第1章 筆頭聖奏師の落日③
その日から、セリアは
筆頭聖奏師としての仕事は手を
日中は仕事をして、日が暮れたら図書館で勉強をする。
ミュリエルとの勝負内容には聖奏はもちろんのこと、「より
(でも、負けるわけにはいかない)
今日もセリアは
「……セリア?」
「その声は……デニス?」
「そうだよ。
そう言って歩いてきたデニスは、手に紙包みを持っている。
彼は一言断ってからセリアの隣に座り、セリアの
「……これは?」
「今日の夕食からかっぱらってきた。セリア、チーズを練り込んだパンが好きだろう?」
「……あ、ありがとう。でも、司書に見つかったら
「ここで食べなけりゃ
そう言ったデニスは、テーブルに積まれた本を
「……
「仕方ないわ。元々私の評判は悪かったのだし、いっそ
デニスには努めて強気に言い返したが、まったくの
今のセリアは、後に引けない
負ければ
「そっか。……そういえば、僕も君たちの対決試験に協力することになったんだよ」
「そうなの……世話になるわね。裏方とか?」
「うん、試験問題の
デニスはそう言い、
「……セリア。僕は君の努力を知っている。君の勝利を、信じている」
静かにデニスの左手が
熱くて、大きくて、
「……幸運を
重なった手のひらから彼の熱や思いが伝わってくるようで、セリアはしっかり頷いた。
「……ええ。ありがとう、デニス。あなたの
対決試験、当日。
聖奏試験では負傷した動物の
(傷が
セリアが聖奏している
筆記試験で出題された歴史や文学、法律などの問題はどれも、見たことのあるものばかりだった。出題者の好みなのか、問題の並びが独特で最初手間取ったものの、時間内に全部解けた。隣の席では、ミュリエルがうんうん
聖弦の初見演奏試験では、
勝てる。絶対に勝てる。
聖弦を片付けたセリアは、西の空の
ミュリエルの様子を見る限り、彼女がセリアに勝てる要素はほぼないだろう。筆記内容までは見えないが、聖奏や初見演奏はセリアの方が明らかに上だった。
結果発表は、明日の朝。
(エルヴィス様、ちゃんとご期待に
聖弦のケースを胸に
〇 〇 〇
体中から力が抜ける。
体温がすうっと下がり、部屋を出る前に水を飲んできたはずなのに
セリアの深緑色の目は、
機械的に動く眼球が、目の前に
「……見ろよ、あの結果」
「何、あんだけ
「ひどいものだな……これで筆頭を名乗っていたのか?」
昨日行われた、筆頭聖奏師と新人聖奏師の勝負の結果。
聖奏──セリア・ランズベリーが聖奏を行った動物は夜になって苦しみだし、死んだ。ミュリエル・バーンビーが聖奏を行った動物は、現在も元気に走っている。
筆記──セリア・ランズベリーの解答はことごとく外れている。ミュリエル・バーンビーの解答は間違いもあったものの、正解数はセリア・ランズベリーよりも多い。
初見演奏──セリア・ランズベリーの演奏は、リズムが全く合っていない。音楽に精通していない者であれば分からないだろうが、楽譜を読み違えたのだろうと判定員は語っている。ミュリエル・バーンビーは音の間違いはあったが、かなり正確に弾ききることができた。
結果──ミュリエル・バーンビーの勝利。
(
セリアは胸の中で、声にならない
嘘だ、こんなの、何かの間違いだ。
自分がミュリエルよりも
聖奏では、傷を完全に
「セリア様! これって、どういうことですか!?」
「おかしいです! セリア様があんなひどい結果を出すわけがありません!」
「きっと何かの間違いです! 今でも間に合うでしょうから、
「待て。……おまえたち、陛下も確認済みの判定結果に、異を唱えるつもりか?」
聖奏師たちの声を聞きつけたらしく、こちらを向いて
睨まれた聖奏師たちがひっと息を
「お待ちください! 部下たちは
……本当は、セリアだって
だが、周りにいる騎士や官僚、貴族たちは
セリア一人が叱られるならともかく、無関係の部下たちまで巻き込むわけにはいかない。
(今は、引く姿勢を見せないと。それから、陛下に確認を……)
「──まあっ! やっぱり私が勝ったのね!」
必死に考えるセリアの頭に、はしゃいだ少女の声が
今、セリアが世界で一番聞きたくないと思っていた声。
「さすが、ミュリエル様!」
「筆頭聖奏師就任決定、おめでとうございます!」
「ありがとう! 皆が応援してくれたおかげよ! ありがとう!」
ミュリエルが
……ぐっ、とセリアは
(私は……あんな子に負けて、筆頭の座を
その時ふと、ミュリエルと視線がぶつかった。セリアはとっさに
「あっ、セリア! やっぱり私が勝っていたわね! でも、当然よね! 私の方が正しくて、
セリアが敗北したと分かるなり、呼び名も態度も変えてくるミュリエル。
そんなミュリエルをまるで
「……おめでとうございます、ミュリエル」
「えっ、呼び捨てなの? 私、筆頭になるのよ?」
「っ……おめでとうございます、ミュリエル、様っ……!」
「どういたしまして。……そういうことで、セリアはこれからどうするの?」
「……え?」
「正直、セリアって
いけしゃあしゃあと言われたセリアは、我が耳を疑った。
(な、何なの、この言い方は……この態度は……!?)
受け入れてあげてもいい。許してあげる。
(私が……私が、こんな子よりも格下だというの? こんな子を筆頭として、従わなければならないというの……!?)
