聞いてすぐに返事はせず、栞が重いと思われたなと考えていると、前を向いたままの堀北がわかるよ、と呟いた。


「受け入れたくない現実ってあるよね」


栞はその時堀北が心に隠した暗い部分を垣間見た気がした。会って二日目だが、堀北はいつもニコニコしていて、前向き、人生を楽しんでいるという印象を相手に与える人だった。その分、今の言葉が心から出た言葉だとわかった。


「でもさ、現実逃避してたら前に進めないんだよね。思い切ってやりたいことやって、後悔だけはしたくない」


栞は堀北と自分は別の人種だとこの時思った。堀北のように栞は前向きになれない。現実から逃げて物語の中に居座る栞と、物語を読んで世界を広げて現実を生きる堀北とでは、前に進む速度も、住む世界も違う。


それからは無言で歩き続けて駅に着いた。お互い反対方向の電車だということがわかり、改札を通って別れた。


「また明日ね」


大きく手を振る堀北に、栞は小さく手を振り返した。また明日、などと最後に言われたのはいつのことだっただろう。毎日繰り返しの日々を過ごしているうちに、自分の歳は今いくつで、自分は何者なのか、何のために生きているのかわからなくなる。


電車に揺られること二十分足らずで最寄り駅に到着した。ここから家までは十分程度だが、栞は毎日駅前の本屋で時間を潰す。できるだけ家には居たくないからだ。


そもそも家に帰っても誰もいないだろうし、最近は両親の顔も見ていない。たまに顔を合わせれば、母は栞がそこにいないかのような態度を取り、父は大抵パチンコに行った後飲み屋に行っていて、機嫌が悪いと栞や母に暴力を振るってくる。父と母は会えば喧嘩をすることがわかっているため互いに避け合っている。こんな家族になるくらいだったらなぜ結婚したのか、なぜ栞を産んだのかといつも疑問に思う。


午後十時になると本屋も閉まり、仕方なく栞は家に帰った。玄関を開けると、母の靴と父の物ではない男物の靴が無造作に転がっていた。物音に気付いた母が玄関を覗き、栞だと分かると何も言わずに部屋に戻っていった。母のもとにはいつも違う男が寄り付いていて、今日みたいなこともよくある。歳にしては見た目は若い方だと思うが、栞には母の何が良いのかわからない。母としては最悪だが、女としては最高ということなのだろうか。


栞は真っ直ぐ部屋に戻り、そのままベッドに身を投げた。しかしすぐに起き上がって本棚から本を取り出した。何でもいいから物語の世界に入り込まなければ、と栞は謎の強迫観念に襲われていた。皮肉にも、栞が手に取った本は家族をテーマにした心温まる物語だった。

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