第1章 筆頭聖奏師の落日②
「ミュ、ミュリエル・バーンビーと申します! これから聖奏師として頑張りますので、よ、よろしくお願いします!」
そう言って頭を下げたのは、ふわふわの茶色の髪を
着ているローブはおろしたてであることが
セリアは隣に立って
「昨日言った通り、彼女の指導は私が行いますが、皆でミュリエルを支えるように」
はい、と聖奏師たちは声を
(……
セリアはミュリエルの肩に手を置き、不安そうな
「これから
「……は、はい。よろしくお願いします、セリア様!」
ミュリエルはそう言って、大輪の花が開いたかのように微笑んだ。
〇 〇 〇
ミュリエルを指導しようと決意したのはいいものの、物事はそううまくは進まない。
「無理です! 私、計算できないんです!」
ミュリエルが悲痛な悲鳴を上げたが、悲鳴を上げたいのはこちらの方だ。
彼女の向かいで計算の例題を書いていたセリアは、ずきずき痛む側頭部に手をやった。
ミュリエルは、聖奏師としての実力が非常に高いことが分かった。たどたどしいながらも彼女が聖奏した結果、新人とは思えないほどの効果を発揮したのだ。
これは期待できる──と、皆は思ったのだが。
「
「
ペンを
(勉強が苦手なのは仕方ないこととして、もうちょっと意識を変えてくれないと)
セリアは努めて笑顔で、問題用紙を差し出した。
「聖奏師とて、聖奏だけすればいいわけではありません。報告書を書くこともありますし、備品を
「でも、私、勉強は苦手なんです。私は聖奏をして、
「効率非効率の問題ではありません。それに、常に
「ううう……もう嫌ぁ」
(これは……ペネロペが
今年入団したばかりのペネロペも平民出身だが、今のミュリエルよりもずっと
それに比べ、ミュリエルは甘えん
結局、勉強時間が
そういうわけで夕方、仕事を終えたセリアは城の図書館を
(初級編の数学参考書があったはず)
ミュリエルは勉学において、理解度が非常に低い。だが、根気強く教えれば少しずつ進歩するはずだ。むしろ、してもらわなくては困る。
「……あら、筆頭聖奏師よ。今日もまた、新人聖奏師を
「そうそう、私も見たわ、新人の子が、泣きながら部屋から出ていって──」
女性たちの声が聞こえて、セリアは立ち止まった。彼女らは
(ばかばかしいわ)
確かに今日、ミュリエルは泣きながら部屋を飛び出してしまった。だがそれはセリアが虐めたからではなくて、ミュリエルが
(
公爵である叔父のことを考えると、ついついため息が
叔父は筆頭聖奏師になったセリアを一族の
元々叔父は、公爵
(……でも、エルヴィス様がいらっしゃるもの。大丈夫よ)
国王と筆頭聖奏師の結婚は、周りの理解さえ得られれば理想的なものだろう。そうなればきっと叔父も、セリアのことを認めてくれるはずだ。
だから、それまでの間に
「……あ、セリアだ」
いつの間にかきつく目を
彼はセリアと目が合うと陽気に笑い、歩み寄ってきた。
「お
「あら……久しぶりね、デニス」
青年の姿を目にして、セリアは肩にこもっていた力を
手を
首筋で
セリアよりひとつ年上のデニスとは、学生時代に知り合った。
セリアが貴族女子のみが通う学校に八歳から十二歳まで通っている
学校同士の交流はほとんどないが、両学校の中間地点にある図書館は両校の生徒が利用していた。デニスとは七年ほど前、その図書館で出会ってから親しくなった。
デニスは人当たりがいい気さくな少年で、知識も豊富だった。とりわけ世界各国の情勢や地理歴史に
そんなデニスはセリアにとって数少ない、心を許せる大切な友人だ。
「そうだね。セリアが筆頭になってからは、めっきり会う機会が減ったかも」
デニスはそう言い、辺りの書架から手近な本を取り出して、表紙を見た。
「……この辺は、参考書? セリア、今以上に勉強するのか?」
「いいえ、今日はこの前入ってきた新人用の参考書を
「そっか。実は騎士団の仲間も、新人の子と君のことについて、あれこれ言っているんだ。……でも僕は、セリアがどれほど
子どもの頃から腹を割って話をしてきたデニスは、セリアの性格もよく知っている。だから、騎士団などで流れている
そんな彼の
「ありがとう、デニス。……正直、ちょっとだけ苦しく感じていたのよ」
「うん、そうだろうと思った。僕も昔よりは
自分の胸をどんと
(うん、大丈夫。仲間も、陛下も、デニスもいるから)
きっと、大丈夫。
〇 〇 〇
「セリア様、ひどいです! どうして傷を完治させてあげないのですか!?」
ミュリエルに
今彼女が異議を申し立てているのは、先ほど行った
いつものように、セリアは負傷した騎士に
「あの騎士様の
「でも、日常生活を送ることは可能よ。いつも言っているでしょう。わた──」
「セリア様はひどいです! そうやって
ミュリエルの高い声が脳に
ミュリエルの反論にうんざりしてきたのはもちろんだが、それだけではない。
ここはまだ、騎士団の
(これじゃあ、
今まで彼らが文句を言いつつもセリアに従っていたのは、他の聖奏師たちもひっくるめて「それが正しい」という
だが今、新米聖奏師であるミュリエルがセリアの行動理念に異を唱えている。
ミュリエルの考えは騎士たちと同じ。聖奏の力があるのならば途中でやめたりせず、最後まで聞かせるべきだというのだ。
(それがよくないのだって、何度も言っているのに……)
ミュリエルも、最初のうちは大人しく話を聞いていた。だがやがて彼女は年少者たちを
(疲れた……)
騎士団での仕事を終えたセリアは、ふらふらになりながら作業部屋に戻る。ミュリエル一人の相手でこれほどまで
ミュリエルは、とにかく目立つ。容姿はもちろんのこと、
(私だって、好きで聖奏を途中でやめているわけじゃないのに!)
