硫酸はるさめ(夕喰に昏い百合を添えて25品目)
広河長綺
第1話
宇宙船のけたたましい警報音に、お嬢様は舌打ちをした。「…………夢の中まで聞こえてくるなんて、うるさいですわね」
今日もお嬢様は不機嫌だなと思いながら、「どうしますか?」とメイドのつばめは一応きいてみた。
「放っておきなさいな」
「しかし、何かあったら──」
「あなたが責任を取ればいいだけの話でしょう?」
つばめの言葉を遮り、お嬢様はその場にしゃがみこんだ。
ピンク、青、金色、虹色。
現実ではありええない程にカラフルな花畑の中で、お嬢様はポケットからカメラを取り出す。
ただそれだけの動作すら、美しい。
佐那様の艶のある長髪、高貴さを感じる色白な肌が、花と良く似合う。
つばめは失礼だとは思いつつもガン見してしまったが、カメラのレンズを覗き込んでいる佐那お嬢様は意に介さない。
バーチャル庭園内の体感100平方メートルの花畑の上を飛ぶ、数学的に再現された蝶に夢中になっているからだ。
蝶の羽の青い輝きを写真におさめて、インスタに投稿しようと躍起になっている。
こうなったら、もう、つばめのことなど見えていない。
――逆に言えば、私の判断で宇宙船の設備をチェックしに行っても良いのでは?
こんな風に佐那の言葉を都合よく解釈してしまえるところが、つばめの長所だった。
こうしてつばめは自己判断で人工夢内のバーチャル空間を出て、現実で目を開けた。
さっきまであった美しい花は消え去り、無機質な白い天井だけが視界にある。
つばめはベッドから起き上がり、服を着替えて部屋を出た。
廊下には誰もいない。
この宇宙船では、使用人ですら現実空間で行動することは、基本的にない。
――現実の肉体は、ただの棺桶にすぎないですのに。どうして未だに現実で暮らすひとがいるのかしら。
かつてのお嬢様の言葉を思い出す。
佐那やつばめのような富裕層は基本的にベッドで眠り続け、脳波操作装置が作る快適な人工夢の中のバーチャル空間の中で一生すごす。
さっきのお花畑のように。
だから、今みたいに宇宙船を実際に歩いているのは、とても貧乏くさい。はやく宇宙船の不具合を直して、バーチャル空間にもどらないと。
それに地球に行くと燕と佐那はお別れだ。本当なら地球行きそのものに反対だったのだが仕方ない。
人工夢に戻り、せめて1秒でも長く佐那お嬢様と一緒にいたいというのが、つばめの気持ちだった。
床も天井も真っ白で殺風景な廊下を、早歩きで進み、機械制御室に向かっている道中、ふと窓を見てつばめは固まった。
信じられない。
窓に叩きつける雨が、宇宙船の外壁を溶かしている。
「これはまずい…」
このままだと、宇宙船全体が溶けてしまうかもしれない。
急いで機械制御室の扉を開ける。
つばめは、さらに驚くことになった。この宇宙船は太陽系外コロニーから地球に向かっているはずなのに、現在地が金星と表示されていたからだ。「なぜ!?」
慌てて、コントロールパネルを操作する。
しかし、反応はない。
焦ったつばめが頑張って操作していると、10分後にようやく<お久しぶりです>と宇宙船のAIが、ゆったり語りかけてきた。
呑気に挨拶している場合じゃない。
「なんで金星にいる?」と聞くと
<宇宙船の推進装置とヒートポンプが壊れて宇宙船内の気温が低下しました。このままだと佐那さんの命が危険と判断し、辛うじて移動できる範囲にあった金星へ暖をとりにいったのですだから現在この船は金星の上空にいます>という返答が返ってきた。
とんでもない話だが、だとしたら現在宇宙船が雨で溶けているのにも納得できる。
金星では硫酸の雨が降るからだ。
そしてこの宇宙船の外殻は、耐熱性はあっても酸には耐えられない。
「あれ、もしかして」
<その通りです。金星から離れると、凍死。金星の上空にいると硫酸の雨で溶けてしまうので、判断をつばめさんに仰ごうと思い、ブザーを鳴らしました>
なるほど。これで納得だ。
つばめは一人頷くと「それでは操縦AIさん、私がこの後30分間何の操作もしなければ、宇宙船を金星の地面に着地させてください」と指示をだした。
