第一話 幸運を呼ぶ御札
お洒落な高級マンションの部屋の前、想像もしていなかった惨状に、私と友人の
美人で完璧超人だと思っていたデザイナーの友人、
「美織、部屋に着いたよ」
「ん-。どのお部屋ー?
完全に酔った美織は、私の名前を連呼する。緩やかに巻かれた茶髪にグレーのピンストライプのパンツスーツ、真っ白なシャツ、黒のハイヒールと鞄は全部ブランド品。私のベージュのスーツと文葉が着ている茶色のスーツと靴を合計しても、きっとその鞄の半分の値段にもならないだろう。
「まだ酔いが抜けないかー。仕方ないなぁ。おじゃましまーっす」
苦笑する文葉に促され足元のおぼつかない美織を両横から支えるようにして、荷物のせいで体を横にしなければ通れない廊下を通り抜ける。
苦労してようやくたどり着いたリビングも、物が満ち溢れていた。ソファの一カ所だけが何も置かれておらず、とりあえずそこへ美織を座らせる。
「美織、ベッドはどこ?」
「ん-? 蓮乃の膝の上でいいよー。あ、文葉もいいかなー。よし、両方面倒みちゃう!」
ソファに沈み込む美織に何度聞いても、まともな返事はない。仕方なく文葉と部屋を探索する。
3LDKのどの部屋もゴミがうずたかく積まれていた。このマンションを買ったと聞いたのは一年半前。たったそれだけの期間で、こうなってしまうのかと考えるとせつない。憧れのブランド品の箱や紙袋も、ゴミに埋もれると同じゴミにしか見えない。開封すらしていない箱もある。
ゴミの中に出来た道を辿って扉を開けるとウォーキングクローゼットだった。二畳程のスペースのハンガーに、ブランド品のスーツや服が並び、棚には鞄、床には靴が山積みで散乱している。……いつもブランド品を格好良く着こなしていて、うらやましいと思っていたのに。
他の部屋を確認しても、ベッドがどこにあるのかわからない。
「どこで寝てるんだろ?」
「……もしかしたら、そこじゃないかな……」
文葉の指し示した空間は、人が横になって眠れるかどうかという狭さで、青色のヨガマットがゴミの上に乗っている。どうみても眠れる場所とは思えない。
「まさか……って言っても、他に空いてないもんね……掛布団とかないのかな?」
掛布団を探していると、文葉が和室で声をあげた。
「蓮乃、押し入れあるみたい」
壁に積まれた段ボール箱の後ろに、わずかにふすまらしきものが見える。
「……布団、あるかな?」
「開けてみる? あ、これ空箱なんだ……」
文葉と二人、迷いながらも段ボールを避けてみると茶色の染みとカビに塗れたふすまが現れた。
「……これって、中もヤバイんじゃない? やめとこ」
カビだらけになっているかもしれないと止めたのに、文葉はふすまを開いた。
「あれ? 空?」
押し入れの中には、何も入っていなかった。恐れていたカビ臭さもない。ただ、奥の真ん中に十五センチくらいの御札のような物が一つ立て掛けられているだけ。
「何あれ、こけしの薄切り?」
文葉の言葉は的確過ぎて、状況を忘れて肩の力が抜けた。
「ちょ。薄切りって何よ。確かにそう見えるけど……人型の御札って……もしかして流し雛?」
「お雛様だったら男女ペアでしょ」
こけしのような顔が描かれた古びた木の板が、薄汚れた赤い布の和服を着せられていて、妙に綺麗で輝く白い糸が黄土色の帯の上に何重にも巻かれて結ばれている。
「空いてるの、もったいないね。……いっそここで寝ればいいのに」
部屋はいろんな物が溢れているのに物を収納するべき場所には何もない。その奇妙な対比が物悲しく思える。文葉と乾いた笑いを交わした時、突然白い糸が切れて落ちた。
ぽとりと異様に大きく響いた音が、背筋を凍らせる。
「私たち、何もしてないよね? 突然過ぎない? え、何か怖いんですけどー」
文葉の不自然に明るい声が震えている。私だって怖い。室内には風もないし、押し入れの中に手を入れてすらいない。開けた振動が原因とは思えなかった。
「……と、とりあえず、閉めようか。掛布団無いみたいだし」
私の提案に何度もうなずいた文葉は、そっとふすまを閉めた。
◆
