第25話(明け)
意識を失ってからどれくらいの時間がたったのか、ふわふわとした幸福感に包まれながら目を覚ますと、暖かな不毛布団の中にいた。ぐちゃぐちゃになっていた体は綺麗に拭われていたし、汚れたシーツも取り換えられていた。ベッドが置かれている部屋の区画は照明が消され真っ暗だったけど、地続きのリビングには間接照明がついていて、ベッドから見える範囲で視線を移すと、散乱していたはずの服もどこかに姿を消していた。同じように、先輩もベッドから見える場所にはいなかった。もぞもぞと体を動かすと、普段とらない大勢を強いられた股関節に鈍い痛みや、腰に気怠さはあったが、動けないほどではなかった。初めての行為でそれだけのダメージで済んでいるというのは、先輩の配慮のおかげもあるのかもしれないけど、自分がギフトであることが大きいのだろう。
性体験のないこの体は、与えられる刺激に反応して、自分が想定していた以上にしっかりと受け入れる役目を果たした。経験する前は恐怖でしかなかった体の変化も、結局は愛されるための自然の摂理だとわかれば、いっそありがたくさえ感じる。それよりも、通常であれば出さないような声を上げ続けた喉への負担の方が大きく、乾燥のせいもあって喉が張り付くように乾いていた。サイドボードにミネラルウォーターのボトルが置かれているのは辛うじて見えたけど、勝手に手をつけていいものか悩んでしまう。かといって下着もつけていない体で布団から出ることは躊躇われて、仕方なく俺はふかふかの羽毛布団にくるまったまま、それをずるずる引きずるようにベッドから這い出ることにした。
ペタペタとフローリングを歩いていくと、先輩がデスクに向かっている姿が見えた。シャワーを浴びたのか、質のよさそうなオフホワイトの部屋着を身にまとい、普段は少しサイドに流すようにセットされている前髪が眼鏡をかけた目元を隠していた。純粋な見た目の良さにドキッとしてしまう。視線に気づいたのか、布団を引きずる音に気付いたのか、先輩が顔を上げる。
「あぁ、起きたのか」
「あの、今何時ですか?」
「十時だよ」
時間を聞いてさすがにぎょっとした。どれだけ眠っていたのだろうか。家には事前に連絡を入れてはいるけど、そこまで遅くなるとは伝えていない。「帰らないと」と焦っている俺に、先輩は笑いながら「泊っていけば」と言った。
「シャツは洗濯しているから、明日には乾くはずだし、下着はさっき新しいのを買ってきたからそれをはくといい」
指差されたローテーブルを見ると、駅前にあったバラエティショップの袋が置いてあった。そこまでしてもらって帰るとも言えず、「家に連絡入れます」と言って、ハンガーラックにかけられていた制服のズボンからスマホを取り出す。家族から特に連絡は入っていなかったから、『友達の家に泊る』とだけ母にメッセージを送ったら、すぐに既読がつき、『わかりました。もう少し早く連絡ちょうだいね』と返ってきた。まだ高校生の自分が外をほっつき歩いていたら補導対象になる時間だし、家族なりに俺の体のことを心配してくれているのは分かっているから、申し訳ない気持ちになって、素直に『ごめん』とメッセージを送った。ふぅっと小さくため息が漏れる。俺がスマホをズボンのポケットに戻すと、先輩が本を閉じる音が聞こえた。
「一応汚れは拭いておいたけど、気持ち悪いだろうからお風呂入ったら?」
「そうします」
「俺ので悪いけど、スウェットを出しておいたからそれを使って。夕飯は遅くなるけどその後食べよう」
先輩はそういうと浴室からバスタオルを持ってきてくれた。さすがに布団にくるまったまま浴室には行けないし、かといって他人の部屋を裸で歩くこともできないでいたから、渡されたバスタオルで一応体を隠しながら、新しく買ってもらった下着を片手に、先輩に案内されて浴室にむかった。これ使っていいのかな?と思いながら、置いてあったシャンプーやボディソープを使うと、先輩と同じ匂いに包まれているようで気分が高揚した。セックスをするとそうなるものなのか、自分の頭が随分おかしなことになっている気がして、煩悩を振り払うように頭を振って体を拭いた。
