第37話 カーペットたたき拭き

 L字ソファーのはしに室田先生が座り、その前には奥さんがカーペットに正座していた。


 おれは少し離れてソファーに座っている。


「平行宇宙か!」


 夫人と会話をしていた先生が、おどろきの声をあげた。夫人はうなずき、また説明を続ける。


 リビングには三人しかいない。


「うきゃー! 乳子センパイ、やっぱりデカイ!」

「だれが乳子じゃ!」


 遠くからなにか聞こえたが、気のせいだ。気のせいにちがいない。


 夫人が急いで飲んだ霊薬エリクサーは、やはり少し飲み残しがあった。


 前回、おれと玲奈が帰ったあと、早貴ちゃんも霊薬風呂に入ったらしい。それで今回も真っ先に言った。


「お風呂に入れましょー! トゥルントゥルンになります」


 その早貴ちゃんの言葉に反応したのが小林だ。なぜ女子は肌にこだわるのか。


 それにだ。時間短縮と称して三人が一緒じゃなくてもいいではないか。


「ちょっと、早貴ちゃん、さわらないでよ!」


 また小林の声だ。室田夫妻は話に夢中で耳に入ってない。


 もちろん、おれも平気だ。玲奈がお風呂に入っているとか、玲奈が湯船につかっているとか、もしかしたら玲奈もさわられているとか、そんなことは考えない。いやいや、考えたこともない。


