第22話 ヒロインの帰還

「泣いているの? 呼んでいるよ? 早く行かないと」

「嫌。行かない」

「どうして?」

「みんなわたしを虐めるから」

「じゃあ、わたしがやっつけてあげるよ」

「本当?」

「うん!」



「嘘つき」





「え?」



 目が覚めると自分の状況に混乱した。

 朝日が差して明るくなった天井を眺めて、ころんと横に寝転がるとパパがいた。ママはわたしが眠りにつくと、恐らく結構無理やりわたしをひっぺがしてベッドに寝かしつけていたと思う。パパにはそれができなかったらしい。縋りつくわたしを抱えたまま眠ってしまったようだった。

 時計の針は六時五十分を指している。ひどい脱力感と空腹感。土曜日でも七時に起きて朝食を取るから、マリアンヌがもうじき呼びに来るだろう。わたしはどうしたらいいのか。パパを起こしていいのか、放っておいて身支度を始めていいのか。パパの寝顔を見たのは初めてかもしれない。大人が二人寝ても平気なキングサイズのベッドを使用しているから、パパが隣で寝ても余裕の広さだけど、パパは背広姿のままだから窮屈なんじゃないか。でも、随分深い眠りに落ちているらしく、腕を退けても、上半身を起こしても目を覚まさなかった。


「サラ様、おはようございます」


 ノックの音と同時にマリアンヌの声が聞こえて扉が開いた。「起こすこと」が目的だから、朝は返事がなくとも入室してくる。目が合うとマリアンヌは、


「もう起きていらっしゃったんですね。ご気分は、」


 途中まで言い掛けて言葉を飲んだ。わたしの隣の布団の膨らみに気づいたのだ。


「パパだよ」


 ないと思うけれど不審者と間違われたら困るから先手を打って告げた。マリアンヌはどう思ったのか。あまり慌てもせず驚く様子もなかった。


「あ、失礼しました。朝食の準備ができていますけれど……」

「うん。顔を洗ったら行く。お腹空いたから」


 答えると、マリアンヌは一礼して出て行った。騒がれても困るが、こうもスルーされると戸惑う。家の中の出来事に口を出さないのが一流の侍女なのかもしれない。宰相の屋敷に雇われているのだから、マリアンヌも相当に優れた侍女なのではないか、と今更ながら気づいた。

 ベッドから抜け出して、隣室に設置されているわたし専用の洗面台で顔を洗い、服を着替えても、パパは全く起きる気配がなかった。余程疲れているのだろうか。起こすのも可哀相なので、放置して食堂へ向かった。久々の我が家の朝食だ。サラダ、焼き立てのロールパン、スクランブルエッグ、ソーセージに牛乳とリンゴ。空腹過ぎて食べながらもお腹がぎゅるぎゅる鳴った。生きててよかったレベルに美味しい。本当にむしゃむしゃ擬音が鳴る勢いで食べていると、しばらくして廊下で話し声が聞こえた。それから食堂へパパが入って来た。


「おはようございます」

「……あぁ、おはよう」


 急いで来たのか、わたしがぐちゃぐちゃにした上着は脱いでいるが、シャツとズボンは多分昨日のままで髪もボサボサだ。いつもきっちりした格好だから、見たことのないレアキャラみたいになっている。


「パパも食べる?」

「え、あ、いや……そうだな。珈琲を」

「珈琲? わたしも!」

「お前にはまだ早いだろう」

「飲みたい」

「……じゃあ、ミルクを入れて」


 朝は起き掛けに一杯飲むのが百合子の日常だった。急に飲みたくなった。百合子は甘党だけど珈琲はブラックで飲む。甘い物は固体で食べたいので、飲み物からは無駄なカロリーを摂取したくないと言う理由だ。


「パパも入れるの?」

「いや、私は……」

「同じの!」


 パパは困った表情をしたけれど、それ以上反対することはなくメイドに指示を出した。それから食堂に二人きりになると手持ち無沙汰な様子で、執事が運んできた新聞を熱心に読み始めた。わたしはそれをロールパンを頬張りながら見ていた。 

 前髪あるあるだけど、パパは髪を下ろすとかなり若い感じになる。我が父親ながら男前だ。深い翠色の瞳はわたしと右目だけお揃い。ママとも一緒。わたしだけ左目が金色だ。若干緑がかっているから黄緑に見えなくもない。オッドアイになる原因は何なのか。前世で好きな海外セレブがオッドアイだったけど原因までは調べなかった。こんな目の色じゃなかったら全然違っていたのに。違っていた? 何が? 生まれた時からわたしはこうだ。嫌なら嫌だと面と向かって言えばいい。だというのに、あいつ。全く男らしくない。記憶が戻る前は仲が良かったはず。それとも既に嫌われているのに、わたしが気づかなかっただけなのか。わたしがあまりに纏わりつくから段々鬱陶しくなったのか。


