一章 二色のまじわり②

 おおを切ると、男はきよかれたように目を丸くした。

 渡り鳥のような生活は慣れている。大陸は広いと聞いた。どこにだって飛んでいける。石を投げられたら、また新しいすみを探せばいい。ふるえそうになる手をにぎめる。

 小鈴は背負っていたかごを下ろすと、採った山菜の下にある道具を取り出した。筆と絵の具。これは商売道具だった物だ。ずっと、捨てられなかった相棒。山菜を採るだけの毎日だというのに、「祖父の形見だから」と自分に言い訳までして毎日持ち歩いていた。

 一度は手放すと決めた力を使おうとする姿を見たら、祖父は笑うだろうか。

(おじいちゃん、ごめん。ちょっとだけ力を貸して)

 手にんだ筆は何も言わない。久しぶりに使われることを喜んでいるようにも感じる。

 絵の具の元になる粉を、とうで作られた入れ物から皿に移す。これを水と混ぜ合わせるだけで準備は整う。

 さいかいじゆつに使う絵の具の多くは、大地の隠気に長年かってきた岩から作られる。べにばななどの植物も有効だ。幻倭国からの移動で持ってこられたのはしゆと青の二色だけだった。

 まずは筆を朱でらした。

 小鈴は子熊の小さな手をでる。黒い毛におおわれた手が小鈴をこうげきすることはない。黒で縁取られた瞳は、必死に助けを求めているではないか。

 この熊と出会ったのは運命だと思った。祖父が黄金の瞳をこわがらず小鈴を救ったように、がらだけで危険と判断される子熊を助けられるのは小鈴しかいない。

「今、助けてあげるよ」

 小鈴はゆっくりと幹に隠気を移す図柄を描いていく。

(相手が木でよかった。人間や動物だったら今の私には無理だったもん)

 植物に比べて、人間や動物の身体はせんさいだ。人から人へ隠気を移すにはそれ相応の技術がいる。

 図柄を描いていくと、つい鼻歌交じりになってしまう。

 それはつたからまるように根元から天に向けて。川の流れのようにしなやかに。鳥がつばさを広げているような図柄だ。男の隠気の一割をもらえるように術を設定しておこう。嵐南国の人間は彩絵術を使わない。言いえれば、いつでも身体に隠気が満ちている状態だ。

 一割ならば、身体へのえいきようは全く感じないはず。この大きな木を満開にさせるには足りないかもしれないが、一つでも花が咲けば、「ほら、咲いたでしょ」と言って子熊をうばうつもりだ。

 いつの間にか、男がいることも忘れていた。鳥のさえずりが遠のいていき、音が消えていく感覚。一人きりのからに閉じこもるような不思議な心地ここちだ。自分の息づかいだけが耳をけ、目の前にごくさいしきが広がっていく。

「おい」

 ふう、と息をついたとき、後ろから声をかけられた。振り返れば、げんそうな目で小鈴とれた木をこうに見る男がいる。

「まさか、絵を描いて『咲きました』とでも言うつもりか?」

「ここからが本番。ここに手をかざしたら、せきが起こるわ。さあ、どうぞ」

 小鈴はいろどられた木の幹を指す。

 手をかざせば、彼の隠気が杏の木に移るようになっている。何も知らない人をだますようなやり方だが、健康的な男なら減った一割程度の隠気は数日もしないうちに元にもどる。

「そんなあやしいものに手をかざすわけがないだろ?」

「ずっと見ていたでしょ? ただ絵をいただけじゃない。それとも、ただの絵に手をかざすのも怖いの? もしかして、怖がりだからこんな小さな子まで殺さないと気が済まない……とか?」

鹿も休み休み言え。怖いわけがないだろ? 怖いなら一人でこんなところには来ない。熊がつかまったという報が届くまでしきとんにくるまっているさ」

「あなたが一人で熊退治をしようってくらい勇気のある男だってことはわかった。ゆうかんなあなたなら、絵に手をかざすくらい怖くないでしょ? さあ、どうぞ」

 彩絵術を知らない嵐南国の人にとって、これはただの絵でしかない。うたぐり深いのだろう。男は自身の手のひらをぎようする。

 男がゆっくりと手をばしていくあいだ、小鈴は何も言わなかった。下手に言葉を付け加えて、手を引っ込められては困る。

 彼は静かに幹に描かれた絵に右手を伸ばした。そのたん、描いた図柄は幹に吸い込まれていくようにうすくなっていく。描いた図柄は一度使うと消えてしまうからだ。図柄が正確で、術がうまく使えていることを示していた。

(よし! うまくいった)

