第23話(接吻)
部屋に入ると、先輩はまずキッチンでコンビニで買ってきたビニール袋から中身を取り出し始めた。入り口すぐのところに、コートハンガーが置いてあり、先輩から着ているコートやブレザーをかけるよう言われた。自分の着ていた服が先輩の私服のコートの横にならんで吊るされているのを見ると不思議な気持ちになった。
「とりあえずソファに座ってて」
カウンターキッチンの前にはパソコンやら参考書が積まれたデスクとチェアが窓側を向いて置おいてあり、その奥にソファがあった。人が一人優に横になれるほどの大きさのダークグレーのソファの前には、ガラス製のローテーブルがあり、正面にはテレビボードが置かれていた。部屋の大きさにはあっているけど、自分の家のものより大きなテレビを前に、俺はソファに座ることを忘れてポカンとあたりを見回していた。
部屋は横に長い作りになっていて、間口が広く、よく考えると1LDKの壁を取り払ったような作りをしてた。ローテーブルの下にはふかふかした白いラグが敷かれていて、上には見慣れない形の照明がぶら下がっている。テレビボードの横には名前もわからない何だかおしゃれな観葉植物が置いてあって、ソファの背面には十分なスペースをあけて、テレビと向き合う形でベッドがあった。ブルーのカーテンは締め切られていて、外の風景まではわからなかった。
「テレビでも見てていいから」
何となく申し訳ない気持ちでソファの端に腰を下ろし、目の前にあったリモコンでテレビをつけたけど、全く落ち着かなかった。チャンネルをいくつか変えたけど内容が頭に入ってこず、とりあえず何度か見たことのあるバラエティー番組をかけてみる。それでも手持ちぶさたでそわそわしてしまい、近くにあったクッションを借りて膝の上で抱き抱えた。部屋全体がどことなく良い香りがするのは、ルームフレグランスのせいだろうか。
目だけキョロキョロと動かしていると、デスクの上の参考書の中に、赤本かあった。これまで先輩の進路について聞いたことはなかったけど、書かれている大学名はもちろん超難関校といわれる類いのもので、俺とこんなことをしている時間なんて本当はないのではないかという考えが浮かんだ。やはりさっさとお暇しようと思い立ち、立ち上がろうとすると「何もなくて悪いな」と言いながら先輩がさっき買ってきたであろうジュースやお菓子を持って隣に座ってしまったから、言い出せずに終わった。
「冷蔵庫に作りおきのものならいくつかあるけど、なにか食べるか?」
「今は…···」
「じゃぁ、これ」
コーラを渡され、ボルトをギュット握りしめる。先輩はいつの間にかネクタイをほどいて、第一ボタンも外していた。足を軽く組み、袖を二、三回折ってまくっていて、手にしているのは最近発売したばかりのフレバーティーのペットボトルだった。普段見ないラフな格好に、不覚にもドキッとしてしまう。
流れに飲まれて先輩の家まで来てしまったけど、これがどういう状況かと言えば、好きな人の家で二人きりになっているということだ。いつもとは違う場所で、いつもとは違う雰囲気を纏った、自然体の先輩と接している。それが特別な関係になったことを物語っているようで、急に緊張感が増した。
「飲まないのか?」
キャップを握ったまま、いつまでもペットボトルを開けない俺の顔を先輩が覗きこむ。喉は乾いていたけど、水分を欲しているわけではなく、渡されたペットボトルをローテーブルに置き、クッションを強く握りしめることで動揺を散らした。
「俺、こういう状況初めてで」
「こういう状況って?」
笑顔の先輩がわざとらしく聞いてくる。学校でのやりとりのときも思ったけど、優しそうな顔をして本当はすごくたちが悪いのかとしるないと勘ぐってしまう。
「だから、その、好きな人の部屋にいくとか…」
「それなら俺も、他人をこの部屋に呼んだのは初めてだ」
「ぇっ?!」
「陽生が初めて」
嘘だといってやりたかったけとま、その前に頬にキスをされていた。リップ音をたてるとすぐに唇が離れていく。恥ずかしすぎて、クッションに顔を埋めてみても、頭から湯気が出そうだった。広いソファの端で、肘掛けと先輩に挟まれて動くこともままならない。
「······いたたまれない」
クッションに顔を突っ込んだまま、つい、思っていたことが口から溢れた。今日の今日で少し展開が早すぎる。やはり一度家に帰って気持ちと状況を整理すべきだったとか、色々な考えを頭の中で巡らせていると、先輩の手が俺の頭を撫で、髪をそっと梳き始めた。染めている上にろくにケアもしていない髪は、決して柔らかくはなく、軽くセットしていることもあって、触るたびにクシャと音がした。
「恥ずかしいから、やめてくださいよ」
赤くなっているだろう顔を仕方なく上げ、体を逸らす。
「耳まで真っ赤だな」
「あ"ーもー!」
揶揄われているとわかり、俺は悔しくて意味もなく叫んで、再度クッションに顔を埋めた。先輩にクスクスと笑われ、翻弄されている気分になる。
「そういう反応、普通の高校生って感じでいいな」
