第15話

 驚いて振り返るとすでに若リーマンは電車から降りかけたところだった。

 彼がこちらを振り返る。ニヤリと笑い、親指が下を向くポーズを芝居がかった表情で翔太に決める。


「待てコラ!てめぇ!」


 翔太は生まれて初めての大声を出した。自分がこれだけの声を出せることに少し驚いた。

「発車します、白線の内側までお下がりください」

 駅員のアナウンスが流れたが翔太は電車の出口に飛び出していた。満員電車ではないのでドアが閉まるまでには間に合うだろう。

(あの野郎、絶対許さねえ……!)

 手前らみたいな勝ち組に舐めた態度を取られることだけは許せなかった。

 そういうことをしない、常識的な振る舞いが出来ることがお前らの武器じゃなかったのか?そういうツラで社会的な地位を築いてきたんじゃないのか?

(やってやる!手前らみたいな人間がいるからこの世界はクソなんだよ!)

 徹底的にやってやるつもりだった。

 体格的には大体同じくらいだろうか?ただ座っている時に見えた太ももはかなり太かった。学生時代にちゃんとスポーツをしてきたタイプだろう。

 ただそれでも負けるつもりはなかった。あっちは軽く揶揄ってストレス解消に小競り合いを楽しむ程度のつもりなのだろう。口論から最悪掴み合いになっても構わないくらいの覚悟はあるのかもしれないが、こっちは殺すつもりだ。

 こっちはとっくに人生を棒に振っているのだ。あいつを殺して刑務所に入ることくらい今さら何でもない。


(……間に合う!)

 発車のアナウンスはすでに流れていたが、まだドアは閉まっていなかった。

 ドア付近には乗客も降客もいなかった。翔太は数歩の短い距離を走った。

 だがその時不意に乗り込んできた一台のベビーカーによって翔太の進路は塞がれた。反射的にブレーキをかける翔太だったが止まりきることは出来ず、右足がベビーカーに引っ掛かりもんどり打って電車外に転がり落ちた。

(クソが!……どういうつもりだ、このクソ親は!?)

 無様に転げ落ちた屈辱を噛み締めながら、それを上回る怒りが翔太の顔を上げさせた。電車を振り返ると母親がこちら睨み付けていた。なぜか懐かしい匂いを思い出した。

 翔太が罵声を浴びせるよりも早く口を開いたのは、彼女の方だった。

「ちょっとどういうつもりなのよ!ベビーカーが引っくり返っていたらどうしてくれるのよ!」

「……はあ?てめえらこそ出口を急に塞ぐなんてどういうつもりだよ!ふざけんな!」

「謝るのはそっちの方でしょ!こっちは子供乗せてるのよ?もし子供がケガでもしたらあなた責任取れるの!?」

「……そのガラクタが周囲の人間にどれだけ迷惑になっているか考えたことあるのか?このクソ親!」

 いつもはすぐに言葉の出てこない翔太だったが、彼女に対してはスラスラと言葉が出てきた。

 ふと思い出し、後ろを振り返ると例の若リーマンの姿は見当たらなかった。

(……クソ!あの野郎!絶対見つけ出して殺してやる)

「発車します!!お下がり下さい!!」

 駅員もこちらの騒動に気付いたのだろう。苛立ちを隠しきれないアナウンスがホームに響いた。

 ノートパソコンをカチャカチャやっていたはずのその他大勢のサラリーマンどもも、何事かと好奇の眼差しでこちらを眺めている。自分が加害者でも被害者でもない目前の騒動というのは退屈な日常を送る彼らにとって一番の好物なのだろう。本当に楽しそうで腐った顔をしている。


 やがてホームの転落防止用のドアが閉まり、電車のドアが閉まった。

 ガラス越しに当事者の母親だけでなく、すべての乗客がこちらを珍獣を見るような目でこちらを見ていた。そのまま地下鉄はゆっくりと走り出した。

(……ああっ!クソがっ!)

 やり場のない怒りを込めて翔太はホームドアを蹴ったが、ホームドアは頑丈でビクともしなかった。

 まったく……この世界はどうなっているのだろうか?俺に接してくる人間は俺を苛立たせる敵しかいないのだろうか?それともこれが神の仕業だとでも言うのだろうか?

 だいたい、あのベビーカーを押している母親の態度の不遜さは何なのだろうか?なぜあんなに自分本意にしか物事を考えらないのだろうか?

 見たところ翔太と同年代か少し若いくらいの母親に見えた。派手すぎず地味すぎず、嫌味なくらい小綺麗な母親だった。女性の服装や持ち物に対する知識が翔太にあるはずもなかったが、彼女が美容や服装に意識と金を掛けて出来上がった人間であることは雰囲気で分かった。どうせ代官山だか青山だか知らないが、その辺のお洒落な店に行って子供と一緒の写真をインスタに投稿して自己顕示欲を満たしてきた帰りなのだろう。

「ママになっても綺麗!」「子育てとちゃんと両立してて偉い!」「こんなお店に赤ちゃんの時から通ってたらセンス磨かれちゃうよね!」とか、そんなコメントを待ってるんだろう。

 当然向こうも翔太を一瞬で判断する。コイツなら強く出ても何ら問題のない人間だと判断したから、あれだけの態度に出たわけだ。ぶつかりそうになったのが翔太ではなく例の若リーマンだったら、彼女は同様の態度を取っただろうか?

(……何故こうも持つ者と持たざる者との差が歴然と出るのだろうか?)

 改めて翔太は自らの出自を呪った。結局どこに行っても何をしても誰と接しても、自分という人間の惨めさを確認するだけだ。



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