第三話 見知らぬ男

 結局、一睡もできずに朝を迎えた。ハンカチを握りしめながら玄関の扉を開けると何の痕跡もなく、窓にあった手形も消えていた。玄関と部屋の隅に残った塩の山がなければ、夢だったのかと思えるだろう。


 一体何が起きたのか、本当に理解できない。奇妙な御札と闇色の泥は確かにそこにあった。 


 部屋から逃げるようにして朝一番に画廊へ入ると、すっと気持ちが引き締まる。毎日の習慣は偉大なものだと改めて感じながら、業務を開始する。


 二階の保管庫へ入る時や独りでバックヤードにいる時に背後が気になっても、ポケットに入れた白いハンカチに触れるとほっとした。全然知らない人からもらった物なのにと思う気持ちと、黒と白の狩衣の男性は誰なのかという疑問が胸に渦巻く。


 不安でも仕事は待ってくれないのは理解している。怪異が発生したと相談しても、精神的疲労を疑われるだけだろうから、ひたすら耐えつつ他のスタッフとバックヤードで到着した荷物を開封する。


 朝木が蚤の市で買い付けてきたのは、小さな手のひらサイズの額に入った細密画。華やかな女性の肖像画や幼い天使。花々も可愛らしい。教会らしき風景もある。


「え? 二十枚でこの値段ですか?」

 報告書に書かれていた金額が安すぎる。信じられなくて同僚と声をあげると、近くで座って缶コーヒーを飲んでいた朝木が笑った。今日は英国式の紺色のスーツで、体にサイズが合っていて格好良い。おそらくはオーダーメイド品だろう。


「そのアンティークの革トランクも込みだよ。余りにも状態が悪いから、どうしようか迷ったけど手入れしてみることにしたんだ」

 バックヤードの隅に置かれていたトランクは、アンティークと言うのもはばかられるようなボロ鞄。傷や染み、塗料の禿げも酷くて、手入れでどうにかなるかは疑問がある。


「これらは古い家の屋根裏にあったものだと聞いた。売っていたのは気のいいご婦人でね。この細密画は油絵だと僕が教えたんだけど、雑誌か何かの切り抜きだと思っていたらしくて信じてもらえなかった。トランクと一緒に不用品が整理できればいいって言うから買って来たんだ。僕が買わなければ、捨てられそうだったからね」

「それは……」

 細密画はとても繊細で美しく、小さな額も様々な素材と形で雰囲気がある。壁一面に飾ってもいいし、一枚だけを壁に飾ってもいい。素晴らしい絵も、その価値がわからなければ不要物になってしまうのかと苦笑するしかない。


「科学鑑定に出さないと正確な年代はわからないけど、十八世紀あたりのものが多いと思うよ。美術館か博物館にあってもいいレベルだ」

「このまま鑑定に出しますか?」

「出そう。もしかしたら、本当に雑誌の切り抜きかもしれないからね」

 絶対にそんなことはないと思うのに、朝木は笑う。


 専門機関に頼む科学鑑定は、それなりに費用がかかる。今回は一枚を鑑定する値段で、二十枚すべてが買えてお釣りがくるという聞いたこともない話。値付けについては副社長と主任の仕事なので、私たちは口出しできない。


「今度は価値を感じてくれる人の手に渡るといいですね」

 私の素直な感想を聞いて、朝木が頷きながら微笑んだ。


      ◆


 白いハンカチをくれた男性が現れないかと私はバーの開店時からカウンター席に陣取った。いつもはショートのカクテルを一、二杯飲んで帰るけれど、今日はロングドリンクを頼む。


 アルコール度数の低い物と頼んだら、紅茶リキュールを使ったダージリン・クーラーというカクテルが出てきた。かなり以前に紅茶が好きと言っていたのを覚えてくれていたらしい。


 初めて見る紅茶色のカクテルは、ダージリンの味とフルーツの甘酸っぱさと炭酸の爽やかさでとても飲みやすい。一気に飲んでしまわないように、味わいながらゆっくりと飲む。


 あの男性は現れるだろうか。今日は朝木が来るかどうかよりも、男性が来て欲しいと願う。ハンカチのお礼と、あの御札のこと、狩衣の男の正体が知りたい。徹夜明け独特の体の辛さはあっても、神経が高ぶっていて目は冴えていた。