完全に酔いつぶれた美織をヨガマットの上に横たえ、枕元に買ってきたスポーツドリンクを置いてマンションから出てきた。奇妙な御札を見てから、文葉も私も言葉が出ない。美織のことは気になっても、あの御札から一刻でも早く離れたかった。
時間は午後十一時。明日は休日だし、何となく一人になりたくなかったのは文葉も同じだったようで、私は文葉の部屋に誘われた。就職して独り暮らしを始めてからは、初めて文葉の部屋に入る。
学生の頃は、お互いの家を頻繁に行き来していた。それぞれの就職先が決まり、引っ越ししてからは何となく外で会う方が気楽に感じるようになっていた。
「周りに何もないでしょ。不便でボロいマンションだからさ、家賃は激安なのよね」
有名企業で事務職の文葉の部屋は賃貸マンションの一室。2Kの部屋は、綺麗に片付いていてほっとしてしまう。ライトブラウンの木製の家具で統一されていて、猫の小物やぬいぐるみがあちこちに飾られている。
スーツの上着を脱ぐと、さっとハンガーを手渡された。お礼を言って、部屋の隅に置かれたポールハンガーへと掛ける。緩く結んでいた髪を解くと、さらさらと肩に零れ落ちていく。
「そういえばさぁ。蓮乃は髪、染めないの?」
文葉はダークブラウンに染めている。不自然にならない程度なら許されているらしい。
「黒髪で覚えてるお客さんもいるから、いきなり変えるのは難しいかなぁ」
私が勤める小さな画廊の顧客は古風な人が多いから、髪を染めると嫌がられるかもしれない。
「そっかー。飲み直す? それとも何か食べる?」
「食べる! 何かあったかいのがいいな」
初めて部屋に入ったのに、ついつい普段の甘えた言動が出てしまった。文葉は嫌な顔一つせず、笑いながら冷蔵庫を開ける。周囲にはコンビニすらない辺鄙な場所でも、料理好きの文葉の大きな冷蔵庫には豊富な食材が詰まっていた。
「すごーいっ。すぐに主婦できそう」
冷蔵庫の中はきっちりと整理整頓されていて、冷気が回るように適度な空間が保たれている。賞味期限が書かれたテープがすべてに貼られていて、一目でわかりやすい。
「だったらいいけどねー。あ、そこに座ってて。すぐできるから」
冷凍庫には保存袋に入った食材がぎっしり。いくつかの袋と冷凍うどんを手に取って、文葉はキッチンへと入っていく。
木製のテーブルセットには椅子が二つ。座って待つ間、スマホで美織にメッセージを送ってみても、既読は付かない。起きるのは朝かもしれない。
十分も経たないうちにテーブルには温かいうどんと、きゅうりとワカメの酢の物の小鉢が並べられた。うどんには卵と小松菜とカニかまが乗っていて、青ネギが散らされている。
「割りばしでごめんねー」
「大丈夫。それにしても、十分で出来るメニューって思えなくて凄いんですけど」
「凄いでしょー。褒めて褒めて」
文葉の明るい笑顔は可愛くて、見ているとほっとする。褒めたたえながら、うどんをすする。
「美味しー。えー、これは美味し過ぎ」
うどんは出汁が効いていて、薄味なのに美味しい。
「この部屋越してきて初めての嬉しい感想だ。やっぱ褒められると嬉しいねぇ」
落語家のような芝居がかった文葉の声と表情に笑ってしまう。文葉は落語好きで、時々寄席にも通っている。
「あれ? 文葉って、彼氏を部屋に入れたことないの?」
「前の彼氏を一回だけ入れたことあるんだけど、勝手に冷蔵庫開けたから別れた」
「え? 別れたのは聞いたけど、それ聞いたことなかった。そんなことで別れる?」
「些細なことってわかってるから言わなかったの。何ていうのかな。……何回も来て、慣れたあたりだったら気にならなかったのかなぁ。……親しき中にも礼儀ありっていうじゃない? 別に開けるだけだったら許せたかもしれないけど、いきなり牛乳出してパックのまま飲むからびっくりしちゃって」
「あ、それは私も無理かも。直飲みが許されるのって、高校生までよね」
「高校生でも無理無理。まぁ責任もって、全部飲むならぎりぎり許すかな」
合間に口にする酢の物の歯ごたえと酸味がさらにうどんの味を引き立てて、称賛の言葉が止まらない。
