24.柔らかくて丸い

 ベッドの下でコポリが、わふわふと何かを言ってる声が聞こえる。毛布と乃慧琉に包まれた詩音は、目を見開いたまま思考を停止させていた。制服を着て硬化した自分の身体には、乃慧琉の長い足が絡みついて離さない。


「……………」


 ベッドに引き込んだ詩音の頭をぎゅうと抱いて、乃慧琉はすんすんと髪の匂いを嗅ぐ。詩音はくすぐったさに背筋をぞわりと震わせた。だからといって乃慧琉のことを振り払う気にもなれず、大人しく乃慧琉が満足するのを待つことにした。


「汗の匂いがするね」


 ぽつりと呟いた乃慧琉に、詩音はなんだか恥ずかしくなってくる。


「そりゃあ…っ、汗かいたから」


 手を乃慧琉の居ないところに置いて、なるべく触れないように避けてそう返す。するとそれに気付いたのか詩音から手を離した乃慧琉はむくりと起き上がった。かと思えばムカつくことを言われた時みたいな非常に不機嫌そうな顔をしてる。驚いた詩音は体を起こしたが、どうして乃慧琉が不満気なのか全く分からない。どちらかというと怒るのはこっちなのに。乃慧琉の顔を見ると言語能力がいちじるしく落ちるからやってられない。


「良い人ぶらなくてもいいんだよ」


「な………何が」


「触ればいいじゃん」


「何を、」


 分かってるくせに…と言った風に流し目で詩音を見た乃慧琉。さて、これは大人への階段を踏み出そうとしている会話なのか、それとも盛大に踏み外すのか。どちらにしたって詩音は首がもげるんじゃないかってぐらい頭を左右に振る。


「触らないよ!」


 大袈裟なぐらいに誇張して、自分でも驚くぐらいの大きな声量が出た。途端にムッとした顔をして見せた乃慧琉はバシッと音が出るほど思い切り詩音の手を取り自分の元に持っていく。そして右の胸に詩音の手をぎゅうと押しつけた。


「……!!」


 手のひらで強引に掴まされたそれは丸くて大きい、しかも熱くて柔らかい。その感触に詩音は言葉を無くす。荒くなる自分の呼吸が聞こえ、バカみたいに目の前にある胸の事しか考えられなくなった。柔らかいけど、ずっしりと重さがあってその奥に鼓動する心臓を感じる。この塊を直に触ったらどういう触り心地なんだろう。何やら唐突に、無性にそれだけを知りたくなった。


「…どんな気持ちになる?」


 上目遣いの乃慧琉に尋ねられると自分の下半身がもわっと熱を持ってゆく感じに襲われ、の二文字とさよならをしそうになった。だって本人が良いって言うんだから、このまま乃慧琉を押し倒して中身を見たって、それ以上のことをしたって良いんじゃないか?

こんなに可愛い女の子とこんな良い事してるのは、きっとクラスに一人だけだ。


 そこまで考えた詩音だったが、寸前のところでふと我にかえる。ここで乃慧琉とそういうことをしたとて、一時ひとときの欲を解消するだけの時間にしかなり得ない。痛みで道徳心を呼び起こそうと唇を強く強く噛んで、これは非常に厳しい試練だと自分に言い聞かせた。耐え難い試練の後にはご褒美がある、…かもしれない。


「どんな気持ちにもならないよ」


 心と裏腹の嘘を吐くと、語尾が震えて心臓が不安定に鳴るらしい。自分に言い聞かせるようにふるふると首を横に振って乃慧琉を見た。


「………そう」


 息を吐くみたいに言った乃慧琉は力尽きるように手を離し、無気力にぬいぐるみ達の待つベッドに倒れた。外が暗くなろうが雨が降ろうが、ずっと青空のままの天井を仰ぎ見る乃慧琉の横でモジモジと体を動かす。理性をなんとか取り戻し上半身は落ち着きつつあるけど、下半身はまだ乃慧琉の方に向かおうとしている。ワイルドな感じになっている自分のそれに最悪だと思いつつも、のろのろとベッドから降りた。


「忘れ物なら、リビングの机に」


 普通の声で言った乃慧琉。気付いてたのかと詩音は思ったけど「ありがとう」と返して少しだけ考える。

 この子はこれからこの異質な部屋と、静まり返った薄暗くて広い家で過ごすのか。毎日こんな家に一人で居るなんて…と乃慧琉の親へ微かな怒りを覚えた。


「高岡さんのご両親はいつ帰ってくるの?」


 勢いに任せて聞けば、乃慧琉は目を閉じたまま「分からない」とだけ返す。


「…なんで?」


「とても忙しいから」


 寂しそうにとかそんな感じじゃなくて普通に言う辺り、きっと乃慧琉の親は少し忙しいなんてそういうレベルじゃ無い。恐らく数日間家を空けたりが幼い頃から当たり前なのかも。だからこの部屋も時間が止まってるみたいに幼いままなんだ。


「一ノ瀬くん、困らせる事して怒ってるかな……もういい加減にしろって呆れちゃった?」


「…え?そんな、怒ってなんか」


「嫌いにならないで…」


 天井を向いたままポツリと呟いた乃慧琉は、本当に不思議で掴めない人間だ。

ベッドへ急に引き込んでみたり、触ってと詰め寄ってみたり、一緒に寝ようと誘ってみたり、短い期間で色んな乃慧琉を見たしその全部が本物だと詩音は思うけれど、静かなボリュームで話す今の姿が、一番本来の乃慧琉に近いんではないかと感じた。

詩音はなんて返せば良いのか分からなくて黙り込んだけど「また明日」と乃慧琉が言葉を待たずにそう言ったのでやはり何も返せなかった。


「……また、明日ね」


 少しだけ前屈みになったまま詩音は乃慧琉の部屋を出る。そしてリビングに戻れば、乃慧琉が言った通り机の上にスマートフォンが置かれていた。それを手に取りポケットに入れてリビングを後にしようとした詩音だったが、ふとキッチンに視線がいく。

 キッチンの端の方に、燃えるゴミと燃えないゴミと綺麗に分けられたゴミ袋が無造作に複数個置いてある。その中にあるのは冷凍食品やコンビニで買ったような食品の残骸ばかりなのだ。

自分が昨晩、親の手作りのハンバーグとサラダを明るい部屋で賑やかに食べていた頃、乃慧琉はコンビニで選んだ変わり映えしない弁当か菓子パンかそれ以外の何かを、あの薄暗いリビングで寂しく食したのだ。ぽつんと心に底の見えない穴が空いたような感覚になり、気持ちが下半身と共に一気に萎える。自分と同い年で容姿も綺麗でこんな大きい家に住んでいて、何もかも持っていそうな女の子なのにも関わらず一番大事で与えられるべきものを持っていないなんて。そんなことは許されない。

 詩音はゴミ袋達から目を逸らしてまた乃慧琉の部屋に戻った。コンコンと勢いよく扉をノックして、返事も待たずに扉を開ける。


「………?」


 帰ったと思った奴の再登場に驚いた顔をしている乃慧琉へ、無理に使って引き攣ったであろう笑顔で言った。


「僕の家に遊びに来ない?」


 少し先の未来の自分でも、あの時の勇気はどこから来たんだって思うんだろうな。詩音は激しく心臓をばくばくさせながらも少し霧が晴れたような気持ちで乃慧琉からの返事を待っていた。

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