「気分はもういいのか」


 ふいに声が掛かった。向かいに座るパパと目が合う。さっきから視線を下げて新聞を読んでいたけれど、ページを繰る気配はなかった。何かを伺うような眼差しとぎこちない空気。昨日までなら苦痛を感じたと思う。この沈黙に何があるか。わたしはいつも一人で朝食を取るし、パパは部屋で新聞を読む。でも、今日は食堂に二人でいる事実。変わらないものと変わったもの。変えていきたいこと。見誤って見落としてきたことを拾っていきたい。


「うん。いいよ」

「殿下がとても心配している。体調がよければ一度登城するようにと仰せだ」


 出たよ、と思ったけど不思議と不快感はなかった。パパがマールとの結婚をゴリ押しするのは何故か。少なくとも現状ではあっさり宰相を辞任すると宣言するのだから出世の為じゃない。パパには本当にマールが心配しているように見えているのだろう。マールは周囲からの評判は良いいし、パパとも良好な関係だから、娘のわたしの体調を気遣う言葉くらいかけるのは当然だ。


「いつ?」

「お前の都合の良い日を伝えるよう言われている」


 本当かよ。マールは既に公式行事に参加しているから色々スケジュールがあるだろう。わたしはずっと暇なんだけれど。


「わかった」


 答えるとパパは再び新聞に目を落とした。

 もし今マールとの婚約を解消したいと告げたらどうなるのか。一人で悶々と悩むよりてっとり早く解決するんじゃないか。でも言いたくない。婚約解消をしたいと思っていないから。かといって「マールが好きか」と聞かれても素直に頷けない。ただ、言いたくないことは言わなくていいし、言わない。それだけだ。

 りんごにフォークを刺してしゃくしゃく食べる。瑞々しくて酸っぱい。皮が兎型になっている。食事や生活スタイルは日本とさほど変わらない。ここは一体どんな世界なのか。わたしが知らないだけで乙女ゲームや小説の世界だったりするのか。百合子だった時も「ゲームの中の住人」でなかった確証はない。だとしたら、案外ここがリアルであっちが虚構だったりするのかも。どの道与えられた場所で生きていくしかないってことだ。

 最後のりんごに手をつけると、見計らうようにメイドが珈琲を運んできた。香ばしくていい匂いがする。パパには用意しなかったのに、わたしの前にだけミルクと砂糖を並べた。構わずブラックのまま口を付けるが、


「まずい」


 吐き出したいほどの衝撃。顔を顰めて悶えればパパが慌てて席を立った。


「大丈夫」


 咄嗟に答えてカップをソーサーに戻し平静を装う。何これ。苦いし口がいがいがする。確かに珈琲の味なんだけど、何故こんなに不味いのか。わたしの味覚が変になったのか。


「大丈夫ですか? 直ぐにオレンジの果実水をお持ちしますね」


 メイドは慌てて食堂を出て行く。金持ちの我儘娘をやってしまった。飲めると啖呵を切っておいて格好悪すぎる。もう一度試そうとしたら、


「無理して飲まなくていい」

「ごめんなさい」

「それはパパが飲むから」


 パパが自分をパパと言った。変な感じだ。わたしがそう呼ぶからなのだけど。マナーの先生に知られたら怒られる。パパも怒られるだろうか。それはちょっと面白いな、とか下らないことを考えてしまう。


「パパは美味しいの?」

「あぁ、そうだな」

「大人だから?」

「いや……ママも飲まなかった」

「そっか」


 日常会話でパパの口からママと聞いたのはいつ以来か。ママは珈琲が苦手だったのか。確かに飲んでいなかった気がする。時間が経てば忘れる、と言われたことをあんなに嫌悪したのに、悲しくなかった。懐かしくて、ママが近くに戻ってきたような感覚。優しい大人の経験上のアドバイスは大体正しい。受け入れられなくても時間が解決することはある。良くも悪くも嫌でも好んでも。


「ママはマドレーヌが好きだったね」

「あぁ……マドレーヌが好きだったな」


 パパは何故か笑った。笑いのツボがよくわからない。


「わたしが好きなのはなんだと思う?」

「クグロフだ」

「当たり」


 知っていたのか。知らなかった。へへっと笑いが漏れる。一番好きなのはオレンジとチョコのクグロフ。王室特製レシピのやつ。王妃教育の後、よく出して貰う。


「……マール様の所に行くのいつでもいいよ」

「そうか。殿下に伝えておく」


 光沢のある高級そうな花柄のカップに口を付けてパパは頷いた。

 マール様。マール。マール・グラン。理不尽なことだらけの前前世の記憶がのし掛かり、マールに対してどんな感情を抱いているのか自分で理解できていない。でも、焦って決めつけるのはやめよう。じっくり見極めたらいいんだ。サラちゃんとわたしは違うのだから。





