30.幸せな家族

「何の話しよっか」


 布団の上に体育座りをして長い足をクロスさせた乃慧琉はソファーに腰掛けていた詩音に聞いた。


「何が良いかな…」


 聞き返しながら乃慧琉の方へ視線をやる。組んだ足の上に腕を乗せ、またその上に顎を乗せた乃慧琉は上目遣いにこちらを見ていた。

 動きを止めた詩音はすっかり忘れていた、乃慧琉の顔は作り物めいた精巧な美しさをしているということを。縁がくっきりとした丸い黒目は吸い込まれそうなぐらいに深い色をしていて、瞳を見つめると途端に部屋の音がゼロになる。シーツの上を乃慧琉の足先が滑らかにすべって擦れる音だけが聞こえて詩音は生唾を飲んだ。


「一ノ瀬くんのこと、教えてもらおうかな」


 ヒソヒソと吐く息のついでみたいな声量で囁く乃慧琉の存在に、漠然と違和感を感じる。なんで、こんなに可愛いクラスメイトの女の子が、自分の家にいて自分の服を着て、しかも自分のことを知りたがっているんだ。


「僕のこと…」


 乃慧琉、布団、深夜、二人きり。頭の中で勝手に始まる都合の良い連想ゲーム。

 寝る前、変な雰囲気、静かになって、次は。

 …次は?


「のえるちゃん……つぎは…いつ来るの」


 静寂に包まれたリビングに響いたのは布団の中で体を捩らせ、ムニャムニャとボヤいた葵の寝言だった。目を丸くした乃慧琉がぷっと吹き出し、詩音も思わず笑けてしまう。自然に顔を見合わせた二人は「すごい寝言」って声を潜めて笑いあった。葵のお陰で静まり返っていた部屋の音が、そして空気が再び動き始める。乃慧琉は緊張していた筋肉をほぐすように姿勢を崩して山みたいな形になった布団に体を預けた。


「一ノ瀬くんの家族はみんなあったかいね。また遊びに来たいな」


「そんなのいつでも…」


 言いかけた詩音は途中で言葉を止める。父さんの言葉がまたもや頭をかすめたのだ。いつでも来てよなんて、気軽に言っていいものか。ここで乃慧琉の気持ちを楽にさせたくて乃慧琉を喜ばせる為だけに選んだ言葉、果たして未来の自分は過去の自分が吐いた言葉に責任を取れるのか?分からない。


「分からないけど……僕は、いつでも来て欲しいと思ってる…よ」


 頭で考え、そして心で思ったまんまの台詞がそのままポロリと溢れるように口から出た。隠すはずの心の声だったのに、責任を負いきれない自分なのに。だけど怖さの中には上手く表せないけど勇気も混ざっていて、それは詩音の背中を優しく押してくれた。


「嬉しい。ありがとう」


 消えそうな声でそう言って両手で顔を覆った乃慧琉。少しの間そうしたあと、パッとこちらを見た乃慧琉は普通の顔で微笑んだ。


「さっきも思ったけど一ノ瀬くんの服すごく良い匂いがする」


「…えっ、」


 ご存じの通り、それは僕の服なんだけど…と脳内で復唱した。スウェットの裾に鼻先を寄せた乃慧琉は息を深く吸い込んで目を細め、空気を吐き切ってから詩音を振り向く。


「葵ちゃん、寝てるのに眩しいかな」


「あ…確かに、そうだね」


「だよね。電気消そっか」


「………あ、うん」


 寝る時は電気を消す。当たり前のことを言われただけなのに、その一言で変に緊張してきた。乃慧琉は一応眠るつもりではいるのか、枕の位置を整えたあとゴソゴソと布団に入っていく。真っ白な布団の間に綺麗にサンドされた乃慧琉の姿を確認して、詩音は電気のリモコンを持った。


「…じゃあ、僕は自分の部屋に行くね」


 照明を常夜灯の明るさまで落としてから言うと、毛布から頭だけ出した乃慧琉が不思議そうにこちらを覗いて尋ねてくる。


「一ノ瀬くんはここで寝ないの」


「……ここで?」


「せっかく布団を敷いてもらったのに、どうして?」


 君が隣で寝てるとよこしまなことを考えちゃうから…なんて言える訳もなく、リモコンを置いた詩音は気まずい顔をしながら端に敷かれた布団に戻りとりあえず毛布を被った。それを見て満足そうな表情をする乃慧琉が薄暗い中にぼんやりと見える。


「あー…、部屋を暗くすると一気に寂しく感じるよ」


 カーテンの隙間から入る月明かりに照らされた乃慧琉の横顔はなんだか切なくて、でもはっきりと縁取られた額や鼻や唇の形は満遍なく整っている。その奥に見える無防備な葵の寝顔が余計に幼くみえた。


