第20話(困惑)
あの後どうやって家に帰ったのか、よく覚えていなかった。気づいたら自室のベッドの上に転がって、天井を見上げていた。せっかくの休日で、午後は時間も空いていたのに、何もやる気が起きず、気分は最悪だった。楽しく映画を観たはずなのに、そのときの気分はどこかに吹き飛んでしまった。持ち帰ったパンフレットも鞄の中にしまったままだ。
先輩から、『家についたか?』とメッセージが入っていたけど、それも既読スルーになっている。そんなことを怒る人ではないし、きっと今頃は勉強中だろう。自分でくしゃくしゃにした名刺だけは、少し伸ばして机の上に置いた。もう二度と会いたくないし、会うこともないだろうけど、先輩のお兄さんの名刺だと思うと捨てられなかった。
ただ、男性が本当に先輩の異父兄なのか、彼の言っていたことが真実なのか嘘なのか、どれも今の俺には確かめる術はなかった。ひとつ言えることといえば、今日あった出来事は全部ただの嫌がらせだということだ。後をつけられ、真偽のわからない他人の家庭の事情を一方的に知らされ、プレゼンツについて揶揄され、先輩との関係を土足で踏みにじられた。積年の恨みをはらしたつもりなのか、復讐のつもりなのかわからないけど、ネガティブな感情だけをぶつけられて、『ただそれだけのこと』と思えるほど俺のメンタルは強くはなかった。
正直、先輩の家庭の事情なんて俺には関係ないことだった。父親が、結婚もして子供もいたメイカーから望んだギフトを奪ったような人だとしても、それは先輩のことではないし、しかも先輩の生まれる前のことだ。そんなことを知っても、俺の先輩への評価は変わらない。皆に平等で優しく、優秀で、時に堂々と、時には繊細に振る舞う先輩の人となりは変わらない。そらなのに、男性と別れた後も俺の心はザワザワと騒ぎ続けていた。それは、ずっと結論が出さないまま、心に居座り続けている不安が刺激されているせいだった。何度自問自答しても答えのでない不安。時折浮かんでは消えていた疑念。
『なぜ自分なのか』
パートナーに誰を望むかはテイカーの本能次第で、理由なんてないのはわかっている。でも、単純に自分に自信がなかった。先輩の本能を揺さぶるほどの何が俺にあるのか。この歳まで、家族ですらメイカーだと思い込んでいたほど、どこにでもいるような、性格も見た目も普通の男だった。体に変化が起こるまではギフトだということを隠していくことも簡単だったし、普通に誰かを好きになって、付き合ったり結婚したりしていくのだろうと思っていた。ごく普通のメイカーのように。
それが、今ではメイカーを装うために必死の努力を要するようになっている。全てこの髪と瞳のせいだった。でも、この髪と瞳が先輩の本能を刺激している。あの日、病院で先輩に見られることがなかったら、
髪も瞳も生まれたときのまま、変わらない姿の自分しか知られていなかったら、俺は、先輩が望むギフトではなかったかもしれない。先輩自身、俺の本来の姿に衝動が掻き立てられると言っていた。
男性に見せられた、古い写真に写っていた女性と同じ色をもつ自分。今は黒で覆われた銀色の髪と瞳。テイカーの望みは本能的な衝動によるもので、それを突き動かすのは多くの場合ギフトの内面ではなく、ギフトの容姿や雰囲気だ。学園祭で起きたトラブルのように、相手がギフトだと公表していなくても、一目見て脳が相手をギフトだと認識することもある。
それなら俺はどうなのだろうか。もし、黒い髪や瞳のままだったとしたら、これまで先輩としてきたやり取りや会話、過ごした時間はそもそもなかったかもしれない。キスをするとき、先輩は必ずコンタクトを外させる。俺の瞳に見入っているときに、先輩がいつもとは違う空気を纏うのを感じるのが好きだった。だから、この髪と瞳が理由なら、それでもいいかと自分に言い聞かせていた。
でも、男性と会ってから、先輩が求めているのは本当に『俺』だろうかという不安がむくむくと大きくなっていた。愛されなかった誰かの代わりとして、テイカーとしての本能ではなく、別のもっと根本的な欲求が働いているだけではないか。
誰かの代わり。
その言葉が俺の頭の中をぐるぐる巡る。他人の話に惑わされる自分も、勝手に邪推して疑心暗鬼になっている自分も、弱くて情けなくて悔しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます