第二話 深夜の訪問者

 小さな個人経営の画廊というと朝は遅いイメージがあるけれど、私が勤める画廊は朝が早い。朝七時には鍵を開けて、七時半に画廊を開く。スタッフは朝番と夜番勤務に別れていて、画廊自体は午後十一時まで開いている。


 メインの顧客は企業の社長や取締役。引退した方々も多く、早朝や夜にふらりと訪れて気に入った絵を買っていく。早朝のたった十分の滞在で数百万円の絵が売れることもよくある話。


 基本的に画廊は絵を展示する場所で、絵を見ていくだけのお客様も多い。スタッフの仕事は営業ではなく、接待。購入目的で訪れた客の好みを聞き出し、そのニーズに合わせた絵との出会いを演出する。けして購入を無理強いしないし、勧めることもない。客が出会った絵を買いたいと言えば売る。それが、この画廊の方針。


 そんな売り方だから、顧客の最新情報を頭に叩き込み、絵についての知識だけでなくインテリアや流行、経済動向を常に勉強する必要がある。個展が行われる時には、夜通し準備に追われることもあって、忙しくはあってもやりがいは感じている。


 私は画廊から徒歩十分の好立地にあるマンションの一室を画廊のオーナーの紹介で格安で借りていて、朝番の固定勤務。


 朝、画廊に入ると、まずは二階に上がって絵の保管庫の管理データをモニターでチェック。打ちっぱなしのコンクリートの部屋の中、鉄や木で出来た保管庫がずらりと並ぶ。大体、五枚から十枚が一つの保管庫に入れられていて、その絵に最適な湿度と温度が細かく制御されている。こういった保管設備は地下に作られることが多いけれど、この近辺は数十年前に大雨で水没したことがあるので二階になったという経緯がある。


 モニターに表示されたデータに今日も異常はなく、通常どおりの一日が始まる。一階の展示室に飾られた絵に変化がないか確認して、テーブルや椅子を拭き、花瓶から造花を抜いてバックヤードで埃を落として別の造花を組み合わせて戻す。


 造花は精巧に出来ていて、触れてみなければ偽物であることがわからない。画廊内も湿度と温度は調整されているから、水の入った花瓶や鉢植えは置かない決まり。その替わり、画廊の前にはお洒落なプランターがいくつも置かれていて、季節の花が寄せ植えされている。


 プランターに水をやり、ショーウィンドウを拭く。画廊の窓はすべて紫外線カット加工されたガラス。室内の蛍光灯も美術館で使う紫外線吸収膜付き。絵を大事に扱う為の環境が整っている。


 正面扉の鍵を開けようとしたところで、バックヤードから店内にすらりとした人影が現れた。一瞬どきりとしたものの、明るい笑顔で二つ年上の主任と確認してほっとする。自然な茶色のショートヘア。百八十センチを超える背丈に英国式のシャープな印象のグレーのスーツが似合っている。


「賀美原さん、ただいま」

「朝木さん、お帰りなさい。オークションはどうでしたか?」

 海外に絵の買い付けに行っていた朝木は、今年二十八歳の主任。この画廊では主任が副社長に次いでトップに近い役職になる。イギリス英語とフランス語を完全習得していて海外出張が多く、こうして会えるのは貴重な機会。


「全然。流行りではあるだろうけど、うちの顧客の好みとは違ってた。その代わり、蚤の市でおもしろい絵を見つけたよ。事務所に資料をまとめてある。絵は明日届くからよろしく」

「はい。受け入れ準備をしておきます」


 受付カウンターには、表から手元が見えないように仕切りが付けられていて、二人並んで次の個展の案内状のチラシを折る。主任の仕事ではないと言っても、朝木は時間があれば気軽に手伝う。その気軽さが女性スタッフの中で人気要素の一つでもある。


「世界最大の現代アートのオークションと銘打ってあったから期待してたけど、つまらない内容だったよ。全体的に投機目的になってるのと……正直に言えば絵に情熱や魅力が感じられない。バックに画商が付いてて、話題性で値段を吊り上げる商法が多くてうんざりしたりね。一部はマネーロンダリング的な物も感じた」


