第17話(本能)
先輩は園内を把握しているようで、公園内を看板も見ずに進んでいた。木々の間から木漏れ日が差し込む道を歩いていくと、家族連れがピクニックシートを敷いたり、フリスビーやバドミントン、ボール等で楽しそうに遊んでいる芝生の広場に出た。奥には大きな遊具もあるようで、子どもの興奮したような声が響いていた。
「へー、本当に広いですね」
「もう少しだけ、歩こう」
そう言われ、広場の横の道を進んでいく。道沿い置かれた花壇にも綺麗な花が咲いていて、よく整備されていることがわかった。森のように木々が生い茂る場所では、時折鳥の鳴き声や、風に木の葉の揺れる音がする。どこまで行くつもりなのかと思いながら歩いていると、ちょっとした大きさのある池についた。周りには木でできたベンチがいくつか設置されていて、先輩がその一つに腰かける。園でも奥まった位置にあるのだろう。人は少なく、マラソンをしている人が時々通りかかるくらいだった。先輩は持っていた袋から飲み物を出して俺に渡すと、自分もストローをさしてジュッと中身を吸い込んだ。
「氷が溶けて、少し薄いかもしれない」
「全然大丈夫です。ご馳走さまです」
正直結構喉が乾いていたから、俺もすぐにもらったものに口をつけた。中身はコーヒーで、俺はあまり自分から選ぶことはないけど、少し薄まっていたおかげでゴクゴクと飲むことができた。
「そんなに喉乾いてたのか?」
「歩いたのもありますけど、俺公人や直哉以外とあまりでかけないんで、緊張してるのもあります」
「俺と出掛けるのは緊張する?」
笑いながら急に視線を合わせられ、不本意ながらドキッとしてしまった。先輩は男の俺から見ても格好がいいし、立ち居振舞いもスマートだ。何で俺なんかがこんな人と出掛けて、話をしているんだろうと我にかえる瞬間がある。そのたび、この人がテイカーで、俺がギフトだからかだという思いが浮かんで、勝手に納得している自分がいた。
「ところで、今日は何しに来たんですか?」
「何も」
「え?」
「飯塚と話がしたくて誘っただけだよ」
「話ですか?」
「学校では声がかけられないからな。デートにでも誘わないとろくに話もできない」
「デートって」
そうか、これはデートなのかと思った途端顔がカッと熱くなった。恥ずかしくて、咄嗟に帽子のつばをぐっと下に引いて顔を隠す。きっと顔は蛸のように赤くなってるだろう。
「ちゃんと眼鏡も帽子もつけてきたんだな」
そう言われた矢先、眼鏡と帽子を奪い取られた。視界が明るくなって、慌てて取られた物に手を伸ばすも、先輩は帽子と眼鏡を、俺がいるのとは反対側のベンチの隙間においてしまった。
「止めてください」
「なぜ?」
「自分でつけろって言ったんじゃないですか」
「今は二人きりだ」
「…···そうですけど」
正直、先輩の隣に自分がこうして座っていることすら、差し出がましい気がするのだ。矢場先輩が自分をパートナーにと望んだとしても、俺には引け目があった。端から見てもギフトだとわからないような自分が、テイカーでも恐らく優秀であろうこの人になぜ選ばれたのか。例えそれだが本能だと言われても、本能を突き動かしたものは何かを探してしまう。
「俺、普通の人間ですよ。性格はまぁ、暗くはないですけど消極的だし、オタクだし、顔だって平凡で何の特徴もないですし」
太陽が段々と高くなってきて、眩しさが増す。コンタクトをつけているのでそれほどではないけど、先輩と向き合うと逆光で少し目が辛かった。先輩は俺の言葉を肯定も否定もせず、ただ優しげな表情を浮かべていた。
「肌が白いな」
「人の話聞いてますか?」
「きっとその黒髪やコンタクトの下にも、綺麗な色が隠れているんだろうな」
全然会話になっていないような気がして、どうしたものかと考えていると、先輩の指が目元を隠す俺の前髪をかきあげた。
「率直にいうと、俺はきっとお前の本来の姿に惹かれてるんだと思う。だから、今の飯塚を見てもどうしようもない程の衝動を掻き立てられることはない。ただ、居心地はいい」
「そんなこと、あるんですか」
「そうだな。確かに本能がお前だと言ってる気がするのに、俺もよくわからない」
先輩は自嘲気味に笑い、前髪から手を放した。
「今日はコンタクトの替えは持ってきてないのか?」
「持ってきてますし、コンタクトケースもありますけど」
「一度、外して見せてみてくれないか?」
それはとても唐突で危険な申し出だった。わざわざ隠しているものを、誰が来るかわからない場所で曝すことなんてできない。俺は反射的に「嫌です」と答えていた。
「確めてみたいんだ。自分の本能が思い違いじゃないのか」
俺のような人間を望むのは、何かの勘違いではないのか。それは俺が一番疑問を持っているところだ。学園祭で見たあのテイカーが見せた執着や、巷でよく聞くテイカーがギフトに向ける本能的な衝動を、俺は先輩からほとんど感じたことがなかった。出会ったときも、あの学園祭の準備のときも、屋上のときも、先輩から感じたことがあるのは、テイカー故のオーラやプレッシャーに近いものだった。そこにあるのは自制のきいた理性的な感情で、本能的な衝動なんてものは本当はないのかもしれない。
もしかしたら、先輩の望むギフトが俺だと言うのは何かの間違いかもしれないという自分の不安もあって、俺は悩んだ末「わかりました。でも、少しだけですから」と一度は退けた先輩の要求をのむことにした。先輩に背を向け、バッグからコンタクトケースを取り出すと、つけているコンタクトを片目ずつ外してケースに入れる。黒い縁のコンタクトが液体の中に沈んでいく。外で裸眼になるのは久しぶりだったけど、以前よりもだいぶ光を眩しく感じるようになった気がした。