 出来る男は仕事が早い。

 パパは朝食の後、直ぐに王宮に遣いをだしたのだろう。マールとのランチ会食は翌日に決まった。いつでもよいと言ったし王宮とは馬車で十分の距離なのだけど、これは流石に如何なものか。


「殿下はお前のことをずっと気に掛けておられたからな」


 パパは極自然な成り行きだと言わんばかりに告げた。ふうん、という感想だ。でも、反発心も抱かなかった。わたしは約束通り、翌日の昼にパパと一緒に王宮へ出掛けた。

 王宮は正門を潜るとどんっと国会議事堂があって、それを囲んで東西南北に為政者の執務舎が建っている。その奥には、巨大な噴水が設置された中庭があり、更に進めば王族達の居城となっている。陛下と王妃様が暮らすルビー宮、マールが居住するサファイア宮、その他七つの宮がある。側妃がいたり子沢山だったりした先代王達の名残りらしい。昔、マールに案内されて何日も掛けて探検したことがある。

 パパも一緒に来たから会食へ参加するのかと思いきや、わたしを送りに来ただけらしい。


「仕事があるから」


 日曜日だけどヒュー公爵あるあるなんで黙って別れた。パパとマールとわたしが三人揃うことは滅多にない。マールがいるとパパは姿を消す気がする。娘とその婚約者の間に入ってぺらぺらしゃべるタイプではないから、自然な流れとも言えるが。

 いつものサロンへ行くように言われていたので、誰に案内されるわけでもなく一人で勝手に向かった。王城なのにフリーダムすぎるが、要所、要所に護衛はいる。

 サファイア宮のマールのプライベートサロンの前まで行くと執事のルーク・エドガーが柔らかな笑顔で迎えてくれた。王室に仕える執事の中で一番若い。金髪に青い瞳で強烈な印象は受けないのに、何処かで会ったことのあるような錯覚を覚える。親戚のお兄さんにいそうな感じの人だ。


「サラ様、お久しぶりですね。ご体調はもうよろしいのですか?」

「うん、もう大丈夫。有難う」


 視線が合うとルークの唇は軽く開いた後、一瞬閉じてから、


「それは何よりです」


 と動いた。何か言い淀んで見えた。ルークはいつも紳士的な態度だけど、完全にマールの味方だから、前前世のサラちゃんはあまり関わらないようにしていた。何を言いかけたのか。王妃教育を休止して突然田舎に帰ったことへの苦言? 執事の立場で公爵令嬢にそんなことを言うわけないか。ルークは軽率に不必要な発言はしない性格のはず。知らんけど。


「殿下がお待ちですよ」


 疑問を解消する前に安定の微笑みで扉を開けられ中へ通されたので素直に従った。

 いつものサロンだ。ガラス張りの壁一面から陽光が差し込んでかなり明るい。広い部屋の真ん中にぽつんとティーテーブル、隅にはふかふかクッションの応接セットが置かれているだけ。マールは華美な装飾は好まない。


「久しぶりだな。もう大丈夫なのか」

「はい」


 特に座れとも言われないが、勝手に向かいの椅子に腰を下ろす。いつもの行動。マールは黙って見ていた。


「領地での生活はどうだった?」

「楽しかった」

「何がだ?」

「全部」

「倒れるまで外で遊んだら駄目だろ」


 赤い瞳が正面から不躾にジロジロ見てくる。ギョロギョロした大きな目ではなく切長で鋭い。鼻筋が通り、唇も形が良く、歯並びも美しい。身長も高いし、所作も洗練されている。マールが醜男だったら、サラちゃんはやっかまれることはなかった。尤も女子からの嫌がらせがなくなるだけで、マール自身から受ける仕打ちは変わらないだろうけど。やっぱり今回も冷遇されるのだろうか。まだ起こっていないことに腹を立てるのはやめよう。


「わかってる」

「わかっていないから倒れたんだ。去年も庭ではしゃいで、ふわふわしていただろう」


 そうだったか。覚えていない。ふわふわってどんな状態だ。


「気をつける」

「……まぁ、いい。今日はエメラルド宮で昼食を取ることにした。紹介したい令嬢がいる」


 マールはさらりと言ったが、わたしはズンっと重く沈んだ。

 エメラルド宮は来賓用の宮だ。ロイヤルガーデンから一番近く王家主催のお茶会は必ずあの宮が使われる。いつもはこのサロンで食べるのに、わざわざそんな場所を用意するなんて、誰に会わせようとしているのか否応なしに理解できた。

 帰って来たのだ。天真爛漫、賢く、可愛く、マールのお気に入り、みんなの人気者。

 エリィ・クローウェル伯爵令嬢のご帰還だ。

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