精霊の力を呼び起こす聖奏は、聞いているだけでも幸せな気持ちになれる。中には「禁書」と呼ばれる禁断の楽譜もあるが、それを読めるのは代々の筆頭だけ。セリアも一応内容を覚えてはいるが、それを使うつもりはない。
最後まで
聖奏に頼りきりになると人の心は弱くなり、精神力が
ミュリエルにもそう教えてきたし、聖奏師でない者だって
(このまま皆がミュリエルに同意してしまったら、危ない)
ミュリエルの考えを改めさせなければならない。城中の人間の意識も同じだ。
……自分がやるべきことは分かっている。それなのに、どのようにすればいいのかがセリアは分からなくなっていた。
〇 〇 〇
ある日、セリアとミュリエルはとうとうエルヴィスの
「……ここしばらく城内で噂になっているそなたたちのことを、さすがに国王として看過できぬようになってきた」
エルヴィスは、セリアとの
「セリア・ランズベリー、そしてミュリエル・バーンビー。そなたたちは聖奏師として協力するべきであろう。それなのになぜ、身内同士で
セリアはぐっと
「私はミュリエル・バーンビーの実力を評価しております。聖奏師としての才能に
自分が退く──つまり
「その過程で、彼女と意見の食い
「陛下、発言してもいいでしょうか!」
セリアはぎょっとして、
エルヴィスは難しい顔でミュリエルを見下ろした後、「……よい」と言った。
ミュリエルはローブの
「私は、セリア様のお考えに完全同意することができません。私たちの力は人のために使うべきなのに、セリア様は聖奏師としての力を十二分に活用していないと思います」
「……それが代々の筆頭の考えであると、私は聞いているが?」
さすがにエルヴィスは、ミュリエルの言葉に簡単に落ちたりはしないようだ。
内心
「……私は、生まれも育ちも
「何をっ──!」
「静かにせよ、セリア・ランズベリー」
思わず声を上げてしまったので、エルヴィスに制された。それが
ミュリエルはセリアの反応には気を留めず、すらすらと述べていく。
「時代は移ろい変わってゆきます。あえて古きに逆らうことで造られる、国民が不自由なく暮らせる国──それを目指すのにも、価値があると思うのです」
(……何、この子──?)
ミュリエルの話を聞いていたセリアは、小さく息を
(いや、それよりもこのままだとまずいわ)
ミュリエルは、いつもの彼女とは別人のように理路整然と話をしている。このままだと、セリアが「
エルヴィスは難しい顔のまま、ふーむと
「……どちらの意見も、一理あると言える。古代から伝わってきた思考にはそれなりの理由があるが、あえて斬新な方法をとることで道が開けるかもしれない、ということか」
どくん、どくん、とセリアの心臓が今までにないほど大きく脈打つ。
ふいに、ミュリエルが発言する。
「陛下、ご提案がありますが発言してもよろしいでしょうか」
「よい、何だ?」
「筆頭の座を
「セリア・ランズベリー。残れ」
話し合いの後で、セリアはエルヴィスに呼ばれた。
立ち去ろうとしたミュリエルは振り返ってこちらを見てきたが、エルヴィスはそんな彼女に無言で退室を命じたため、ミュリエルはやや不満そうな顔をしつつも出ていった。
さらにエルヴィスは側近たちも一時人払いをさせ、セリアに向かって手招きをしてきた。
「……そなたとミュリエル・バーンビーの対決試験が決まった」
重々しいエルヴィスの言葉に、セリアは唇を噛んで
ミュリエルの発言の後に側近たちを
聖奏師としての聖奏の
「セリア、私はそなたが勝つと信じている」
「えっ……」
セリアが顔を上げると、エルヴィスはそれまで引き
「ミュリエル・バーンビーの発言の意図も、分からなくもない。そして彼女の発言が城の者たちの共感を得ており、無下にはできないこともな」
「っ……はい」
「であるからこそ、ここで決めてみせよ。そなたが勝てば、ミュリエル・バーンビーもそなたに従うだろう。逆にミュリエル・バーンビーが勝てば、そなたには筆頭としての能力がなかったということになるが……そなたの実力を考えれば、そうなる可能性は低いだろう。むしろ勝利を
「……
エルヴィスはそれ以上言わなかったが、セリアの立場が
セリアの未来のために、そして二人の結婚のためにも、セリアの筆頭としての地位と実力を、皆に知らしめなければならないのだ。
「かしこまりました。筆頭聖奏師の
「ああ。……期待している、セリア」
そう言ってエルヴィスが
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