「ただおちょくってるだけじゃないですか」
「そうかもな」
一人で緊張したり気を遣っているのがだんだん馬鹿らしくなってきて、クッションを抱えたままコーラに手を伸ばした。キャップを開けるとプシュッと小気味のいい音がして、中身をゴクゴクと喉に流し込むと、炭酸のシュワシュワとした感覚が口の中で弾けて喉を潤した。
「きれいな喉元」
「え?」
「色が白いからかな」
呟かれた言葉は、コーラを飲んでいたせいでよく聞こえなかった。
「何か言いました?」
「陽生の好きなところ」
「はい?」
「俺はその、陽生曰く平凡だっていう顔も気に入ってるよ。確かに所謂ギフトっていう顔立ちではないけど、目は綺麗な二重だし、一つ一つのパーツは整ってる。ただ消極的な性格が顔に出ているから、暗く見えるし目立たないだけでね」
「やめてくださいよ。先輩に言われてもお世辞にしか聞こえませんからっ」
つい語気が強くなって、まるでふてくされているような言い方になってしまった。女子からの人気で言えば校内でも五本の指には入るであろう先輩に誉められても、慰めにしか聞こえない。でも、そんなことはお構いなく、先輩は話を続けた。
「本当は強情なのに、流されやすくて、押しに弱いところとか」
まさに今がその状況ですよと脳内では返事をするけど、声には出さない。微笑んではいるけど真面目な顔で言う先輩からは、自分を好いているという気持ちがしっかりと伝わってきた。嬉しさと恥ずかしさと愛しさみたいなものが一緒になって体を満たしていく。
「それで、付き合ってもいないのにキスを許してしまうところとか」
「あれは先輩が…···」
「あと、そういうことが自分でも変だとわかってるのに、止められなくて矛盾してるところとか。俺には全部可愛く見えるんだよ」
最後の台詞に耐えきれなくってクッションで顔を隠そうとした手は、先輩に掴まれてしまった。もう片方の手で顎を捕らえられ、視線が合わさる。キスされる。そう思った瞬間には、柔らかなものが自分の唇に触れていた。
触れるだけのキスは、鳥が餌をついばむように、時折離れては角度を変え、何度も繰り返された。顎にあった手は頬を撫で、俺の手首を掴んでいた手はするすると腕をなぞりながら肩まで上がってきていた。胸は高鳴る一方、心地のよいキスに意識が奪われ始める。
「少し口を開けて」
呆けた頭で言われた通りに口を僅かに開けると、うっすらと開いた隙間を舐められた。びくりと震えた肩を掴まれたまま、先輩の舌がぬるりと口内に入り込んでくる。深いキスをするのは初めてで、無意識に体に力が入った。口内でゆっくりと動く舌に促されるように、自分のものを差し出すと、舌先をちゅっと吸われる。その音にすら反応して、鼻から息が漏れた。
いつの間にか後頭部に回された手のせいで離れることもできず、舌や口内を嘗めるように動いていた先輩の舌は、徐々に呼吸ごと絡めとるようなものへ変わっていった。絡み付く舌から逃げようとしても、柔らかく捕らえられ、唾液の立てる水音に鼓膜から脳内を侵されているようだった。温かく、しっとりと弾力のある舌が絡み付き、なす術もなくされるがまま蹂躙される。
段々と力が抜け、体は気持ちがいいと訴える一方、うまく呼吸ができず、息苦しさで眉間にシワがよった。限界が来て、先輩のシャツの胸元をギュッと掴むと、名残惜しそうに唇は離れていった。透明な糸が互いの唇の間を繋いでいたけど、距離を取ると自然とそれはプツリと途切れ、唇をさらに濡らした。
「あ、はぁ、はぁ…···」
漸く供給された酸素を十分に吸い込むと、飲み下しきれなかった唾液がツーっと顎を伝った。ただ座っていることもきつくて、俺はソファの背もたれに体を預け、荒い呼吸を繰り返していた。唇はまだ熱を含んでいて、痺れたままだ。
横目で先輩を見ると、舌で唇の端をペロッとなめたのが見えた。色を持った熱い視線が自分に向けられている。威厳はあるけど比較的柔和な顔立ちの先輩の顔に、捕食者の狂暴さが垣間見え、そのことに背中がゾクリとした。
「ベッドに行こうか」
「え?」
「それともこのままここでする?」
頭上から先輩の声が降ってくる。呼吸が整わずいくらボーッとした頭でも、何を言われているのかくらいはわかった。ただ、先輩は答えを待たずに、シュルシュルと俺のネクタイを外していく。シャツに指がかかり、第一ボタンがはずされる前に、俺はかろうじて「ベッドがいい」という言葉をボソボソと絞り出した。
先輩の手が止まり、口許が弧を描く。あ、これは答えを間違ったなと思ったときには時にはもう遅かった。腕を引かれ、ながば無理矢理ソファから立たされると、そのままソファの後ろに構えていたベッドまで引っ張られるように連れていかれた。なぜ「今日は嫌だ」と言わなかったのか。
ボスンッ
先輩の言うように流されやすい俺は、気づけば綺麗に整えられたベッドの上に押し倒されていた。
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