第三章
その日、新富士駅に、一組の夫婦が降りてきた。かつて、製鉄所で食堂のおばちゃんとして働いていたことがある、前田恵子さんと、その夫で、画家をしている秀明さんが、富士市を訪ねてきたのだ。
「あーあ、やっぱり、富士市は違うわね。東北に比べたら、暖かくていいなあ。」
恵子さんは、大きな伸びをした。
「恵子さん。駅弁でも買っていきましょうか?」
と、秀明が駅の構内にあるお弁当屋さんを指さしてそういうと、
「そうね。ここのレストランでもいいけど、まあ、時間もあるし、買って行きましょうか。」
と、恵子さんは、そうすることにした。二人は、お弁当屋さんへ行って、マスの寿司を買った。そして、タクシー乗り場に行き、小型のタクシーに乗って、製鉄所に向かった。
「今日は、どちらにお出かけですか?大渕に行かれるんだったら、天間沢遺跡でも、見に行くんですか?」
運転手が間延びした声でそう言うと、
「いいえ、今日はね、大事な人がいて、その人に会いにいくの。その後で、遺跡を見に行くものいいかもね。」
と、恵子さんがにこやかに笑っていった。
「へえ、親戚の方ですか?それとも、ご夫婦でいかれるんだから、ご実家でも帰るんですかね?」
運転手がそう言うと、
「実家では無いんですけど、大事な人がいる場所に間違いはありません。僕達は、福島の郡山から来たんですが、定期的に、こっちに来るようにしているんです。」
と、秀明が答えた。
「そうですか。わざわざ福島からこっちへ来たんですか。よほど、大事な人であったんですね。隻腕の方が、こっちに来られるんじゃ、よほど事情があるんでしょう。」
と、運転手はにこやかに笑ってそういうのであった。隻腕といわれるのは、秀明もちょっと嫌そうだった。
「そういう言い方は、ちょっと嫌な気もしますけど、まあ、そういうことですね。僕達を、結婚に結びつけてくれた人だったんです。」
「ほう、仲人さんですか。まあ確かに、隻腕の方と、健康な方が結婚した場合、仲人さんがいたほうがいいのかもしれませんね。そのほうが確かに結婚生活も長続きすると言うものだ。はい、着きましたよ。1400円です。」
運転手は、タクシーを製鉄所の前で止めた。
「ありがとうございます。帰りも乗せでいただけますでしょうか?」
と、秀明がいうと、
「はい、領収書の電話番号に電話を下されば、迎えに参りますので、お申し付けください。」
と、運転手は領収書を渡した。秀明は、ありがとうございますと言って、恵子さんと一緒にタクシーを降りた。そして、キャリーケースを引きずりながら、製鉄所の玄関先に到着する。
「こんにちは。水穂さんいらっしゃいますか?あの、今日ここへ来る予定でした、前田秀明と、恵子です。」
と、インターフォンのない玄関を開けて、秀明が声をかけた。しかし、何も反応はなかった。代わりに聞こえてくるのは咳の音であった。同時に、水穂さん何をしているんですかという声も聞こえてくる。はあ、また大変な事があったんですかと、秀明と恵子さんは、顔を見合わせた。二人は、急いで靴を脱ぎ、製鉄所の建物中にはいって、四畳半に行ってみる。秀明がふすまを開けてみると、水穂さんが、やっぱり咳き込んでいて、ほら、これ飲んでと杉ちゃんとブッチャーが、水穂さんに薬を渡しているところが見えた。ちょうど、ブッチャーと秀明の目があった。
「あれ、小濱くん。来てくれたの?」
と、杉ちゃんが急いでそう言うと、
「来てくれたのじゃないですよ。こっちへ行くって、もう二ヶ月前から決まっていたことですよ。忘れてしまったのですか?」
と秀明が言うと、
「おう。忘れてた。水穂さんの世話と、大きな事件があって、その噂で持ちきりでさ。」
と、杉ちゃんが答えた。
「事件って、なんの事件ですか?なにか、大きな事件があったんですか?」
秀明は、杉ちゃんに聞く。
「あたしたちは、テレビなんて、天気予報以外見ないし、大きな事件があったなんて全然知らないわよ。」
恵子さんがそう言うと、
「いやあねえ。ここでは、平気で噂になってるよ。二胡奏者の、三浦良太郎という人が、なくなったという事件さ。自殺でもなく、紐のような細いもので、締められて殺されたって。」
と、杉ちゃんが答えた。
「ああ、その事件なら、あたしも聞いたことある。ほら、二胡ってさ、まだまだ珍しい楽器でしょ。だから、福島には、お教室がなくて、東京とか、静岡まで泊りがけで習いに行っているという人を何人か知ってるわ。なかなか、郡山は田舎だし、習いたがる人も少ないから、こっちには、なかなかいい先生がいないから、静岡へ行ったほうがいいって。」