「待って待って。あんまり褒められるとめんつゆと液体昆布だし使ってるなんて言えなくなるじゃない」
「それ言ってるから。あ、そっか。めんつゆだけの味じゃないって思ったら、そういうことかー。液体の昆布だしなんてあるの?」
「あるある。ちょっとお高めのスーパーにしかないけど、一匙入れるだけで全然違うの。前は昆布茶使ってたんだけど今は液体」
「あ、そうなんだ。今度探してみるね」
他愛のない話をしながら体が温まってくると、心も落ち着いてきた。
「……美織、大丈夫かな」
文葉の呟きでメッセージを送ったことを思い出し、スマホを鞄から取り出して確認する。
「さっきメッセージ送ったけど……やっぱまだ、未読」
「そっか。……稼いでるんだから、お手伝いさんとか雇えばいいのに」
「……そうね。でも、あの部屋見られたくないっていうのもあるだろうから……」
あの部屋の惨状を笑い話にはできなかった。小さな画廊に務める私でも、忙しい時は部屋を掃除する時間すら惜しいこともある。この二年、デザイナーの美織はいくつものデザインコンペで入賞していて、常に大きな仕事を抱えていた。今が人生で一番大事な時期だと思ったら、私生活が後回しになるのは理解できる。
「彼氏とすぐ別れるっていうのも、あれが原因なのかな。部屋に呼べないでしょ」
「それは違うんじゃない? 付き合ってすぐに彼氏部屋に入れたりしないでしょ。忙しくてデートのドタキャンばっかだったからじゃない?」
「あー、それもそうか。私も半年くらいは部屋に呼べなかったもんなー」
美人の美織は一、二カ月で彼氏が変わるのが普通で、最短は十日ということもある。文葉は三カ月前に別れてフリー。私は……就職する直前に別れて、それっきりの現在二十六歳。出会いを求めるのも面倒だし、職場の先輩に憧れているから彼氏を作る必要性を感じなかった。
食後の緑茶を淹れて、美織が口を開いた。
「あのさぁ……あの御札、二年くらい前に話題になったやつじゃないかな……」
「そうだったの? 聞いたことないんだけど」
「えーっと……SNSで。蓮乃が苦手って言ってたショート専門の動画サイトなんだけど」
それは中高校生に人気のサイト。五秒から三十秒の短い動画ばかりで、今年二十六になる私たちより若い世代向け。文葉が見ているとは思わなかった。
「どんな話題だったの?」
「とある県の山奥の神社に祀られてる七つの御札なんだけど、北斗七星の力が宿っていて、大事に持ってると信じられない幸運がどかどか押し寄せるっていう話。……信じるか信じないかは貴方次第ってぇやつよ」
文葉はまた、落語家のような滑稽な調子で話して笑う。そんなご利益があるようには見えなかった。不気味という印象だけが残っている。
「神社に祀られてるんだったら、美織の部屋にあるわけないじゃない」
「それがね、話題になった直後に盗まれちゃったの。……監視カメラには、地元民じゃない若者グループが映ってて……」
文葉の声の調子が途中からおどろおどろしい物に変わる。
「その言い方怖っ。カメラで撮ってたんなら、被害届だせばすぐにわかるんじゃない?」
「ここからがホラーよ。半年後警察が探し当てた時、盗んだと思われる七人全員が死んでたの。最初が自殺、次は痴情のもつれで刺殺。交通事故に山崩れと水難事故。あと二人何だったか忘れたけど、とにかく全員死んでて、御札は見つからなかったって」
「うわっ。ちょっと待って、鳥肌立ってきたっ」
ぞわぞわと腕に走る不快感。思わず自分を抱きしめるようにして腕をさする。
文葉がスマホを手に取って、動画アプリを起動した。
「動画で、七つの御札が祀られてた頃の神社の写真を紹介してたのがあって……それに似てるような気がして……あー。削除されてるー」
「普通、削除されたら逆に拡散するものじゃないの?」
「そうよね。えーっと確か……
「しちけんぼし? 何それ?」
「北斗七星の和名なんだって。カッコイイから覚えてた。……タグも消えてるっぽいな……」