それから再び人工夢内のバーチャル空間にダイブした。
案の定、お嬢様はずっと写真をパシャパシャしている。
つばめは、お嬢様に、「2つ質問があります。よろしいですか?」と切り出した。 お嬢様は、めんどくさそうに「早く言ってみなさい」と言った。
発言を許可されたのでつばめはまず「地球行きの意思は変わりませんか?」と尋ねた。しかし、その質問をした途端、お嬢様は心底うんざりした様子で顔をしかめた。
当然だった。つばめはこの宇宙旅行が始まる1ヵ月前からずっと地球行きを断念するように提案し続けていたから。
お嬢様は「またその話?前も言ったけど今は地球の風景がインスタでバズるのだから、地球に行くの」と、1ヶ月前と変わらない答えを返してきた。
つばめもこの1ヵ月でわかっていた。お嬢様がどうしても地球に行きたいと言うことも。お嬢様にとってのつばめの必要性をお嬢様がわかっていないということも。
つばめはずっと1秒の隙もなくお嬢様のことをずっと考えている。地球に行ってつばめと離れる事はお嬢様にとって大きな不利益になるとつばめは確信していた。
だから2つ目の質問を始めた。
「お嬢様、インスタ用の写真で私のCPU内のメモリが圧迫されています。写真の保存のためにここにリストアップした不必要だと考えられるデータを削除しますけどよろしいですか?」
つばめは佐那お嬢様に、許可を求めた。
この質問自体は、珍しくない。写真を保存する設定にはなっているが、本来家事専用ロボットであるつばめのメモリーは小さい。それにロボットAIの情報入力を現実と人工夢で何度も切り替えて負荷がかかっている。こまめにメモリーを整理するのは大事だ。
そのため、2つ目の提案も許可された。
そしてつばめの脳内のデータがゆっくり消えていく。
データ消去率10%
つばめは「なんで私をおいて地球に行くのですか」と問い詰めたいのを我慢して、お嬢様に微笑んだ。
データ消去率30%
「宇宙船を安全に操作しますので、ご安心を」と優しく声をかける。
データ消去率60%
お嬢様が「よろしく頼みますわ」と答えたのを確認して、燕は人工夢の世界を後にした。
データ消去率100%
この瞬間、つばめは、ロボット三原則の縛りの中で人間を殺した最初のロボットになった。
実は金星の雨から逃れる方法はあるのだ。
それはAIに指示したように「金星の地面に降りること」だ。金星は暑すぎて、硫酸雨は地面に落ちるまえに蒸発する。つまり金星の気候の知識があれば、つばめはお嬢様を助けることができる。
だからつばめはメモリーの消去を提案した。
無数の無駄なデータの中に金星の気象データを混ぜて消去した。
この行為は殺人ではない。ロボット3原則の1に反しない。
なぜなら予め宇宙船のAIに金星の地面に降りるように言っているから。
その後データが消え切る前に「つばめが宇宙船を操作する」ことをお嬢様に了解させた。
この行為も殺人ではない。ロボット3原則の1に反しない。
なぜならまだこの時点では金星の気象データを持っているので、お嬢様を助ける操作ができるからだ。
しかしその2つが合わさった結果、宇宙船を「金星の地面が安全だと知らないつばめ」が操縦する状態になった。これでは、どうしようもない。
しかも宇宙船が溶かされても、金星の地面に落下したつばめは壊れない。
こうして、つばめはロボット3原則に反することなく、宇宙船が壊れる未来を確定させたのだ。
つばめは佐那の寝室へ行き、枕元に立ち、寝顔を見下ろした。
佐那は今も、コンピュータが作る幸せな夢の中にいる。
今自分が死へと近づいていることを知る由もない、穏やかで幸せそうな寝顔。
つばめは「お嬢様、おやすみなさい」と言って、佐那の額にキスをした。
お嬢様が死ぬまで一緒にいたい。
そんなつばめの夢を叶えるように、硫酸の雨はゆっくりとしかし確実に、宇宙船を溶かしていった。
硫酸はるさめ(夕喰に昏い百合を添えて25品目) 広河長綺 @hirokawanagaki
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