 店内にはゆったりとしたジャズが流れ、昨日とは違う年上のバーテンダーがカウンターに立っている。

「今日はジュークボックスの曲じゃないんですね」

「あのジュークボックスを使う人は少ないですからね。聴いてみますか?」

「あ、いえ。いいです」

 穏やかに微笑むバーテンダーは、他のお客の情報を与えてくれそうにない。それは昨今、当たり前の話。


「いらっしゃいませ」

 バーの扉が開き、ちらりと視線を投げるとスーツ姿の朝木とあの男性が視界に入ってきて驚く。まさか朝木と知り合いなのだろうか。背丈は百八十センチを超える朝木とほとんど同じで、体型もすらりとしていて良く似ている。自然な茶色を帯びた朝木の髪と比べると髪は真っ黒。


 今日はダークブラウンのカジュアルジャケットに白のシャツ。黒のジーンズに革のスニーカー姿。高級スーツの朝木とは全く正反対の服装なのに、並んでいても違和感がない。実は高級品だったりするのか。

 

 どうやって話し掛ければいいのかと盛大に迷っていると、二人でテーブル席に向かっていた朝木が私に気が付いた。

「あれ? 賀美原さん?」

「こ、こんばんは……」

 必死に平静を装ってみても、動揺するような声が出てしまって恥ずかしい。


「えーっと、こいつは僕の悪友で、七つの神って書いて七神ながみ、冬を登るって書いて冬登ふゆと。紹介してもいいかな?」

 朝木はいつもより明るい雰囲気で、仲が良さそうに見える。一方の七神は、無表情に近い。


「は、はい。賀美原蓮乃です」

 七神の顔は昨日と全く表情が違っていて、本人なのかどうか不安になってきた。初めましてとも言えず、ただ見上げる。


 口を引き結んでいた七神が静かに口を開いた。

「……初めまして。七神です」

 やはり別人なのかもしれない。落胆する心を隠して笑顔を作ると、カウンターに座る私の隣に朝木が座り、その向こうに七神が座った。


「賀美原さん、ロングは珍しいね。いつもショートなのに」

「今日はアルコールの弱い物が飲みたいと思ったので」

 驚いた。朝木はカクテルのことも詳しいのかと思ったら、グラスの大きさで判別しただけだった。


 朝木もロングを頼み、七神はショートをお任せで頼む。二人とも、このバーの常連のようでバーテンダーとも仲がいい雰囲気のやり取りを交わしている。


 いつもは楽しいと思えるリズミカルなシェイカーの音が、どきどきする鼓動とちぐはぐで落ち着かない。隣を見ると朝木と目が合って、気恥ずかしさを隠しつつカクテルを口にする。七神と話したい。本人かどうか確認したいと心が焦る。


 バーテンダーは朝木にモヒートを作り、七神にマティーニを出した。作る所を見ていたから、どちらもアルコール度数が高そうなカクテルだとわかる。


 朝木との話題は、やはり絵や仕事の話になる。細密画を買い付けた蚤の市の話は興味深い。

「蚤の市っていうと馴染みはないって思うけど、要するにフリーマーケットだからね。個人が要らない物を売ってる。時々今回みたいに、絵の価値がわからない人が邪魔だからっていう理由で家に代々伝わる絵を売ってたりもする。僕はそういうのを見かけると、これはこのくらいの価値があるって教えてしまうんだ」


 朝木は絵を買い叩いたりはしない。それは絵の価値を下げる行為だと信念を持っている。適正な価格で買い、適正な利益を乗せて適正な価格で売る。それが理想の画商の仕事だと笑う。


「ただ、今回の細密画は買値が安すぎた。余りにも安い価格を付けて売るとこれもまた絵の価値を下げることになるからね。難しいよ」

 二十枚の細密画と革のトランクで二千円以下というのは、初めて聞く価格。いつもはすぐに決まる値段も、科学鑑定が終わってから決めるらしい。


 小さな画廊が商売優先でなく理想優先で成り立っているのは、オーナーと先代のオーナーのおかげ。長く正直な商売を続けてきたからこそ、顧客との厚い信頼関係が構築されている。