不要なものは全て棚にしまってあるのかと思うほど整えられた洗面所で、用意されていたスウェットに着替えた。手も足も随分長さが余っていて、体格の差に少し悲しい気分になりながらダイニングに戻ると、ローテーブルにいくつか皿が並んでいた。先輩は「作ってもらったものだけど」と申し訳なさそうに眉を下げて言っていたけど、お腹がすいていたこともあって、正直な腹がぐぅと鳴った。その音に苦笑しながら「食べようか」と言われ、二人でソファに座って、テレビを見つつ食べていたら、あっという間に皿の中身は空になっていた。満腹になると、今度は自然とあくびが出る。もう時計の針は十二時を回っていた。
「何か毛布みたいなものってあります?」
「布団寒かった?」
「いや、ソファで寝るのに何かかけるものがあるかなと思って」
泊めてもらうわけだし、ソファで寝るとしても真冬に何もかけるものがないのは辛い。単純にそう思っただけの質問だったのに、先輩は呆れた顔で「一緒に寝るんだよ」と言った。「でも、狭いじゃないですか」と言おうとして、それより早く「今日は流石にもう何もしないから」と言葉を被せられる。そんなことを危惧していたわけではなかったけど、状況的に確かにそういう捉え方もできるなと、先輩の言葉に納得してしまった。だから、先輩の言葉に甘えてベッドの端を間借りさせてもらうことにした。いくら横になれる大きさとはいえ、ソファで寝るよりベッドで寝られる方がいいに決まっている。
新しい歯ブラシを渡されて歯を磨いて、促されるままにベッドの片端に横になった。しばらくして、皿の後片付けやらを終えた先輩がベッドの反対側に上がってくる。広くはないけど男二人が横に並んで寝てもなんとかなる大きさのベッドは、先程の情事を少しばかり思い出させる程度で、二人とも就寝の雰囲気になっていた。ほんのちょっとの気恥ずかしさと、ある事情のせいで、背を向けて横になっていると、隣から「こっちむけば?」と声をかけられた。流石にまだ寝ていないことは明白だから、「こっち向いていた方が寝やすくて」と誤魔化すと、ベッドがギシッと音を立てる。体を起こして俺の顔を覗きこんだ先輩は「あぁ、そういうことか」と言って合点がいったようだった。
「そんなに隠さなくてもよくないか?」
「別に隠してるわけじゃ······」
「ならこっち向きなよ」
肩を掴まれ、少し強引に体を引かれる。仕方なく体の向きを変えると、先輩の満足そうな顔が目にはいって、ちょっとだけ切ない気持ちになった。俺の銀色の目をじっと見つめる熱い視線のせいで、自分で自分に嫉妬しそうだった。ベッドに入る直前にこっそりと外したコンタクトレンズ。真っ暗な部屋なら気づかれずにすむかと期待もしたけど、どうやら先輩は寝るときは少し照明を残すタイプらしい。
コンタクトを外した瞳をだれかにみられるのは、やはり慣れないし、それが先輩でも、先輩だがらこそ、隠していたかった。これまでコンタクトを外すのはキスをする合図みたいなものだったから、パブロフの犬よろしく、コンタクトを外したまま先輩と向き合うと、勝手にその情景が想起されて気持ちが昂る。今日はもう何もしないと言われた手前、そんな心の内を知られるわけにはいかず、世間話でもするように、今まで気になっていたことを尋ねてみる。
「ピアス外さないんですか?」
「あぁ、よほどのことがない限りはつけたままかな」
左耳にだけつけられた金色のそれに指を伸ばし耳たぶに触れても、先輩は拒まなかった。金属のほんのり冷たい感触がする。目立ちはしないけど髪では完全に隠れることのないフープ型のピアスは、最初見たときには生徒会長という役職についていた先輩に似つかわしくない気がしていた。
「気になる?」
「······少し」
