1-3
栞の朝は早く、六時に起きて身支度を済ませた後、何も塗らず焼きもしない食パンを一枚食べて、七時には家を出る。
この時間は電車も空いていて、駅を降りても同じ高校の生徒はまだ来るには早い時間のためまばらで、歩きにくいということもない。少しでも家にいる時間は少ない方がいい。教室に着いたら本を読んでいればすぐに時間は過ぎる。
電車を降りると、清々しい春の風が優しく街を流れる。栞が学校に向かって歩いていると、後ろで同じ高校の生徒が挨拶を交わしている。栞には挨拶を交わす友人などいない。おはよう、おはようと後ろから何度も聞こえてくる声がいつの間にか栞の横から聞こえていた。
「おはよう、花木さん」
「えっ、あ、おはよう」
栞は挨拶を向けられているのが自分だとは全く考えていなかった。栞に向かって挨拶をしたのは朝からポテトチップスを食べている堀北だった。
「全然返してもらえないから無視されてんのかと思った」
「ごめん、気付かなくて」
ポテトチップスに向けられた栞の視線に気付いた堀北は袋を差し出した。
「食べる?」
「いや、朝ごはん食べたし、朝からそれはちょっと」
堀北はそっか、と言ってまたぼりぼりポテトチップスを食べ始めた。そして、口にポテトチップスを含めながら栞に質問をしてきた。
「花木さんは好きなものは先に食べる? それとも最後に残しとく?」
「私は……考えたことない」
栞に好きな食べ物や嫌いな食べ物は特にない。食事は生きる上で必要な行為以外に意味はない。小さい頃は好きな食べ物があったような気がするがもう思い出せない。強いて言うなら甘いものが好きというくらいで、お菓子やケーキは食べなくても生きていけるためこの質問には該当しないだろう。
「ふーん、花木さん変わってるね」
朝からポテトチップスを食べている方がよほど変わっているのではないかと栞は思ったが口には出さなかった。それに、堀北の変わっているという言葉は栞を傷つけるために放たれたものではないとわかった。
「堀北……くんはどっちなの?」
栞から質問されるとは思わなかったのか、堀北は少し驚いた様子だったがすぐに得意気に話し出した。
「俺は絶対先に食べる! 食べたいものは食べられるときに食べないと後悔するかもしれないなって最近思ってさ。だからこうして食べたいものを食べる」
堀北はおもむろにポテトチップスの袋を栞に見せたが、それとこれとは話が別な気がした。堀北はポテトチップスを食べ終わり、丁寧に袋を畳んで鞄にしまい、次は甘そうな菓子パンを食べ始めた。
「ん? あ、食べる?」
「食べない」
自分がかぶりついたパンを人に、それも友人でもない女子に普通差し出すだろうか。栞は堀北の歩んできた人生が気になり始めていた。栞とはまるで違うことは確かだが、普通と呼ばれる家庭でもないような気がする。
「あ、ごめん。甘いのダメだった?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「甘いの好き?」
「まあ」
堀北は菓子パンを半分にちぎり、自分がかじりついた部分が含まれていない方を栞に差し出した。
「これ俺の最近のオススメ」
栞は差し出されたパンを受け取るか迷っていた。甘いものが好きな栞にとっては嬉しいおすそ分けだが、堀北の思惑が見えない。なぜ堀北が自分のものを友達でもない栞に分け与えるのか。
「……なんで私にくれるの? 友達でもないのに」
栞の問いに堀北は目をぱちくりとさせ、上を見てなんと答えるか考えているようだった。
「じゃあ、なんで友達でもない俺に本貸してくれたの?」
「それは……」
堀北の言う通り、栞は友達でもない出会って二日目の他人に本を貸した。なぜかと言われると返答に困る。堀北が読みたそうにしてたから、早く会話を切り上げて物語の世界に入りたかったから、栞の回答は後者だった。
「人ってさ、人に優しくしたくなる生き物なんだよ。もちろん、下心があったり、別の考えがあったりすることもあるけど、俺はそういう感情よりも前に、人は人に優しくしたいと思う生き物だって思ってる」
堀北の考えは、栞には到底受け入れがたいものだった。人が人に優しくする生き物なら、なぜ両親は栞を放っておくのか、なぜ栞の周りの人間は栞を放っておくのか。現実から目を背けたくなる人生を歩んできた栞にとって、人は優しい生き物ではなかった。人は何を考えているのかわからなくて、利己的で、そして変わってしまう生き物だ。物語のように人物像に合った行動を起こさない、不確実な生き物だ。
「こんなこと言ってるけど、俺もそんな胸張れるような人じゃないけどね。下心あるし」
「え?」
「花木さんに興味を持ちました」
面と向かって相手に興味を持ったなどと言ってしまう堀北は、やはり変わっている。物語の中でもたまにいる、掴み所がないけれど物語を面白くしてくれる存在。現実で栞は堀北のような人に出会ったことはなかった。
栞が何も言わずに黙っていると、後ろから堀北の友人らしき人がやってきて、堀北はその人と先に学校へと向かった。
「また放課後ね」
また放課後に図書室で、という意味を指した堀北の言葉は栞にとって、記憶のある中では同年代の人と交わした初めての約束事だった。
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