「マネーロンダリングですか?」

 それは資金洗浄と言われるもので、犯罪で入手したお金の出所をわからなくするための手法。それが絵画取引に関係あるのだろうか。


「たった一枚の絵で巨額が動くからね。犯罪で汚れたお金で絵を買うと、綺麗なお金になって画商の手元に行く。その後、綺麗になったお金を分配する。昔からよくある手だけど、少しも隠そうとしないのは美しくない」

 いつも笑顔で優しい朝木にしては、苦々しい感情がほんの少し声に滲む。


 すぐにその嫌悪感を払拭するように、明るい声へと変化した。

「で、健全なうちの顧客は値段関係なく、部屋に飾りたい人がほとんどだよね」

「そうですね。絵に癒しを求めていらっしゃる方が多いと感じています」

 強さや活気のある絵より、穏やかで整った美しさや、深みがあって静かに想像力を掻き立てられるような物語を感じる絵を求めているように思う。


「会社の目立つ所に飾って、あれは高かったんだぞって話題の種にする人もいない。そうなると仕入れるべき絵はないなって判断した」

 朝木の目利きはオーナー夫妻も太鼓判を押していて信頼も厚い。朝木が面白いと感じた絵は、瞬く間に売れていく。今回はオーナー夫妻も一緒に渡仏していた。


「オーナーご夫妻もお戻りですか?」

「いや。結婚三十三周年記念で、城を見て回って帰るそうだ。ま、あのオークションで有望な画家を探すつもりが、あてが外れたからだろうけど」

 オーナー夫妻は国内外で常に才能の芽がある画家を探している。話し合って条件があえば、絵を定期的に買い個展を開く。大きく花開いて有名画家になる人もいれば、画家を諦めてしまう人もいて難しい。


「おっと、そろそろ出かけないと。途中で悪いね」

「いいえ。とても助かりました。ありがとうございます」

 途中と言いながらも、キリのいい所まで終わっている。


「お土産のお菓子をバックヤードに置いてあるから皆でどうぞ。あと、これは賀美原さんに」

 スーツの内ポケットから出てきたのは、美しいお城が湖に映る一枚のポストカード。手渡されると心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなっていくのがわかる。


「素敵な風景ですね。いつもありがとうございます。……いってらっしゃい」

「ああ、いってくる」

 誰に見られるかわからないので大袈裟には喜べなくても、ささやかなやり取りが嬉しくて頬が緩む。微笑む朝木と目を合わせるのが恥ずかしい。


 朝木は女子スタッフの憧れで、独身ということはわかっていても私生活は謎に包まれている。手を振る朝木を見送って、私は熱くなった頬をそっと手のひらで押さえた。


      ◆


 朝七時から夕方五時までが私の勤務時間。途中二時間の休憩があって、個展の準備や大量の絵の入荷がない限りはきっちり定時に画廊を出ることができる。


 部屋とは反対方向へ五分歩くと、行きつけのショットバーの看板が見えてくる。二階までが書店で三階にバーがあり、午後六時の開店時間まで書店で本を見るのがいつもの定番。


 本棚に本がぎっしりと並ぶ光景は、見ていると落ち着く。背表紙のタイトルを目で追って、気になった本を引き出して表紙とあらすじを確認して買うかどうかを決める。この町の図書館は遠すぎて、電車に乗ってまで行くことはない。


 毎月、書籍手当が出るから沢山の雑誌と専門誌を買う。電子書籍の方が捨てる苦労もないとわかっていても、印刷された紙の匂いが好きだし、内容が記憶に残るような気がしている。


 文庫本とインテリアの雑誌を購入して、私は三階へと向かった。


      ◆


 本を見ている間に、バーの開店時間から三十分も過ぎていた。扉を開くと、そこは外国の雰囲気が漂う空間。壁はレンガで覆われ、使い込まれたアンティーク色のカウンターとスツール。ランプのような照明は、店内を穏やかな光で包む。