「七神はオーナーの親戚なんだ。僕とは生まれた時から運命の糸で結ばれていてね」

 唐突に朝木から話題を振られて、三杯目のマティーニを飲んでいた七神がむせた。

「待て。それは誤解を招く物言いだぞ。私に妙な趣味はない」


 瞳を揺らし静かに慌てる七神の顔を見て、朝木が笑いをこらえつつ肩を震わせる。

「冗談だよ。あまりにも愛想がないから、からかってみただけだ。賀美原さん、僕も妙な趣味はないからね」

 大人だと思っていた朝木の意外な一面に、どきどきしながら苦笑する。ひたすら飲んでいた七神は朝木の話を聞いていないのかと思っていたのに、ちゃんと聞いていたのか。


「僕と七神は同じ日に、同じ病院で生まれたんだ。そこから大学までずっと一緒だった。職業は別になったけど、今でもこうして深い関係だ」

「お前……ワザとだろ?」

 朝木と同じと聞いて、七神は二十八歳かと考える。私よりも二つ年上。その落ち着いた雰囲気から、もう少し年上かと思っていたのに、朝木にからかわれて慌てる表情は少年のようで可愛らしい。


「ワザとじゃないよ。悪気は無かったんだ」

「悪気が無い方が、性質悪いぞ」

 口を引き結んで朝木を睨みつけた後、七神はショートカクテルを呷る。二人のやり取りを聞いていると、仲の良さが感じられて楽しい。


 朝木からカクテルを一杯おごられて、気が付けば午後九時を回っていた。帰って眠らなければ明日の仕事に影響してしまう。


「明日の仕事があるので、そろそろ帰ります。ありがとうございました」

 お礼を言って立ち上がると、朝木と七神がカクテルを飲み干して、送ると同時に口にした。二人とも強いお酒にも関わらずジュースのように飲んでいても、顔色一つ変わっていない。


「いえ、あの、すぐ近くなので」

 バーから部屋までは、夜でも明るい道ばかり。人通りもあるから危険は少ない。

「えーっと、部屋まで押し掛けたりしないから。七神はわからないけど僕は安全を保障するよ」

「私も安全だ」

 何が安全なのかわからないけれど、明るく笑う朝木と口を引き結ぶ七神との表情の対比がおかしくて、私は笑ってしまった。


      ◆


 マンションの入り口手前まで送ってくれた二人は、これからラーメンを食べに行くらしい。結局、七神には何も聞くことはできず謎は謎のまま。無理にでも聞けばよかったと後悔ばかり。


 鞄の中から部屋の鍵を出そうとして、白いハンカチが入っていることに気が付いた。もらった白いハンカチはスーツのポケットに入っていて、これは全く別のもの。そっと開くと小さな白いお守り袋が中に包まれている。昨今流行りの小型の追跡装置の可能性も頭に浮かんで、迷いながらも袋を開く。


「これ……」

 中に入っていたのは、墨で図形が描かれた白木の板。その図形はハンカチに書かれたものと同じだった。やはり七神があのハンカチの男性なのかと、ほっとする。


「電話番号とかメッセージナンバーとか……は、ないのかー」

 期待したのに、そんなものは全く影も形もなかった。それでも心強くなった私は、お守りを握りしめて部屋の扉を開く。


 部屋はお昼休みに帰ってきて掃除をしたので、塩の小山は無い。窓の黒い手形も消えていて、本当に何の痕跡も残っていない。怖いと思っていても、このお守りを握りしめていると、不思議と護られているような気がする。


 バーにいる間、スマホを見る事ができなかったので、メッセージアプリを確認して美織と文葉に返事をする。二人とも普段と全く変わらなくて、奇妙な体験をしたのは私だけなのかと複雑な気分。


 何故美織の部屋の御札は、文葉でなくて私に目を付けたのか。何が理由なのか、何が目的なのか、思い返してもさっぱりわからない。


 寝支度を整え、玄関と窓の内側に塩を撒く。昨日、黒い泥は塩があった場所を避けていたから、やっぱり塩は効くのだろう。


「もう何事もありませんように!」

 何となく両手を合わせて、拝んでみると気持ちが軽くなった。霊符が書かれたハンカチでスマホを包み、枕元にお守りを置いて眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る