第2話
「……あ、あ、ダメだって。……ちょっと待って、マジで!」
いつの間にか翔太は眠っていたようだったが、女の甘い喘ぎ声で目が覚めた。
始めはエロ動画を再生したまま寝入ってしまったのかと思ったが、テレビもスマホも真っ暗な状態のままだった。
「……あ、あ、ダメ!」
二回目の声が聞こえてきたところで、喘ぎ声の発生源が隣室であることにようやく気が付いた。
スマホで時間を確認すると十四時を少し過ぎたところだった。何時間寝ていたのかは分からないが、明らかに睡眠は不足していたので出勤ギリギリの十六時までは寝ていたかった。
すぐに終わるだろうと思っていた隣室の喘ぎ声は、五分経っても止まず更に大きくなってきた。今日も隣室の彼は彼女を連れ込んでお楽しみのようだ。最近は週に二、三回隣室からの喘ぎ声を聞かされていた。
(……何故、あんな風に何も考えずに生きているバカ大学生に彼女がいるのだろう?おかしくないか?)
翔太の基準によれば「苦しい状況の中でも頑張っている自分の方が、隣室の遊び呆けるだけのバカ大学生よりも偉いのだから、彼女の一人や二人居ても良くないか?」ということなのだろう。翔太は言うまでもなく童貞である。
(……アイツ殺してみようかな?)
翔太の思考は飛躍した。
当然ドアは鍵が掛かっているだろうが、しつこくチャイムを鳴らせばセックスを中断して出てくるかもしれない。何なら終わるまで待って行けば良い。
大学生は茶髪でヤンチャそうな雰囲気を演出しようとしていたが、170センチ60キロ程度だろう。いや、あの腰の細さでは60キロを切るかもしれない。対する翔太は178センチ72キロ。力仕事をしているため最近は脚も腕も一回り太くなった。まず腕力では負けないだろう。
凶器はシンプルに台所にある包丁で良い。百均で買った安物だが不意を突けば充分だ。チャイムを押し出てきた所をいきなり一突き……では踏み込みが浅くなるかもしれない。向こうの部屋の玄関の様子もはっきりとは分からないのだ。物が散乱していて足場を取られる可能性もある。まずはアイツを突き飛ばし、自分が向こうのドアの内側に侵入し、踏み込む足場を確保することを優先すべきだろう。それから包丁を使えば良いが、ビビって腰が引けてはみっともない。きちんと腹を狙い、体当たりするつもりでぶつかってゆけば良い。
腹に深々と包丁が突き刺さった時、アイツはどんな顔をするのだろうか?声は出るのだろうか?血はどれくらい出るだろうか?あまりに大量に出るのであれば後処理が大変かもしれない……。
おっと、大事なことを忘れていた。向こうの部屋にはアイツの女も居るのだった。……だが大した障害にはならないだろう。
当然チャイムを押して出てくるのはあいつ本人だろう。狭い玄関で二対一の状況を作るのは難しいし、そうするのは最初から戦闘態勢に入っているような相手だけだ。 アイツの彼女を実際に見たことはないが、女性は一般的に力も弱く闘争本能も薄い。アイツを倒した後の一対一ならばこちらの意図が明確に伝わっていたとしても負ける可能性は低いだろう。
(……いや、だが待てよ)
面倒なのはアイツを殺した瞬間に大声で叫ばれることだ。女というのはやたらとピーピー煩いものだと聞いた。崩れ落ちたアイツを見た瞬間に意味不明なことを大声で叫ばれでもしたら、壁の薄いこのアパートでは周囲の人間が異変に気付く可能性が高い。プライバシーにうるさい最近の人間がいきなり他人の部屋に踏み込んでくるとは考えにくいが、警察を呼ばれるだろう可能性は残る。……まあ、たとえ後で警察に捕まったとしても二人殺せれば、それはそれで充分元は取れているような気もするが……どうだろうか?
翔太はそれから一分ほど考えを巡らしていた。
(……うーん、まあ今回は止めておくか)
恥を忍んで正直に言えば、自分には経験がないのでビビった、という部分も少しあるのかもしれない。だが勿論理由はそれだけではない。後片付けが大変だろうし、肉体的にもこちらの疲労はかなりのものだからこの後の夜勤に差し障りが出る可能性が高い。
それに普通に考えて警察に捕まるリスクはかなりのものだ。世間的に見れば依然として現状は底辺そのものではあるが、転職を機に収入が増えたことを考慮すれば、自分の人生は上昇気流に乗ってきているのではないだろうか?それを一時的な怒りで投げ捨ててしまうのはやはり少し勿体無いのではないか……という普通の考えにようやく至ったのだった。
長々と隣室の大学生を殺す妄想をしていた翔太だったが、それで幾らか溜飲が下がったのか再び眠りに就いた。何ら暴力を生むことなく済んだ、という結果から見ればこの試行錯誤は良いものだったと言えるのではないだろうか?
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