序章

 月が笑う夜、すずはただの少女になった。

 額にえがかれた花をなぞる。四枚のはなびらあざやかなしゆいろどられ、存在を主張していた。

 水鏡に映し出された黒いひとみの少女が笑う。

「ありがとう、おじいちゃん。かんぺきだ」

「……本当にこれでよかったんじゃな?」

 祖父は息をき出しながら、朱にれた筆を置く。しわくちゃの手が宙をさまよった。

「小鈴の黄金きんは特別じゃった」

 祖父の手が額の花をでる。今しがた、彼がほどこしたものだ。この小さな花が小鈴をたらしめている。

 小鈴は黄金の瞳を持って生まれた。黒い瞳ばかりのげんこくで、黄金を持って生まれた小鈴はたんだ。しかし、変わっているのは色ばかりではなかった。

 この瞳にはとくしゆな力が宿っている。──身体からだめぐる〈いん〉と呼ばれる気をができるのだ。

 この世界で生きるすべての者には、隠気が流れている。人間も動物も植物にも。隠気は血と同じくらい大切で、生命いのちに大きなえいきようあたえるものだ。

 隠気がとどこおれば病におかされ、失えば死に至ることすらある。しかし、人の目にはけっして映らない。ゆえに『隠』の字が当てられたのだと祖父は言う。

 小鈴はそのだれにも見えないはずの隠気をることができた。

「私はずっと、こんな力があるより、みんなと同じになりたかったから、これでいいの」

 先ほどまで見えていた祖父の身体に流れる隠気は、もう見えない。小鈴の能力は黄金の瞳とともにふういんされたのだ。

 生まれたころからともにあった能力だが、隠気が見えないことに少しだけほっとしている。

 祖父のねんれいとともに減っていく隠気を、見なくてもいいからだ。人はいつか死ぬ。たましいは天にのぼり、身体は大地にかえる。隠気は身体よりも早く大地に還ろうとするけいこうがある。

 ここ数日、祖父の中に巡る隠気は少しずつ、身体からはなれていっていた。

 死期が近いからだ。

 小鈴にとって、祖父はゆいいつの家族。気がつかないふりをして、がおを返すのはつらかった。

「ずっとこの黄金が小鈴を苦しめておったこともわかっておる。だが、小鈴の黄金の瞳を封印するということは、同時におまえの能力と特技もうばうことになる。それがどういうことかわかっておるのか?」

「わかってるよ。耳にたこができるくらい聞いたもん。〈さいかいじゆつ〉が使えないんだよね?」

 小鈴はへらっと笑うと、ゆかに転がった筆を取った。よく手にんだ細筆は、先ほどまで祖父が使っていたものだ。

 小鈴は躊躇ためらうことなく、床の上に小さな絵をいた。

 彩絵術──それは、絵をばいかいにして自然にかんしようする術。水を呼び、風を起こし、火をきつけることもできる。小鈴はこの彩絵術が得意だった。

 彩絵術は単純だ。決まったがらを描き、その絵に自身の身体の中に巡る隠気を流し込めばいい。

 床の上に描いた図柄は、彩絵術を学ぶときに一番に教えられるものだ。水を大地から呼び出し、おどらせるだけの簡単なわざ

 小鈴は図柄に手をかざす。しかし、隠気が流れる気配がなかった。本来なら、すぐに小鈴の隠気が絵をかいして水を呼ぶはずなのだ。

「本当だ。何もできないや」

 小鈴は小さく笑う。彩絵術は小鈴にとって逆立ちをするよりも簡単なものだった。図柄は完璧だ。自身の手をまじまじと見る。何も変わらない。不調を感じるわけでもなかった。

 小さなため息をらした祖父が、小鈴の描いた絵に手をかざす。すると、絵の中心からは水がき出て、うなぎねるように躍り出た。

「小鈴の隠気は全て、その額の花を介して黄金の瞳の封印に使われておる。黒を保つにはそれくらい隠気が必要じゃ。今後、彩絵術を使うことは無理じゃろう」

「つまり、これからは飲み水もからまないとだめだってことかぁ。不便だなぁ」

 自然に干渉する彩絵術を使えば、いつでもれいな水を飲むことができたし、火をおこすことも簡単だ。カラカラと笑うと祖父がまゆを寄せる。

「だからごろから横着するなと言って──……」

「はいはい。これからはちゃんとやるから。もう十八なんだから、それくらいできるよ」

(そうだ。これからは一人で何でもできないといけない)