 カウンター前に十席とフロアに十個のテーブルが並ぶ。テーブルには椅子はなく、立って飲む形式。今日はカウンターに女性が一名、テーブルに男性一名の客がすでにいた。


 カウンター席に座ると、いつものジャズとは違う、どこか和風を感じるロックが流れている。

「あれ? 今日はロックなんだ」

「ああ、ジュークボックスですよ」

 私よりも年下の新人バーテンダーが笑顔で教えてくれた。ジュークボックスの前のテーブル席に一人の男が陣取っていて、背中が見える。黒いショートヘアですらりと背が高く、黒のジャケットに白シャツとデニム、黒い革のスニーカー。ふと、見たことのない朝木の私服を連想してしまった。


 私がこのショットバーに週二回通うようになったのも、朝木が時々ここに来るから。月に一、二回は遭遇して、運が良ければ短時間一緒に飲むこともある。


「あのジュークボックスが動いてるの初めてみたかも」

 木製のアンティーク感あふれる巨大な箱は、赤や青の光の明滅を繰り返しながら音楽を奏でている。硬貨を入れて動くと知ってはいても、動いている光景を見るのは初めてだった。窓から一部が見えていて、曲が切り替わるとレコードが出し入れされているのがわかる。


 また変わったロックが流れ始めた。ギターの音の替わりに雷鳴が使われているのに不自然に感じない。和太鼓らしき音も混じっている。


「へぇ……おもしろい曲ね。タイトルとか知ってる?」

「僕はロックはさっぱりなんですよ。あのお客さんに聞いてみたらいかがですか」

 バーテンダーはそう言って笑うけれど、下手に声を掛けてナンパと思われたら困るし、知らない男に話し掛ける勇気はない。    


「今日は何にします?」

「そうね……今日はギムレットかな」

 カクテルに詳しくは無くても、ギムレットには『遠い人を想う・長い別れ』という意味があることは知っている。朝木を想ってという訳ではなくて、単に今日は話し掛けられたくないだけ。

 

 マジシャンのような手つきで、シェイカーにジンが注がれる。私は甘いカクテルが好きだと知られているからライムジュースと氷が入って、店内に流れるロックに乗って軽やかにシェイクが始まる。


 カクテルグラスに出来上がったギムレットが注がれ、カットしたライムが添えられて目の前に出された。いつもはおしゃべりなバーテンダーも、その意味を知っているから優しく微笑む。


 根掘り葉掘り聞かれない、この関係は心地いい。このショットバーに務める三人のバーテンダーたちは、自分のことを話しても、客のことを自分から聞いたりはしない。客が話をすると聞いてくれるから、話したければ話せばいい。


 朝木は、時々お土産と言ってポストカードをくれる。今朝もらったポストカードにメッセージは何もなくて、これが意味するものがわからない。他の女性スタッフにも渡しているか確認したくても、全員に渡しているかもしれないし、もしも私だけだったとしたら気まずくなりそうで話題にもできずにいる。


 このバーで遭遇しても、朝木はいつも一人。話すことは仕事や絵のことばかり。優しくて、仕事が出来て素敵な人だと思う。隣にいるだけで嬉しくて満足しているのが現状で、少し勇気を出してみようかと思うことはあっても、いざという時には緊張してしまう。


 鞄の中でスマホが振動した。取り出して確認すると美織からのメッセージ。

『ゴメン、今週末仕事入った! 来週おごるから、ゴメン~』

 先日の泥酔騒ぎは先週の金曜日のこと。今週末はお詫びにおごってくれる約束だった。やっぱり美織は忙しいと何故か頬が緩む。がんばれとメッセージを送ってスマホを鞄に戻すと、隣に先程の男性が座っていた。