このまま振り替えったら、先輩はどう反応するのか。ふいに、望んだギフトでなくても友達くらいではいてもらえるだろうかという思いが頭を過って、テイカーの先輩と友達ってなんだよと自分に自分で突っ込みをいれた。
ゴクリと唾を飲み込んで、意を決しててゆっくりと先輩の方へ振り替える。太陽の眩しさに一瞬目を細めてしまったけど、先輩の瞳としっかり視線があった。
その瞬間、先輩の目の色が変わったのが、自分でもわかった。視線を逸らすことができないまま、先輩の手が頬に触れ、顔が近づいてくる。決して強く掴まれているわけではないのに、退くことができず、指先で目元をそっと撫でられた。
「やっぱり間違いじゃない」
その言葉に縛られたように体は全く動かず、気づくと俺は先輩に抱き締められていた。そしてすぐに離されてはもう一度瞳を凝視された。
「これは、俺のだ」
その言葉に込められていたのは、確かに本能的な衝動だった。俺は今さら怖気づいて、なんとか先輩の腕の中から逃げ出そうと身じろいでも、先輩の体はピクリとも動かなかった。
「先輩、もうこれ以上は」
放して下さい、そう言おうとした唇は唐突に塞がれえいた。何が起きたのかわからず、体が強ばる。キスをされたとわかった後は、どうすればいいのかわからずただ目を瞑って、腕で先輩の胸を必死に押し返していた。柔らかい唇が、角度を変えて何度も触れては、その度に自分の唇が濡れていった。熱で唇がアイスのように溶けていくようだった。唇が離れるときのリップ音が耳から離れず頭がけらくらした。どれくらいの時間がだったのか、漸く先輩が放してくれたときには、俺はすっかり体の力が抜けてしまっていて、ベンチの背もたれに体を預け、浅い呼吸をはぁはぁと繰り返していた。
「間違いない。やっぱりお前は俺の望むギフトだよ」
ぼうっとしと頭に、先輩の言葉がぼんやりと入ってくる。先輩は俺の姿をただ眺めているだけで、それ以上何も言わなかった。段々と意識が覚醒してくると、俺はのろのろとした動きで何より先に外したコンタクトをつけ直した。やっといつもの自分に戻った気持ちになって、呼吸を整えて、先輩に問いかける。
「これが、先輩のいう本能的な衝動ってことですか?」
「怖いか?」
「怖いというか…···」
うまい言葉が見つからず、視線が泳ぐ。
「望みありかな」
そういうと、先輩は持っていた帽子と眼鏡を返してくれた。遠くで子供の声が聞こえたからかもしれないし、茹蛸のようになっているだろうみっともない顔を隠せということかもしれない。
「なぜ、メイカーにこだわる」
「なぜでしょう。周りがみんなメイカーで、自分もそうだと思ってきたし、少し前までは見た目だってその通りだった。だがら、生活が変わるのが怖いのかもしれません」
「もうそれが難しくなってきていても?」
「先輩は俺がこのままではダメなんですか?」
メイカーにこだわっているわけではないのかもしれない。ただ、俺にとっては今装っている姿が、本来の自分の生まれたときの姿だった。それをなかったことにしたくないのかもしれないし、否定したくないのかもしれない。
「俺にとっては、病院で見た姿が飯塚の本当の姿だ。偽りより、本来の姿を望む方が全うじゃないか?」
「それって見た目が重要ってことじゃないですか」
「それは否定できない。さっき飯塚の目を見た瞬間、理性が飛んで、本能が手に入れろと叫んでるのがわかった」
「俺もあなたがテイカーだということを本当の意味で理解しました」
「でも、そのあとも逃げなかった」
「…···そうですね」
「俺にとってはそれが答えだよ。お前は俺のギフトだ」
先輩をテイカーだと意識したときは、穏やかな犬だと思っていたものが突然オオカミになったようで怖かった。でも、先輩自身に拒否感や嫌悪感はなかった。
捕まる、そう感じたとき、自分がギフトであることを身をもって知った。
「本音をいえば、その姿が隠せなくなる前に、さっさと俺のものになってほしい」
「まだ…···難しいです」
「飯塚自身が、ギフトの自分を受け入れてないんだな」
先輩は独り言のように言うと、綺麗にセットされた前髪をくしゃりとかきあげた。そしてその後は、先程の姿や行動など到底想像できない、いつもの落ち着いた雰囲気の先輩に戻っていた。先輩はおもむろに傍らの紙袋からサンドイッチを取り出すと、「食べるだろ」と言って俺に渡した。何事もなかったかのように、その場の空気が戻っていく。かなり薄まったコーヒーを一口飲んで、サンドイッチを開けようとしたとき、とても大事なことに気づいた。
「あぁ!」
「どうした?」
俺の声に驚いたのか、飲み干したコーヒーを紙袋にしまっていた先輩も顔をあげる。
「俺のファーストキス」
「さっきのが?」
「そうですよ…···」
恋愛経験なし、恋人なしなのは先輩も知っているはずだ。ファーストキスに夢を見ていたわけではないこけど、思い描いていたものとは大分違った。不本意なシチュエーションだったし、初めてのキスにしては可愛らしいものでもなかった。主導権を握られ、完全に一方的だったそれに男として何となくショックを受け、肩を落として項垂れる。そんな俺に先輩がそっと「悪くなかっただろう」と耳打ちした。うるさい黙れと言ってやりたかったけど、先刻の自分の状態を思い出し、言い返すこともできない自分が情けなかった。
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