いきなり恵子さんがそういう事を言ったので、杉ちゃんたちもびっくりする。
「はあ、そういうやつが居るのかい?物好きなやつが居るもんだな。それで、三浦良太郎に習いに行ったやつは、まさかいないよな?」
と、杉ちゃんが思わずそう言うと、
「ええ。あたし知ってるわよ。安積永盛駅の近くに住んでいる人で、週に一度、二胡を持って、静岡に通っていた人がいたわ。静岡って、結構二胡が盛んな県なんですって。東京よりもいい先生が居るって、彼女言ってたから、間違いないわよ。」
恵子さんは、そう答えた。
「その人の名前とかわかりますか?」
と、水穂さんがそうきくと、
「ええ。名前は何だったかなあ。確か岡本とかいう名前だって聞いた。まあ、直接彼女と話したのは、数回しか無いけどね。あたしは、駅の近くの直売所に、りんごを納品していて、それで彼女が電車に乗っていくのを眺めてた。あーあ、あたしも楽器が弾けたら良かったのかなと思ったけど、まあ、食堂のおばちゃんしかやったことないし、無理かなあと思って、諦めたけどね。」
と、恵子さんは明るく言った。
「で、その女性は、今でも安積永盛駅から、こっちへ習いに来ているんですか?」
と、水穂さんがそうきくと、
「それがね、二、三ヶ月続いて、近頃はとんと見かけなくなったわ。なにか事情があったのかな?」
と恵子さんは言った。
「はあ、なるほど、岡本さんか。結構、三浦良太郎の教室に通っていて、やめてしまった生徒さんは、居るんだねえ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「まあそうですかね。楽器習っていると、九州から東京にピアノを習いに行ったという例もあるし、そういう事はよくあることなんじゃないかな。俺、聞いたことありますよ。音楽していると世界が狭くなるって。」
と、ブッチャーが珍しくそういう事を言った。
「まあ、たしかに、二胡というものは、あまり日本では、普及していない楽器だから、確かに東北の方から習いにこっちまで来るというのは、珍しいことではないのかもしれないな。岡本さんという女性がどこに住んでいるか知ってる?もしかしたら、警察が調べるかもしれないし。」
杉ちゃんが急いでそう言うと、
「いやあ、あたしはねえ。それまで詳しくないのよ。その方の、住所を聞き出したわけでも無いし。ただ、二胡習いに行ってるのかなって、眺めていただけ。」
と、恵子さんは答えた。
「そうですか。あの人、つまり、三浦良太郎さんですけど、かなり厳しい方だったんでしょうか。そうやって、何人かの生徒さんがやめているんじゃ。共演したときは
とても穏やかで優しそうな方に見えましたけど。」
と、水穂さんが言った。
「まあ、そうかも知らないけどさ、音楽家って、結構裏表激しい方も居るじゃないか。中には、こいつ病んでいるんじゃないかって思われるくらい、繊細なやつも居るだろう。特に二胡となればそういうやつが多いんじゃない?最近は、そういうやつの事を、繊細さんとか言って、区分しようとしているけど、それって役に立つんだかたたないんだか、よくわかんないね。」
と、杉ちゃんがでかい声で言った。
「そうねえ。確かに楽器を習う方って、そういう人多いかもしれない。あたしは、そう区分したら余計に人種差別が出ちゃうんじゃないかと思うわ。どっかの国で少数民族は、入団を認めないとか、そういうバレエ団とかあるみたいにね。」
恵子さんも、杉ちゃんの話に同調した。
「だから、一度厳しいこといわれると、立ち直れなくなっちゃう人も、大勢いるってことですかねえ。」
ブッチャーが言うと、
「そうかもしれないけど、三浦さんは、何人の生徒を辞めさせるような、厳しい人ではありませんでした。僕は、共演していますから、そこは知っています。何回か、打ち合わせのためにも、彼に会いましたが、本当に穏やかな人で。激怒なんて言葉はまるで似合わない人でしたけど、、、。」
水穂さんがそういう事を言った。
「そんなに、穏やかな人だったんですか?」
秀明がそうきくと、
「ええ、僕が知っている限りでは。よく、こんな事を言っていました。自分は、二胡という楽器を使っているけど、それは借り物だって。本場の人には絶対にかなわないって。」
と、水穂さんは答えた。それと同時に、
「只今戻りました。ああ、そういえば今日は、恵子さんと秀明さんが来訪する日でしたね。」
と、玄関の戸がガラッと開いて、ジョチさんがやってきた。それと同時に、杉ちゃんお邪魔するぜ、と言って、華岡も製鉄所にはいってきた。