素直に答えると、先輩は目を細めて優しく笑った。うちの学校の校則は比較的緩い。染髪も化粧も、アクセサリー類を身につけることも学業に支障がなければ許されている。カップルでペアリングをつけている生徒だっているし、ピアスを開けていること自体は珍しくはない。だれにでも平等で優しく真面目、という校内での生徒会長のイメージとはズレた型のピアスも、こうして日常を少し共有してみれば、思いの外強引で飄々とした先輩に合っているように思えた。
「いつからつけてるんですか?」
「中学からかな。いつだったか、母があいつの誕生日にピアスをねだられたとかで買いに行こうとしているのを偶々知ってね。自分は母からもらったプレゼントなんてないのに、なんだかそのときだけ無性に腹が立って、初めて、自分にも何かほしいと強請ったんだ」
あいつと言うのは、異父兄のことだろう。誕生日やクリスマスのプレゼントさえないような希薄な母と息子の関係の中で、そんなことを言うのはどれだけ勇気のいることだっただろう。
「そうしたら、これを買ってきてくれた。まぁ、学校から帰ってきたら自室の机の上に置いてあっただけなんだけど、それ以降つけてるんだ」
「ずっと?」
「どうしても外さないといけないとき以外は。これ、よく見ると小さな石が入ってるんだけど、誕生石なんだ。母が自分の誕生日を覚えていたことに驚いたのを覚えてるよ」
顔を近づけてよく見れば、確かに緑色の石が一粒埋め込まれていた。
「なんですか?」
「エメラルド」
「それ、中学につけていってたんですか?」
「そうだけど?」
「不良だ」
悪戯っぽく笑うと、先輩もそうだなと言って笑った。話しているうちに体が温まって、眠気が強くなってくる中、ぽやぽやした頭で幸せだななんて想いが膨らむ。
「キスしてもいいですか?」
「もちろん」
体をもぞもぞと動かして、自分から先輩の唇に触れるだけのキスをした。柔らかくて、心を満たしてくれる。
「おやすみなさい」
そう言って目を閉じた俺の頭を先輩はそっと撫でてくれた。体力を使い果たした体はすぐに眠りの中に引き込まれていく。それに抗うことなく身を任せ、気づけば先輩の「おはよう」という声で朝を迎えた。すでに制服に着替え身支度のできている先輩はキラキラしていて、一分の隙きもないように見えた。そんな先輩が俺より早く起きてシャツにアイロンをかけ、朝食まで準備してくれているなんて、どんな夢だろうか。
トーストと目玉焼きとウィンナーにスープ、先輩はスープの代わりにコーヒーを、二人でソファに並んで食べた。登校時間は少しずらし、慣れない満員電車に乗って学校へ向かう。いつもと何も変わらない景色のはずなのに、何かが変わって見えるのは、昨日の行為のせいかもしれないし、単なる思い違いかもしれない。でも、自分の中で生きていく方向が定まったのは確かだった。
その日以降、先輩からの呼び出しはないまま終業式を迎えた。もちろんまめに連絡は取り合っていたけど、所謂恋人同士がするようなクリスマスのデートもしなかった。その代わりというには比重が重すぎるけど、年が明けてすぐ、先輩が俺のうちに挨拶にきた。センター試験が近い大切な時期だというのに、受験が終わったらすぐにパートナーの契を結びたいからという先輩の希望に押し切られて、俺は家族に先輩を紹介した。
皆一様に驚いていたし、特に兄は一度学園祭で先輩を見かけていたこともあり、信じられないといった様子だった。いつ?どこで?なんで?と答えに困る質問をたくさんされた。でも、ギフトだと判明してまだ一年にも満たないにもかかわらず、メイカーを装っていたはずの俺をパートナーにと望むテイカーが現れたこと、しかもその相手が生徒会長を務める程人望も能力もある人物であることは、全てが嘘のような事実だった。ただ、良くも悪くもあまり物事を深く考えないうちの家族が俺たちのことを反対するわけもなく、むしろ俺の状況を考えると、今の生活を続けるのは難しいとわかっていたようで、両親は逆に息子を大切にしてもらえるならありがたいと頭を下げていた。その姿に胸が苦しくなった。そうして拍子抜けするほど簡単に、俺の方の家族の問題は解決した。
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