「私ね、夜が来るといつも悲しくなるの。別に何も悪い事は起こってないし、毎日同じ夜だけど…………あ、同じだから悲しいのかな」


 暗闇に響く乃慧琉の声は落ち着いているようにも聞こえるし、少しだけ震えているようにも感じる。だけど返す言葉は思い付かなくて口だけをぱくぱくとさせていると、詩音の心情を知ってか知らぬか間を縫うように乃慧琉は呟いた。


「当たり前だけど、私の家とは天井が違うね」


「…うん、そうだね」


「それにぬいぐるみじゃなくて、二人に囲まれて無地の布団の中にいる。いつもの夜と違う」


「……………」


「不思議と今夜は悲しくならないよ」


 乃慧琉を二人で挟むという葵の変な作戦が功を奏したっぽい。聞く限りでは前向きなことを言った乃慧琉だけど、まだそこまで眠たそうでもない。何を話そうか、数回瞬きをして詩音は淡いオレンジ色の常夜灯を眺めた。今夜は詩音も乃慧琉と同じく目の前の景色が違う。普段なら寝る時に自室の天井を仰ぐけど今日はリビングで、しかも葵と乃慧琉が居るから余計にいつもと違う。詩音は少し考え、思いついた話をしてみることにした。


「僕達が布団に入って眠る頃、アルゼンチンの人達はお昼ご飯を食べてるんだ」


「え?」


 拍子抜けした声を上げた乃慧琉がこちらを振り向く気配がして、乃慧琉が居る側の体が半身だけカーッと熱くなってくる。だけど詩音は言葉を続けた。


「眠れない時の高岡さんは夜に一人なんじゃなくて、海外の人達や深夜に働いてる人達と一緒にただ日々を過ごしているだけなんだよ」


 言い終わると、しんと静まり返ったリビング。不安に思って恐る恐る乃慧琉の方を振り向けば、こちらに顔を向けた乃慧琉は嬉しそうに笑っている。


「え……」


「一ノ瀬くんは面白い考え方をするのね」


 弧を描いた瞳の中にオレンジ色がぽつりと浮かんでいて、そしてまた奥に進むと、布団に寝そべって深夜テンションで哲学チックなこと言ってる自分の姿が映っているんだと思う。詩音はなんだか恥ずかしくなって乃慧琉から目を逸らした。


「あの、葵から聞いたかな…僕の母さんはSF漫画を描いてるんだ。父さんはあんな感じだけど建築家で、今はもう独立したから基本は家にいるよ」


 今までみずから親の話を他人にした事はなかったけど、なんとか話題を変えたくてそれを伝えた。すると乃慧琉は詩音の気持ちを察したのか納得したように部屋を見渡す。


「だから窓が丸くて廊下が不思議なぐらい長くて、お風呂の形が面白かったり、仕掛け絵本みたいな家だったのね」


 その言葉で詩音の家の所々を変に思っていたことが何となく分かった。だけど詩音は小さい頃からこの家に住んでいるので変に思った事はない。


「お風呂変なのかな……他にも変だなと思うところあった?」


「そうだなぁ…大きい螺旋の木で出来た階段とか、階段の途中にある本棚とか、あとは葵ちゃんの部屋にあるハンモックが素敵だった」


二階に葵の部屋があるのだが、部屋の真ん中から吊り下げられたハンモックを見たらしい。


「でもあのハンモック酔うからって今は使ってないんだって。だから邪魔なところに布がぶら下がってるだけだって葵ちゃんが言うの」


 葵の話を思い出したのか、乃慧琉は笑顔を抑えきれないように笑う。意味がない事がそんなに面白かったのか、暫くそれでクスクスと笑ったあと「階段の本は建築と漫画ばっかりだったね」と付け足してまた微笑んだ。そんなの気にした事なかったなぁと階段の本棚を思い浮かべたけど、毎日通るのに何が並んでたかなんて覚えてない。


「高岡さんは漫画読んだりする?」


「本は沢山あるけど、家に漫画本はないの」


「…そっか。なら高岡さんにおすすめの漫画、今度学校に持っていこうかな」


あれが良いかな、これが良いかなと乃慧琉の好きそうなタイトルを探しているとなんだか眠たくなってきた。瞼がみるみる重くなってきて、言葉を作り出す脳の機能がシャッターを閉じようとする。だけど乃慧琉より先に寝る訳にはいかないと横目で確認すると、こちらに体を向けて寝そべる乃慧琉は目を閉じたまま一定のリズムで呼吸をしていた。


「……高岡さんは、どんな本を読むの?」


尋ねても返事がない。推理小説とか好きそう、なんて考えた詩音の意識は真っ暗になった景色と共にそこで途切れた。

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