ぷちん、と自分の中で何かが切れた。
「っ……あなたの部下になるくらいなら、聖奏師なんてやめた方がましよ……!」
……よく考えないまま、そう口走っていた。
周りの者がざわめき、ひそひそ声が広がっていく。
ミュリエルも、まさかここまで言い切られるとは思っていなかったようだ。最初はぽかんとしていたが、
「くっ!?」
「……本当に、失礼な人ね。そこまで言うのだったら、聖奏師を
「そ、それはあなたの決めることじゃないでしょう! いくらなんでも……」
「……何の
──どくん、と不安で心臓が鳴る。
あれほど
エルヴィスはちらっとセリアを見てから、ミュリエルの方に視線を向けた。
「……ミュリエル・バーンビー。そなたが勝利しただろう。何をしている?」
「セリアが、ひどいことを言うのです! おまえの部下になんてなりたくない、そんな屈辱を味わうくらいなら、聖奏師を辞めた方がましだ、って!」
「勝手に言葉を足さないで──」
「
エルヴィスに
エルヴィスは、セリアの方を見てくれない。彼の目線の先にいるのは、ミュリエルだ。
「判定結果は、私も確認している。約束通り、そなたを筆頭にしよう。……だが、仲間内で不和が生じるようでは、今後の活動に支障を
「なっ──」
「はい! そうします。……あの、陛下。これから、どうぞよろしくお願いします」
「ああ、そなたの働きに、期待している」
エルヴィスとミュリエルが見つめあい、そっと手を取った。
それを見て、周りの者たちがますます
「……まあ、とってもお似合いの二人ね」
「ああ。きっとファリントン王国はこれから、ますます
「さらに陛下とミュリエル様がご
「そうですね。でも、あのお二人の様子から、そうなる日も遠くないでしょうね」
そんな会話が周りでなされるが、セリアは動けなかった。
ただただ、手を取りあって去りゆく二人の背中を、呆然と見ていた。
〇 〇 〇
セリアがミュリエルに対して
セリアは駆けつけてきた
ミュリエルはすぐに
十年近くセリアと共に
多くの者たちがミュリエルを
これ以上セリアと
筆頭の地位。聖奏師としての立場。公爵家の人間としての身分。そして──エルヴィスの
手に
「──リア!」
セリアは目を
そうして顔の筋肉をほぐして
「……デニス」
「よかった、間に合った!」
全力で
「……ごめんなさい、デニス。私、あなたの期待に
「何を言っているんだ、セリア。あんなの絶対におかしい」
デニスははっきりと言い切り、
彼の
「やっぱり、
「な、何を言っているの!?」
「どう考えても、あの勝負は公正じゃない。きっと
「デニス! やめて!」
たまらず大声を上げ、セリアはデニスの制服の
「そんなことを言ってはだめよ! あなたまで罪に問われてしまう!」
「だからって、君が一人で去っていくのを指を
「無関係のあなたまで巻き込んでしまうことの方が嫌よ! ……ねえ、デニス。あなた、夢があるって言ってたじゃない」
それは、今から五年ほど前のこと。学校卒業間近だったセリアは、図書館で勉強中にデニスに聞いてみたのだ。夢はあるか、と。
セリアの夢は、ランズベリー公爵家の名に
だから、セリアも聞いてみたのだ。そういうデニスはどうなのか、と。
デニスの答えは「ある」だった。何が彼の夢なのかまでは教えてくれなかったが、どうしても
「それがどういう夢なのかは分からないけれど……あなたには、夢を叶えてほしいから。ほら、私の夢は……もう、叶わなく……っ……!」
「セリア」
目の前で燃やされた聖弦の有様が
デニスはハンカチで目元を
「……セリア、君に渡したいものがある。こっちに来て」
デニスはそう言ってセリアの手を引っ張った。彼に
デニスは荷物の前まで来るとセリアの手を
そこから姿を見せたのは──
「……! そ、それ……」
「すり
デニスは
「急いで
「……あ、ああ……!」
無事だった。燃やされたとばかり思っていた長年の相棒が、無事だった。
思わずその場にへたり込んだセリアの
「ありがとう……ありがとう、デニス……!」
「どういたしまして。それより……これから、どこかに行くんだろう。どこ?」
「……グリンヒル」
デニスに
グリンヒル。昔、
場所は分かるが、具体的にどのような地域なのかは分からない。だが資料には、緑が
グリンヒルの名を聞いたデニスは、「なるほど」と
「あそこなら、セリアも落ち着いて暮らせるかもね。王都からは結構離れているけれど、君にとってはそっちの方がいいだろう」
「……うん」
「でも、ここから離れていても
デニスの言う通りだ。愛用の聖弦は手元に返ってきたが、これは
これから先は、元筆頭聖奏師とは全く違う人生を歩みたい。できるなら、王都から遠く遠く離れた場所で。
聖弦のケースを袋ごと
「……デニス、何から何まで本当にありがとう。でも……私、あなたに何も返せないわ。お金も……そこまで
筆頭聖奏師として
だがデニスはふふっと笑い、セリアの赤金色の髪を指先で優しく撫でた。
「そんなのを求めているんじゃないよ。……僕は、君が君だけの幸せを見つけてくれれば、それだけでいい」
「デニス……」
「……いってらっしゃい、セリア。君の無事を願っているよ」
「……うん。行ってきます、デニス」
セリアは、今の自分にできる
セリアの足元に置かれている聖弦。
弦を張られていないのに、誰も
落ちぶれ才女の幸福 陛下に棄てられたので、最愛の人を救いにいきます 瀬尾優梨/角川ビーンズ文庫 @beans
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