「どうしたんですか。華岡さんまで、こっちへ来るなんて。」
と、ブッチャーがそう言うと、
「いや、俺も杉ちゃんたちのところで、聞きたいところがあったもんでね。あの、失礼ですが、これは水穂さんに聞きたいことなんだが、ピアノやその他の楽器を習い始めた場合、数ヶ月でやめて、別の先生に依頼することは結構あるんだろうか?」
と、華岡は聞いた。
「ええ。弾ける人だとわかったら、音大の先生に習わせることを勧めることは、よくあることですけど?」
と、水穂さんが答えると、
「そうか!よし、裏が取れたぞ。そういう事が珍しいことじゃないって、わかったら、その線で捜査してみよう!」
華岡は、嬉しそうに言った。
「なんですか華岡さん、僕達に事情を説明することもなく質問するのはやめてもらえないでしょうか。なにかわかったら、ちゃんと説明してください。」
ジョチさんが華岡にそう言うと、
「いやあね。あの、三浦良太郎だが、何人か生徒をとって二胡教室をやっていることは、みんな知っていると思うんだけど、あいつのところへ習いに行っていた生徒、小林萌も、戸倉文も、数ヶ月でやめているのは、三浦が、上の先生に引き渡しているということでやめているんだ。やめている生徒の理由を調べてみると、そうなっているんだよ。」
と、華岡はそういった。
「じゃあ、ごめん華岡さん。その中に岡本という生徒はいた?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「居るぞ!彼女は岡本妙子。福島には、教室がなく、仕方なく静岡にこさせてもらったそうだ。入門して数ヶ月、彼女は、いきなり、べつの先生に習うようにといわれて、それをきっかけに二胡をやめてしまったそうだ。」
と、華岡は言った。
「二胡をやめたってどういうことだ?先生を変えただけで、楽器自体はやめないだろう?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ああそうなんだがね。上の先生に習わせるということが、うまく順応できる生徒もいることには居るが、そうでもない生徒も居る。環境の変化とか、先生の態度が変わると大きなストレスになって、習うのをやめてしまう生徒も居るんだ。俺たちはよく知らないけどさ。最近、HSPという言葉が流行っているそうじゃないか。環境の変化とか音や匂いに過敏すぎてしまう人がいると聞いている。そういう奴らは、先生が変わったことや、ほかの生徒さんとの関係をうまく作れなくて、楽器を好きになる事を忘れちまうんだな。」
と華岡は答えた。
「まあ、それはそうなんだけどさあ。それは、少数民族と一緒にしちゃいけないぜ。ちゃんと、大和民族であることは、同じだからな。ただちょっと変化に敏感すぎて、なにか助けがあれば、ほかのやつ以上に能力を発揮してくれるはずなんだぞ。」
杉ちゃんが急いでそう言うと、
「そうですね。それで、その三人の女性が、三浦さんから、別の先生に引き渡されたということですか。確かに、上の先生に付くと、上の先生というのは必要以上に傲慢な態度を取ったりしますから、それに対して過敏に反応してしまうというのは、あるのではないでしょうか。それに耐えられる人ならいいんですが、そうでない人も、きっと居るはずです。」
と、水穂さんがそう言った。
「その上の先生というのはだれなのか、華岡さんその当たりを調べることはできませんか?」
と、ジョチさんが聞くと、
「いやその辺りはまた捜査中です。そういう事は、いえません。」
と、華岡は急いで言った。
「まあ確かに上の先生というと、二胡というのは、海外の楽器でもありますから、海外の先生に引き渡したということもあるかもしれません。そうなると、その先生たちは、日本人とは違う態度を取ることもあるでしょうから、そういう性質を持っている方たちにとっては、そういう事がきついと感じることもあるかもしれませんね。」
と、水穂さんが言った。
「そうだねえ、日本人みたいに遠回しになにかいうなんてことしないからな。それを怖いと思っちまうやつがいるかも知れないな。そのときは、その上の先生を恨むよりも、自分をその先生に引き渡した、三浦のことを恨むということも、ありえないことじゃないよね。」
杉ちゃんがそう言うと、そうだねえ、とそこにいた人たちは全員頷いた。
「でも、その三人の女性が、顔を合わせたりするでしょうか?三浦先生のお教室は、一対一の教室でした。ほかの生徒さん同士で肩を持ち合うということは、あるんですかね?」
