私たちが幸せにならないために
きんちゃん
第1話
「あ、どうも」
朝六時。夜勤から帰宅した大橋翔太は、アパートの自室の前で隣の男と顔を合わせた。
一応声を掛けた翔太に対して、隣の男は眠そうな眼差しをちらりと向けると、めんどくさそうに会釈しただけで出かけていった。
翔太は男の態度に腹が立った訳ではないが、自分が声を掛けた分だけ損をしたような気がしたのは事実だった。
隣の男はまだ二十歳くらい、大学生だろう。よく友人たちが集まって宅飲みをして騒いでいるのがこっちの部屋にも聞こえてくる。「どこにでも居るバカ大学生」と馬鹿にすることも出来るだろうが翔太はそう思いたくはなかった。彼らは彼らなりに真剣に生きているのだろうし、若さはそれだけで価値がある。大学生の時に調子に乗らなければ人生のいつ調子に乗るというのだろうか?
何より翔太には、自分が彼に比べて立派な人生を送っているとは言えない、という気持ちがあった。翔太はもうすぐ二十六才。長く貧乏なフリーター生活を送ってきており、家賃を滞納したことも一度や二度ではない。彼女はおろか友人と呼べる人間も一人も居ない。
しかし翔太は三ヶ月前から正社員としてして工場の仕事に就いており、金銭的にも精神的にも多少の余裕が出来てきた頃ではあった。そのあたりの余裕が、隣人に対しての寛容さを生んだのかもしれない。ただ余裕と言っても翔太の場合、娯楽的なことに一切使わなければ月に一、二万円貯金出来るという程度のもので、一般的にこれを余裕が出来たと言える状況なのか疑問は残るが、本人にとっては大きな余裕であった。多くの場合金銭的余裕が心の余裕に繋がることは確かであるが、しかしそれは支払っている代償による。
翔太の場合は明らかに疲弊していた。昼勤と夜勤とが二週間ごとに変わる勤務形態、身体的に過酷な作業、時代遅れのパワハラ上司……気楽なフリーターに戻りたい、と何度思ったか分からない。それでもやっと手に入れた『正社員』という称号のためには我慢するしかない、というのが現在の翔太のモチベーションだった。
朝六時に帰宅した翔太は風呂に入り飯を食い、テレビをつけながらスマホをいじってから八時には布団の中に入った。
……だが眠れない。今日はとても疲れていたので眠れるかもしれない、という希望的観測に賭けたのだが、当然のように眠れなかった。しかし翔太も三ヶ月の経験を経て、眠れないことくらいで過度に焦りはしなかった。
翔太は面接の時に「日勤と夜勤の交代制の勤務が不安だ」という旨を告げたが、面接してくれた社長の「すぐに慣れるよ!」という笑顔を信じたのだった。たしかに慣れはしたのだがそれが「身体が慣れて昼でも夜でも眠れるようになる」という意味ではなく「眠れないことに慣れてそれほど気にしなくなる」という意味だと知っていたならば、この仕事を選びはしなかっただろう。
仕方なくテレビ付けるがこの時間はどの局もワイドショーばかりだ。
出演しているどのタレントもその場で扱われる問題に応じた表情を作り、その役のタレントは毒舌風のコメントを吐き出して視聴者の代弁者を演じたいようだったが、翔太は「お前らテレビに出てたんまりと金貰ってるような恵まれた人間に、庶民の気持ちが分かるわけねえだろ、全員死ね馬鹿」という気持ちだった。
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