「……今のは誰だ?」

「え?」

 鋭い視線で問われて怯む。朝木と同じくらいの年齢の男の顔は、完全に知らない人。バーテンダーに助けを求めようとしても、反対側のカウンターで他のお客の相手をしている。


「あいつらを絶対部屋に招くな。招かなければ部屋には入ってこれない」

 その瞳は真剣で。言っている意味がわからなくても、私を心配してくれていることは伝わってくる。


「……どうして、美織を招いちゃいけないの?」

 ようやく口にした私の言葉を聞いて、男は迷うように視線を揺らす。ふと私の記憶の奥底にうっすらと誰かの姿が浮かんだ。……黒い狩衣姿の、誰か。


「いいから、誰も部屋に招くな」

 男はポケットから白いハンカチと万年筆を取り出して奇妙な図形を描いた。

破軍星はぐんせい霊符れいふだ。必ず持っていろ。君の命に係わる」


 私の手にハンカチを押し付けた男は、さっと会計をすませて姿を消した。


      ◆


 男が姿を消した後、私もバーを出て自分の部屋に戻って来た。私が借りているのは1LDKのセキュリティ万全のマンション。画廊のオーナーの紹介で、相場の半額以下だから住むことができている。

 

「ただいまー」

 扉を開けてすぐの靴箱の上、花瓶に飾った花と小さな龍の置物に帰宅の挨拶をする。誰もいない部屋の灯りを付けると、本だらけの部屋が現れた。


 壁面は巨大な本棚で埋め尽くされ、本がぎっしりと詰まっている。雑誌はすぐに捨てても、本は中々捨てられない。奥の寝室も同じ状況。新しく本を買ったら、古い本を捨てるというルールを作っているからギリギリ保てているだけで、制限を掛けなければ私も本や雑誌の山に埋もれる生活をしていたかもしれない。


 部屋着に着替えて、朝木からもらったポストカードをファイルに綴じる。これでもう三十枚近い。お城や湖、花畑。何の統一性もなくて、ただひたすらに綺麗な場所ばかり。世界には、こんなに美しい景色があるのかと旅行に行きたくなってくる。


 知らない男からもらった白いハンカチを、何故か持って帰ってきてしまった。バーテンダーも他のお客もあのやり取りに何故か気が付いていなかったらしく、何も聞くこともできなかった。


「変な御札みたいね」

 御札と口にして、あの美織の押し入れにあった御札を思い出してぞっとする。いくら幸運を招く御札でも怖すぎる。


 白いハンカチを見ていると、白い狩衣姿の誰かをうっすらと思い出した。顔は全くわからないし、そもそもそんな服を着る知り合いはいない。


「れいふって何だろ……」

 パソコンを起動して検索すると一番に『霊符』と出てきた。お守りという意味があるらしい。格好良いけど、胡散臭い人だった。そんな印象で笑ってしまう。

「後は……はぐ……なんだっけ?」

 霊符の前に言った単語は聞き取れなかったので、調べようがなかった。

 

 時間はまだ午後八時前。夕食を準備しようと、私は立ち上がった。


      ◆


 軽い夕食とお風呂の後は、お気に入りの龍のぬいぐるみを抱えて読書の時間。インテリアの雑誌を見て、興味のある個所や重要なページを切り取ってクリアファイルに入れる。一週間後にもう一度見て、必要ならスキャンしてデータだけを残す。私の場合、こうして知識を蓄積して保存していく。


 文庫本の方は、ただひたすらに読む。繰り返し読みたいと思ったら、棚へ仲間入り。一度でいいと思ったら古紙回収へ。しばらくしてもう一度読みたくなったら、改めて買う。


 本を買って読むことは、ブランド品に興味のない私の贅沢。紅茶を飲みながら本を読む時間がとても幸せだと感じる。


 文庫本を読んでいる途中で、一つ目のアラームが鳴った。そろそろ寝る時間だと身構えつつも本を読む。区切りの良い所で二つ目のアラームが鳴ってようやく本を閉じる。


 さて寝るかと壁の時計を見て驚いた。午前一時。それはあり得ない時間。いつも私は午後十一時には就寝する。アラームは十時と十時半に掛けていて、数分前になったばかりなのに。


 スマホを見ても、午前一時を指している。これは朝起きれないかもしれないと危機感を覚え、慌てて寝室へと駆け込んだ。


 六畳の寝室の空いた壁面も本棚で埋め尽くされていて、作りつけのクローゼットの扉の前だけは何もない。中央にベッドを置いていて、災害の時は危ないと思ってはいても、なかなか動かす決断ができない。