 まだ文句を言いたりないと祖父は口を開きかけたが、き込んでしまって続かなかった。あらせきの音と浅い呼吸が、せまい家にひびく。

 すきだらけの一部屋しかないっ立て小屋。誰が建てたのかもわからないしろものだったが、流れ着いて三日前から使っている。

「ほらて。今日はうんっと冷えそうだよ」

 彩絵術が使えたならば、冷え切った部屋を暖めることも容易だった。しかし、今はどうすることもできない。自分の分のうすとんも祖父に巻きつける。

 吐く息が白かった。

(これが、普通ってことか)

 普通になっても、笑うのは下手なままだ。

「おじいちゃん、黄金の瞳はおにあかしだよ。人をらうとされている鬼なんて、どこへ行っても幸せにはなれない。能力と特技をだいしようにする価値はあったよ」

 瞳の封印を施すかいなか、祖父がずっとなやんでいたことを知っている。

 祖父のまゆじりが下がった。

「そんな顔しないで。私はもう、どこに行っても石を投げられることもないし、雪が降る中、追い出されることもない。今は最高の気分なの。だから、気にむことはないって」

 満月が二つ並んだような瞳がだいきらいだった。この瞳のせいで、両親の顔を知らない。同じ場所に長く住むことは許されず、南へ北へとわたり鳥のような生活をなくされた。

 この瞳をこわがらないのは、小鈴を拾ってくれた祖父だけだ。十八年間めいわくばかりかけた。だから、これからは一人でも生きていけるのだと、安心してほしい。

 片方の口角だけが上がった下手な笑顔を見せる。

 祖父がゆっくりと口を開いた。

「小鈴の黄金は神に愛された特別のものじゃ。みな、この価値がわからんのだ」

 祖父の弱々しい手が小鈴の手に重なる。幼いころ、祖父の手はもっと力強くて大きいと感じていた。今はなんと弱々しいことか。

わしはもう長くはない。おまえにやれるものは全てやった。あとはおまえが一人でつかまなければならん」

さびしいこと言わないでよ。まだ、おじいちゃんに教えてほしいことたくさんあるよ?」

「花が散ることを怖がることはない。それが運命だからじゃ。花が散らねば実はならん」

 まるで別れの言葉だ。とうとう一人になる。物心ついたころから、祖父は小鈴のすぐとなりにいた。別れなど想像することもできない。

「小鈴、これをやろう」

 祖父はふところから取り出した物を小鈴の手のひらへと置く。

 親指のつめほどの大きさの白い石だ。

いし?」

「それは碁石じゃない。儂が何年もかけて作り上げた……わばほうじゆ。儂の十数年分の隠気が込められておる。これに望めば、一度だけ好きな場所に連れて行ってくれるじゃろう」

 ろうそくの火にかざせば、真っ白な宝珠には細かな絵がえがかれていた。彩絵術の図柄は術によって様々で、難易度が高いものほど細かい。人を遠くへ移動させる術など絵空事のように感じたが、びっしりと描かれた細かい図柄が、真実であると物語っている。

「どこへでも?」

「ああ、好きなところに行きなさい。そこで幸せを見つけるといい。小鈴とは色々な場所を巡った。気に入った場所が一つくらいあったろう? 南でも北でもいい。おまえの全てを受け入れてくれる人が見つかるはずじゃ」

 しわくちゃの手が小鈴の手をゆっくり撫でる。祖父は目を細めて笑った。

 もらったばかりの宝珠を空にかかげる。

「全てを受け入れてくれる……か」

 祖父以外にそんな人が現れるとは思えない。

 巣から飛び立つひな鳥はどんな気持ちで羽を広げるのだろうか。


 それから数日後、小鈴にとって唯一無二の花が散った。

「おじいちゃん。私をずっと、ずっと遠くへ連れて行って。同じ場所に行くなんてつまらないよ。行くなら私のことを知っている人がいない場所がいい」

 小鈴は強く願った。幻倭国の中は行きくしてしまったから、無理難題に宝珠は困るかもしれない。

 しかし、願いを受けて宝珠が太陽のようにかがやく。暖かい光が小鈴を包み込んだ。

 祖父の手のようなぬくもりだ。

 これからおとずれる新しい人生は、ごくつうのありきたりな毎日のり返しだといい。

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