「おい、絵が消えたぞ!?」

だいじよう、大丈夫。まあ、見ていてよ」

「何が見ていて、だ。何も──……」

 男は言葉を失った。ちんもくを続けていた木の枝に真っ赤なつぼみが生まれたからだ。

 増えていく蕾。木に隠気という血がめぐる様を想像し、思わず小鈴のほおゆるむ。

「おい、どうなっているんだ?」

「枯れ木に花をかせろと言ったのはそっちじゃない。ほら、あともう少しで花が咲くよ」

 その木だけ時間が早送りになっているかのように、枝についた蕾は大きくなり、だいももいろの花を広げていく。木は久しぶりの開花に喜んだのか、あっという間につるされたぐまかくすほどの花を咲かせた。

(あれ? 思ったよりもたくさん咲いたな)

 男は何度も自身の手と木を交互に見ていた。すきができたうちに、木にくくられているなわに小刀を当てる。すると、満開の花のあいだからうでの中に、あみにくるまれたままの子熊が落ちてきた。小さく鳴いた子熊は、ぎゅっと小鈴の腕にきつく。

 当分、はなれてくれそうにない。

「約束どおり、この子はもらっていくね。あなたは好きなだけ花見でもしていってよ」

 小鈴は男に背を向けた。奇跡におどろいているあいだに姿を消せば、夢だとでも思ってくれないだろうか。

「待て! この木に何をした?」

 男はあわてて小鈴の腕をつかむと、れいな顔を近づけた。せまふんに、腕にしがみつく子熊の力が強くなる。

 うまい言い訳など考えている暇はなかった。

「ただ願いを込めて木に絵を描いただけ。天がこの子をあわれんで、かなえてくれたのかも。……それとも私がてんを持つ皇族に見える?」

 この国の皇族には天賦と呼ばれる力がある。しかし、たみは等しくなんの力も持たないのだ。近所の人にもらった古着を着ている小鈴が皇族に見える人はいないだろう。

 男のまゆげんそうに寄った。

「話はそれだけ? 私もあなたといつしよで暇じゃないの。そろそろ行くから手を離して」

「まだ話は終わっていない」

「だから、あの木は──……」

「とりあえず、あの木は天のおぼしだということにしてやる。だが、その熊が安全かどうかは話が別だ。……そうだ。安全だとわかるまで俺のところにいるといい。部屋ならいくつか空いている」

 男は小鈴の腕を離さない。小鈴と一緒に子熊をらえて殺すつもりなのだろうか。

「そんなに心配なら、すぐにここを出て行くから安心して。それなら、あなたたちも安心して暮らせるでしょう?」

「家族はどうするつもりだ?」

「……家族なんていない。めいわくをかけるつもりはないから、私たちのことはほうっておいて!」

 小鈴のさけび声が森の中にひびく。腕の中の小さな存在がピクリとねる。つい、むきになってしまった。ひと月も暮らせば、わかることはたくさんある。小鈴と同じくらいのねんれいの女性はみなとついでいるか両親と暮らす者ばかりだ。

 ひとみを黒くしたくらいではつうにはなれないのだと、男に言われたようでくやしかった。

 男は驚いたのか、掴んでいた手を離す。小鈴はげるように一歩、二歩とあと退ずさる。

「すまない。悪いことを聞いた。だが、なおさら無責任に放ってはおけない。女一人で都の外に出るのはやめておけ。外はようじゆうも怖いがさんぞくも多い。……仕方ない。ともに来るのがいやなら、これを持っていろ」

 札を目の前に差し出された。手のひらにのるほどの大きさだ。銅でできた札には文字が書いてあるが、なんと書かれているかはわからない。

「これは?」

「それが何かもわからないのか。まあ、いい。何かあれば城に来て、門番にこれを見せろ。俺にすぐれんらくが来るようにしておく」

 城という言葉になつとくした。やはり彼はかんで、仕事でこの子熊を調べていたのだろう。彼は簡単に言うが、中央にある城までの道などわからない。官吏であれば馬車も使うだろうが、文無しの小鈴には乗り合いの馬車を利用することも難しいだろう。