「あ、別にもう一回見たくないから、探さなくていいよ。でもさ、大事にするっていうなら神棚とかに祀ったりしない? あんな暗い場所に置いとくだけなんて、逆に不敬かも」
暗い押し入れの中、ぽつりと置かれていた光景は夢に見そうで怖くなる。
「いやー、盗品って知ってたら、隠したくなるんじゃないかな。表に飾ってあったら誰かに見られてバレるかもしれないじゃん? ……美織がコンペで入賞し始めたりしたのって、あのマンション買う直前くらいからでしょ? どういう経緯かわからないけど、あの御札を手に入れたのが理由かも」
「……仮にあの御札がその盗まれた物だったとして、どうするの?」
「どうもしない。だって、友達が盗品持ってるかもなんて、確証なしで通報なんて出来るわけないし、返したらともいえないし。これまでと変わらず……と言いたい所だけど、お手伝いさんだけは勧めたいかなぁ」
盗品かもしれない。そうだったとしても、理由も聞かずに友達を犯人として突き出す勇気はないし、理由を聞く勇気もない。
「うーん。それはそうね。でもさ、芸能人のお手伝いさんが指輪盗んだっていうのもこの前あったでしょ」
「あー、あった、あった。あれ、宝石が沢山あるから一つくらいわからないだろうっていうので始まって、調子乗って幾つも売り飛ばして発覚したっていう話よね。あの状況じゃあ、鞄とか靴、いくつか持っていかれてもわかんないかー。難しー」
「美織が何か相談とかしてくれたら、手伝うか何か改善方法考えるっていうのがいいのかな」
「そうねー。いやー、でも、美織の部屋って衝撃だったなー」
「う。私の部屋も結構衝撃だから、綺麗好きの文葉には見せられないかも」
「そうなの? どうせ本だらけなんでしょー。何、本の中で寝てるとか?」
「え? バレてる? 見た目でわかるとか? 古本の匂いとか?」
慌てて自分のシャツの袖の匂いをかいでみる。毎晩本に囲まれているから、自分では気づいていなかったかもしれない。
「何となく、よ。高校の時から、本ばっかり読んでるじゃない。……今日、泊ってく?」
「えーっと、いい?」
「もちろん。っていうか、あの御札が怖くって。一人で寝たら絶対夢に出てくるよ」
「あー、それは確かに」
文葉は笑って立ち上がり、私の為にジャージやいろんな物を用意してくれた。
「下着は非常用の使い捨てのでいいかな?」
棚から、さっと黒いリュックが出てきて驚いた。中には圧縮されたタオルや缶詰等が入っている。
「凄い、そういう準備してるんだ」
「いつ災害あるかわからないんだから、蓮乃も防災リュックくらい準備しときなよー」
「一人だから、貴重品持ってれば大丈夫かなーって」
「そう言う事言ってると、いざという時困るんだって。手ぶらで避難所とか行くの絶対気が引けるじゃん。あ、お風呂入れるねー」
文葉が浴室に消えると、お湯の音とは異なるシャーッという不快な音が聞こえた。虫か何かがいるのかと視線を向けると、そこはレースカーテンの掛かった窓。きっちりとカーテンは窓を覆っているのに、何故か見られているような気がして仕方ない。
「……どしたの?」
「え? あ、レースカーテンだけだと、不用心じゃない?」
「一応ミラーカーテンだけど……やっぱ危ないかな」
「ミラーカーテンでも、誰かいるってシルエットが外から見えるでしょ。もう一枚普通のカーテンあった方がいいと思う。私は遮光カーテンとレースカーテンにしてるから、朝も眩しくなくていいよ」
「そっか。私も遮光カーテン付けてみようかな」
「防災リュック用意してるのに、防犯は無防備じゃない?」
「それはそれ、これはこれよ。……実は防災リュックが投げ売りで半額セールだったの。しかもポイント二十倍! につられて買っちゃったー」
「文葉って、昔から半額セールに弱いよねー」
「半額っていう言葉にときめくから仕方ないの! ときめきは私の人生で一番大事なのよ!」
文葉と笑って話している間に不快な音は消え、視線を感じなくなってほっとする。
私の気のせい……だと思う。……ここは五階なのだから。
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