「女神センパイ、すっごい綺麗ですー!」


 よしっ、掃除だ。


「カーペット、拭いておきます!」

「あら、勇太郎くん、さっき」

「いえ、拭かせていただきます!」


 カーペットに置いたままの雑巾と吹きつける洗剤を手に取る。


「おふたりは、お話を続けてください!」


 室田夫妻が、また話にもどった。


 こういうカーペットの汚れはたたくといいと聞く。洗剤を吹きつけたたく。


 とにかくたたく。たたく。たたく。


「早貴ちゃん! さわらないでください!」

「だってー、女神センパーイ!」


 たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。


「うわっ、ツルツル、いや、フワフワ!」

「もう、小林さんまで!」


 たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。


「玲奈ちゃん、こっちもさわっていい?」

「あー、サキもさわりたーい!」


 たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。たたく。


「ありがとうございました。よい、お風呂でした」


 背後から玲奈の声が聞こえる。いつの間にか風呂からあがったようだ。


「お母さんの魔法って、ほんとすごい! 傷があったと思えない」

「それに、玲奈ちゃんのほほって、ふわっふわ!」


 ・・・・・・そうか。傷跡の話だったか。


「勇太郎、カーペットの染み、かなり落ちましたね」


 声をかけてきた玲奈にふり返る。玲奈は今日も、夫人の服を借りていた。


「学んだよ、精神修行に、掃除はいい」

「お寺と同じですね。しかし、なぜいま精神修行を?」


 答えに困っていると、室田先生が玲奈を呼んだ。


「葉月さん、ちょっとソファーにかけてくれないか」


 玲奈はうなずき、室田先生の横に座った。


「室田先生!」


 玲奈がおどろきの声をあげた。先生はソファーをおり、玲奈に向けてカーペットの床に座りなおし土下座したからだ。


「ぼくら夫婦を助けてくれて、ほんとうにありがとう」

「そんな、大げさです」


 先生が顔をあげた。


「いや、大げさでもない。ぼくはもうここ数日、人生が暗闇に閉ざされた気がしていた。マキちゃんが狂ってしまったと」


 マキちゃんってだれよ、そう思ったら室田夫人だった。真木子というのか。


「えっ、お父さん、マキちゃんって呼んでたの? キモッ!」


 早貴ちゃんが言い、お父さんはシュンとなった。うん、そういうのは思っても言わないでおこう。おれの親父なんてもっとエグいんだから。


「夫として、ほんとうに心から感謝したい」

「誤解は解けましたか?」

「解けた。そして真実におどろいている」


 玲奈は笑った。それはなんだか、嬉しそうな笑いだ。


 ふいに室田夫人は玲奈のとなりに腰かけ、その手を取った。


「でもね、玲奈ちゃん」

「はい」

「助けてもらっておいて、こういうのもなんだけど」

「はい」

「危険なことしないで」


 玲奈が小首をかしげた。


「顔を切ったことですか?」

「そうよ!」

「奥さまに一度、治していただきましたので、安全だと思いました」

「顔じゃなくていいでしょ!」


 夫人があげた大声に、小林さんと早貴ちゃんがうなずくのが見えた。


「いえ、ここまでのことで、わたしの顔が傷つくと人へのショックが大きいと学びました。ですので、あのときは最適だと」


 あんぐり口をあけた室田夫人だ。


「それで、あんなことしたの?」

「はい」

「お母さんが聞いたら、ぜったい怒るわ。綺麗な顔を自分で傷つけるなんて」


 玲奈は、これまた小首をかしげた。


「両親とも、もうこの世におりませんので」

「・・・・・・えっ、じゃあ、お父さんの魔王も?」

「はい。亡くなっております」


 夫人は大きく息をついた。


「玲奈ちゃんにとっては不幸だけれど、私は少し安心した。玲奈ちゃんといると、いつ魔王と遭遇するのか不安で」


 あーなるほど! それは不安だ。僧侶だった夫人はなおさら。


「ごめんなさいね。ご不幸なのに」

「いえ、お気遣いは無用です。わたし自身も、母が死んだのは不幸に感じますが、父が死んでいるのは幸運だと思ってますから」


 玲奈は、さも当然といった笑顔で言った。


「きみは魔王の娘なのか・・・・・・」


 おどろきの声をあげたのは、室田先生だ。それを聞いた玲奈の笑顔が曇る。しかし、なぜか先生は手をパン! とたたいた。


「いや! ぼくには、そう見えない。きみは夫婦の仲をもどした愛のキューピッド、いや、愛の女神だ!」


 先生はうなずきながら、遠くを見つめた。なんだこのクサイセリフ。宝塚なら歌が始まるぞ!


「そう、それだわ!」


 なにがだ! と思ったら言ったのは奥さん、室田夫人だ。


「玲奈ちゃんは、魔王の娘、でも、生まれたのは女神よ!」


 おおう、なんか、宗教倫理をパワープレイでねじ曲げた!


「差し出がましいけど、なにか困ったことがあったら、なんでも言ってね。お母さんの代理と思って」


 夫人のそれは嬉しい言葉だな。そう思ったが、なにやら玲奈はもじもじしている。そんな玲奈を見るのは初めてだ。


「あ・・・・・・あの・・・・・・」

「なあに、玲奈ちゃん?」

「もう一度だけ、抱きしめてもらっていいですか?」

「ええっ?」

「母が亡くなったのは小さいころでしたので、そういう記憶が・・・・・・」

「いやーん! かわいすぎるー!」


 玲奈が言い終わる前に、夫人はその胸に玲奈を抱きしめた。


「むきゃー! 女神おねえたまー!」


 その外から早貴ちゃんが参加し、ふたりに抱きついた。


「キュンキュンすごくて無理! 仲間に入れてー!」


 おい、どさぐれにまぎれてFD小林よ。


 そしておれは、ちょうど前で正座している先生が、腰を浮かしかけたのを発見した。先生の肩を押さえる。


 ふり返った先生の、夢破れた顔がそこにはあった。そう、こんな光景、アメリカンなホームドラマを好きな人なら、あこがれちゃう。


「あ、あぶなかった。思わず」

「先生、心中お察しいたします」

「お茶でも淹れようか」

「あざます」


 先生がキッチンに行く。わちゃわちゃしている女性陣を横目に、おれはソファーに深く座った。


 ふぅ。めでたしめでたし。


「んだー!」


 先生の絶叫が聞こえた。


「な、なんだこれは、洗おうと水を入れたら、メ、メ、メ、メドゥーサが!」


 ・・・・・・あっ、メドューサ・カップを忘れてた。

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