 断ろうと口を開いたとき、男は小鈴のこし布に札を差し込んだ。両手は子熊をかかえるのにふさがっている。き返そうにも手に取ることも許されない。

「ちょっとっ!?」

「お守りだと思って持っていればいい。金に困ったら売ってもいいぞ? それで、どこに住んでいる? 後日、君がこのけな子熊にわれていないかかくにんしに行こう」

 家にまで来られてはたまったものじゃない。何もかも言いなりになどなるものか。

 はんこうを示すために、ふいっと顔をそむけた。

「家は教えたくないか。まあ、またここで会えそうだからいいか。なら、名くらいは教えてくれ。それくらいならいいだろ?」

「……しやおりん

「俺はりよう。本気でその熊を飼うつもりなら気をつけろ」

「だから、おそうほどきようあくじゃないって」

こわいのは人間だ。変ながらの熊を街で見かければ、どうなると思う? 未知のものにはきようを感じる。恐怖は人の判断力をにぶらせる。……用心しろ」

 夏涼は熊の頭を乱暴にでると小鈴に背を向けた。

 彼の姿は少しずつ小さくなっていく。

 あんずの花が風にれ、ひらひらとう。子熊の頭に落ちるころには、彼の姿は見えなくなっていた。

「ほら、怖いお兄さんはいなくなったよ。網から出してあげるから離れてもらえるかな?」

 小鈴は腕の中でふるえる子熊を地に下ろすためにしゃがんだ。夏涼の気配が消えたことを察知したのか、小鈴にしがみついていた手の力を緩める。

 地に足をつけようとしてうまくいかなかったのか、地面にコロンと転がった。そのままからまる網にもがく姿に笑いをこらえる。これが人を襲うとだれが考えたのだろうか。

「待って。動いたらをしちゃうかも」

 頭を何度か撫でてやれば、子熊は落ち着きを取り戻す。おとなしくなったところで、網に小刀を当てた。網から引き出せば、安心したように地面に座る。大福のようにぽってりとした形は愛らしく、つい頭をぐりぐりと撫でた。

どんくさいみたいだから、人が来ない奥で暮らして。この辺には出て来ちゃだめだよ」

 見張るつもりなど、はなからない。夏涼の言うとおり、どんなに小さくてもほかちがうだけで人は恐怖を感じるものだ。

 まだ小鈴がとしもいかないころ、大人たちが黄金の瞳を見て震え、ものを向けてきたことがある。小さいということは不安をぬぐう理由にはならないことをよく知っている。

 夏涼は確認しに来るというようなことを言っていたが、「いつの間にか消えた」とでも言っておけばいいだろう。子熊は言葉が理解できないのか、ただ小鈴を見上げる。

 小さく愛らしい子を置いて行くことに後ろがみを引かれる思いではあったが、子熊に背を向けた。しかし、小鈴が歩き出したたん、今までのんびりとしていた子熊がしゆんびんに動いた。視界のはしで動いた黒と白のかたまりは逃げ去るわけではなく、小鈴の足に抱きつく。

「ちょっと!? 離してっ! お願い!」

 離さないとばかりに抱きついたぐまは、小鈴の足をぎゅうぎゅうとめつけた。引きがそうとすればするほど、子熊は小鈴の足にすがる。小さくても熊だ。力は強い。

 杏の花の下で、小鈴と小さな熊のこうぼうは続いた。

「あのね、私と一緒のほうが危ないんだよ?」

 人間の言葉が理解できるかはわからない。対話を試みたものの、子熊の必死な様子を見ると、簡単にあきらめてもらえるとは思えなかった。

(この子も変な柄だから親に捨てられちゃったのかな?)

「……よし、わかった。一緒においで。一人はさびしいよね」

 幸い、まだ身体からだは小さく、持っているかごに入れればかくすことができる。

 子熊の目がかがやいたように感じた。もう一度、ぐりぐりと頭を撫でるとうれしそうに目を細める。毛並みは良くてざわりも良く、ねこ以上におっとりとしていた。

 これを妖獣だと思った人は、目が悪かったのだろう。

「一緒に暮らすなら名前が必要だね。ずっと『熊』って呼ぶわけにもいかないし。白と黒だから……『いし』でどうかな?」

 子熊はきょとんとした顔で小鈴を見る。小鈴は腰につけていたお守りぶくろの中から白と黒の碁石を取り出す。祖父の形見だ。

「これが碁石。私のおじいちゃんはね、囲碁が好きだったの」

 子熊の前に白い石を一つ置く。その石の左右に黒い石を一つずつ置いた。

「ほら、そっくり」

 ね? と笑えば、子熊の瞳の輝きが増したような気がする。子熊はえんりよがちに碁石をさわった。コロコロとしたところもそっくりだ。

「友情のあかしとして、それはあげるよ。よろしく、碁石」

 三つの碁石をお守り袋にしまうと、小鈴は子熊の首にくくりつけた。喜びを表しているのか、碁石は小鈴にしがみつく。らんらんと輝く瞳を向けられるのは悪くない。

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