第2話 醤油ラーメン
その店の前には、錆びだらけの車が停めてあった。
錆だけではない。
運転席のドアが無かった。
何をどうすれば、このような仕上がりの車が出来上がるのか分かるまい。だが、人智を越える力が働いたのなら答えは別である。
このような車は、奈良の土地を散策すれば、いくらでも発見することが出来た。
奈良はもうすぐ、魔都と化すのだ。
店の出入口である引戸はガタついており、コツを掴まないと音がなる。
引戸を潜った先には、黒いレインコートを着た男が、狭い店内のカウンターに腰をかけて、ラーメンをすすっていた。
「いやはや、これは美味いな。まさか営業中だなんて、俺ってついてるなぁ」
はしゃぐ鹿目に脊髄反射して、カウンターの中で背中を向けていた女が、くるりと振り向いた。
「兄ちゃん。ラーメンは黙って喰えや」
女は、どぎつい関西弁で鹿目の口を塞ぎにかかる。あっち方面の方ではないかと、疑りたくなる迫力だ。
キャップ帽を目深に被っていて、歳は鹿目とあまり変わらないだろう。長い黒髪を後ろで纏めていた。
何故だか知らないが、親の
「はあ? 何それ? そんなん客の自由だろ?」
「はあ? やないねん。チンタラチンタラしてへんと、ここはラーメンを喰う所や。嫌やったら出て行きや」
腕を組んだ女店主は、凄い巻き舌だ。
美人のくせして、喧嘩慣れしている様子が
売り言葉に買い言葉。鹿目も反撃した。
「俺は客。お金払って食べに来てる。感想言うぐらいの権利はあるだろう。何だよ、お前、偉そうに。美味いって言ってんだよ。何が悪いんだよ」
「ふん……。
「し、素人って……。俺の感想は、当てにならんと言いたげだな?」
「自分が作ったラーメンの味は、私が一番ようわかってんねん。中途半端な物をお客に出すわけないやろ。だから、いちいちそんな感想はいらんねん。熱い内に、一番おいしい内に食べて欲しい。これだけが私の願いや。この純粋な気持ちが兄ちゃんには分からんのか?」
「いやいや、その気持ちは素晴らしいが、感想ぐらい言ってもいいだろう? 一秒か二秒だ。言葉で美味いと言うと、脳が刺激されて、余計においしく感じるんだよ。ラーメンは五感で楽しむもんだろうが、違うのかよ」
俺はそこそこ、美味しいラーメンを食べ歩いているんだぜ。まったくの素人だと油断していると、痛い目に遭わすぜ。
鹿目は咄嗟に、そのような雰囲気を作った。
女店主は何か言いかけていたが、ぐっと飲み込む。
「……五感な。ちょっとぐらッと来たで今の言葉。まるで、どこぞのラーメンブロガーの言葉やな。だけどな……。わざわざ言わんでも、私のラーメンは充分美味しいねん。さあ早く食べて。……てか、すでに湯気がないやん? もう! これが嫌やったんやで! 熱々が美味いんや! 作り直すわ、貸して!」
「おっと、待て待て! ちょっと待て!」
鹿目は、せっかちに手を伸ばす女店主を制止する。それから、革手袋に包まれた両手をラーメンが入ったどんぶりに添えた。革手袋に奇妙な文字が浮かび上がると、途端にどんぶりから湯気が湧き出る。
女店主は驚いた。
「え? 何今の?」
「
「ひょっとして、兄ちゃん
「そうそう。いいか? 食うぞ」
「ああ、ごめんごめん。食べて食べて」
いつしか立場が逆転した。
ズッズズッ――。
行儀の悪い音が再開する。
醤油ベースだが、少しピリ辛のラーメン。
奈良のラーメンの特徴だろうか……。
いや、奈良に特徴などない。
忘れてはいけなかった。奈良には何もないのだ。油断をして思考を止めてしまえば、初歩的なルールさえ思い出せなくなる。
だから、魔都化が進んでいるのだ。
奈良には期待してはいけない。
楽しいのは奈良に着くまでだ。
熱いラーメンを喰い終えた鹿目は、空になったどんぶりに一礼する。
「ご馳走さま。ところで法隆寺って、この道まっすぐ行って、二十五号線に出たら、左でよかったよねぇ?」
うろ覚えの道順を必死で思い出しながら、鹿目は店主の女に向かって話しかける。端末を使えば、すぐ分かる情報だが、聞く方が早いと判断した。
女店主はどんぶりを下げながら鹿目の顔を見る。女の瞳には僅かに光が灯っていた。もしかしたら、さっきの言い合いの続きをするつもりかも知れない。
「あんな化け物に会いに行くん? 止めといたら?」
心配とはよそに、女はテーブル拭きを投げてよこした。
どこまでもセルフなお店らしい。
「いんやぁ~。さっきも言ったよね。俺って
「お前みたいな軽薄そうなんが、ほんまに神使なん?」
「ほんまほんま。少し暴れる予定だから、県外に脱出しといてもらえると嬉しいかな」
「それは無理やな~」
と言って、女店主は片足をカウンターにのせた。凄く持ち上がる足だが、素足に下駄の右足は
「なるほどなるほど、これは無理だな」
目の前に陳列された、肉付きの良い足を見ながら、鹿目は大袈裟に頷いた。変色してしまった足は、魔都化する奈良の一部となっている。
遠くまで歩くことも出来ないし、乗り物で奈良を離れることも出来ない。彼女はもう逃げられないのだ。
「私と同じ身体のやつが、何百人もおるで~。医者もよう治さんねんて、兄ちゃんなら治せるか?」
「多分、法隆寺を殺ったら魔都化が止まって治ると思うけどね。奈良のボスって法隆寺でしょ?」
「どうやろなぁ~? 確かに法隆寺は木造最古のお寺で世界遺産にもなっとるから、ボスって感じはするけどなぁ。でも活かしきれてないんよ。ここの役人どもはアホやから、道路の脇に誰も利用せんようなベンチ作ってお仕舞いや。あんな空気の悪い所で誰が休憩すんねん」
「ふむふむ、それで?」
「格で言うたら、東大寺とか春日大社とかのほうが上ちゃうか? あっちの役人も下手くそやけど、まだ法隆寺より知名度あるで、あっちがボス違う?」
「う――ん。それだと面倒だなぁ」
鹿目の愛車のシエンタは、法隆寺という化け物に錆びだらけにされてしまった。
鹿目がラーメンをすすっていたこの場所は
東大寺や春日大社がある場所は奈良市内。
北上して二十キロ弱は進まないといけない。はっきり言って無理だ。
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