と、ジョチさんがそうきくと、水穂さんが、
「ええあると思います。」
と答えた。
「水穂さん、それはいつのことでしょうか?」
華岡が聞くと、
「僕が共演した合同演奏会の時です。あのときは確か、楽器が珍しいものだったこともあり、なかなかチケットの売上が悪くて、生徒さんにエキストラで来てもらったと、聞いたことがあります。」
と、水穂さんは静かに答えた。
「それはだれからかな?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ、三浦さん本人からです。大変情けないと言っていました。確かに、二胡という楽器は、今に比べれば普及していない頃でしたし、そういう意味では、エキストラでお客さんになってもらうことも必要だったのかもしれませんね。ピアノと違い、本来の二胡の曲をやろうとすれば、客が集まらず、やむを得ず演歌などを演奏するしか無いと、三浦さんは仰っておられました。」
と、水穂さんは答えた。
「なるほどね。そういう事情だったら、早く本場の先生に預けて本物の音楽を学ばせたいという思いも、生じるかもしれませんね。でも、生徒さんのすべてが、その姿勢に答えることはできなかった。」
ジョチさんが腕組みをした。
「しかし、その三人の女性が、そこで会っていたとなると、その後どうやって連絡をとっていたんでしょうかね。」
秀明がそう言うと、
「いや、そういうときは、インターネットが思いのほか役に立つんじゃないのかな。インターネットで、連絡とったほうが、本当の気持ちも言えるということもありえるからね、今は。」
と、杉ちゃんがすぐ言った。
「それで、あの三人で、三浦を殺害する計画を立てたんでしょうか。でもですよ。彼女たちが、犯人だったと仮定した場合、戸倉文も、小林萌も、犯行時刻には外へ出ていて、三浦の自宅に行くことはできませんでしたね。」
「そうそう。ジョチさんの言うとおりだ。それに、岡本妙子に至ってはその時刻、水郡線の電車に乗って、郡山に買い物に出ていたそうで、駅員にも確認ができているので、彼女も犯行はできないことになっている。」
と、華岡はジョチさんの話に急いで訂正した。ということは、刑事ドラマふうにいえば、3人とも、アリバイがあるということである。
「でも、3人とも、三浦が、上の先生に引き渡した生徒さんだったということは確かですねえ。」
と、杉ちゃんが言った。
「まあ、役割を分担にしたのかもしれないぜ。もしかしたら、誰かに依頼したとか。」
「そんな事、あの三人の女性が、思いつくでしょうか?彼女たちは、繊細な気質を持っている方々です。そんな方々が、人の命を奪うということは、果たしてするでしょうか?」
水穂さんはまだそういう事を言っていた。
「そうかも知れませんが、でも、現在の人間は、他人の命よりも、自分のことの方を優先してしまう人は、残念ながら、たくさん居ますよ。」
ジョチさんが水穂さんにそういった。確かにそうかも知れないねえと、杉ちゃんもブッチャーもため息を付く。
「まあ、ここまで来たら、あの三人の女性たちが、どう動くかを待ってもいいのかもしれないな。僕達は、あんまりそういう事には手出しできないからさ。もしかしたら、彼女たちが、なにか動き出すかもしれない。それを待つのも捜査のうちだぜ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ。僕は、信じたくないですね。彼女たちというか、三人の女性が、計画的に三浦さんを殺害する計画まで立てたりするなんて、、、。」
水穂さんは、まだ悲しそうな顔をしているのであった。
「まあ、水穂さんは弱いから、そう思っちゃうの。そうじゃなくて、今のやつは、自分の闇に対しては一生懸命対処しようとするが、他人のことはどうでもいいってやつが多いってことは覚えとけ。」
杉ちゃんは、そう言うが、皆一瞬黙ってしまった。何故か、何も言うことはできない気がしてしまった。みんななにか複雑な思いを抱いていたのだろう。
「そうかも知れないけど、では、実行犯は、一体誰ですかねえ。俺たちは、そこを、探さなきゃいけないんだ。三人が計画したかもしれないけど、実行したのは、別の奴ということであれば、また捜査も変わってくるよ。」
と、華岡は刑事らしくそう言っている。確かにそうなんだけどねえと杉ちゃんが、華岡の話に応じたが、皆だれなのかわからなかった。
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