「アラーム五個くらい掛けとこ」

 スマホと時計と起床時間をセット。遮光カーテンを閉めようとして、レースカーテンの隙間から窓が見えて、あり得ない物が目に入った。


「え?」

 窓には小さな黒い手形がいくつも残っている。ここは四階なのに。

 一瞬で背筋がぞくりと冷えた。震える手で遮光カーテンを閉めた時、部屋の電灯が消えて玄関のドアを微かに叩く音が耳に入ってきた。


『あいつらを絶対部屋に招くな。招かなければ部屋には入ってこれない』

 あの男性が言っていたことを思い出したものの、どうしたらいいのかわからない。


 ドアを叩く音は徐々に大きくなって、ついにはガンガンと殴りつけるような音が部屋中に響く。あまりにも怖くて、何もできずに私は寝室の中で立ち尽くすだけ。誰か助けて欲しいと願ってもむなしい。


 唐突に扉を叩く音が消え、電灯も点いた。明るく照らし出された部屋は何も変わっていない。何が起きたのかと考えてみても、よくわからなかった。


「えーと、塩!」

 幽霊やお化けには塩。何となくそう思っていた。キッチンの棚から塩の袋を出して、玄関の扉に向かって塩を投げつける。部屋の四隅にも塩を撒き、貰った白いハンカチを握ったまま中央に座り込んで、一時間近くが何事もなく過ぎ去った。


 床に撒いた塩を見つめていると、気分も落ち着いてきた。

「疲れてるのかな……」

 冷静に考えると、あれだけ扉を激しく叩く音が聞えたら、マンションの住人や周囲の誰かが警察に通報しているだろう。パトカーの音もない。疲労で幻聴が聞えたのかと思うと、早く眠るべきだったと後悔するのみ。


 玄関の塩をホウキで掃き寄せ、掃除用のワイパーで床に散らばる塩を部屋の隅にざっと集めると小さな山になった。夜中に掃除機は掛けられないから、朝まではこのまま。塩を無駄にしてしまったという罪悪感が湧いてきて溜息を吐く。


 スマホの着信音が部屋に鳴り響き、飛び上がりそうなくらいに驚いた。光る画面に表示されているのは文葉の名前。すがるような勢いでスマホを手にして応答する。

「も、もしもし」

「あ、蓮乃ー、今からそっち行ってもいいかなー?」

 やたらと明るい文葉の声で、ほっとする。


「いいよー。心細かった所なの、早く……」

 口にしてから気が付いた。時間は午前二時過ぎ。こんな深夜に文葉が来る訳がない。ぞくりと背筋が冷える。


 震える手でスマホの画面を見ると、こけしのような顔が映っていた。小さく悲鳴を上げてスマホを床に放り投げ、ハンカチを握りしめて玄関へと走る。


 扉を開けようとして、外に何かがいる気配を感じた。ずりずりと扉に何かをすり付けているような音が聞こえて怯む。


 ついには扉の隙間から、黒い泥のようなものが染み出して来た。粘菌のようにうごめく泥は、小山になった塩を避けつつ、じわじわと玄関の中に入り込んでくる。


 ふりむくと、美織の部屋で見た御札にそっくりな物が空中に浮いていた。薄汚れた赤色の和服にくすんだ色の帯。白い糸は消えていて、ふわふわと揺れ動きながら徐々に近づいてくる。


 正面には黒い泥、背後には不気味な御札が迫る。助けを求めたくても、喉が凍り付いたように動かない。足が、体が動かない。恐怖と絶望の中、ただハンカチを握りしめて胸に抱く。


『――私が護る』

 黒い狩衣姿の男の姿が脳裏に一瞬閃いたと同時に、黒い泥はするすると逃げ出して消え、御札の姿も消えていた。


「……誰?」

 手の中に残るのは、握りしめてくしゃくしゃになった白いハンカチのみ。狩衣の男の顔を思い出そうとしても、顔だけ陰になっていたからわからない。ハンカチをくれた男性に似ているような気がしても、全然違うような気もする。


 とにもかくにも助かった。安堵で力が抜けた私は、床に座り込んで息を吐いた。

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