第21話 匂い

 熱が下がって完全に回復するまで丸二日掛かった。

 ずっと寝ている間に、ママのことをいろいろ思い出した。まるで封印が解けたみたいな不思議な感覚だった。そしてパパのことを考えて、わたしの気持ちは上がったり下がったり目まぐるしく動いた。時間が経過するほど取り返しがつかなくなる気がしたし、今更焦っても仕方ないとも思った。相反する気持ちが交互に重なっていった。おばあ様もマリアンヌも、パパは怒っていないと言うけれど、絶対的に気まずいのは確かだ。考えあぐねる悶々とした時間が経過し、


「もう大丈夫そうですね」


 と、木曜日に医者から帰宅の許可が下りた。それから、土曜日に帰る案が出たけれど、わたしは金曜日中に帰りたいと告げた。毎週末にパパが来てくれていた。でも、今週は来てくれないだろう。そこへ自ら帰る状況を作るのは精神的にきつい。ダメージを追う前にこちらから仕掛ける。攻撃は最大の防御なり。わたしは何と戦っているのか。

 そんなやり取りをしている中、ユリウス伯爵がお見舞いに来てくれた。

 わたしが倒れた後、病院に連れて行ってくれたのはジオルド男爵だったらしい。ホスト役のユリウス伯爵は、屋敷に留まりできるだけ事態を大事にしないように対処してくれたそうだ。そして、その夜、パパがお詫びに行ったことも教えてもらった。時系列的に考えておばあ様の屋敷を出てから向かったのだろう。きっと前のわたしなら「外面はいいからな」と思ったんじゃないか。


「オーランドがちゃんと父親をやっているんだから、僕も歳をとるわけですね」


 ユリウス伯爵がおばあ様に陽気に話す様子をベッドの中で見ていた。ちゃんとした父親とは一体何か。その言葉が妙に頭に残った。

 ユリウス伯爵が帰ると、ジオルド男爵の元へお礼に行きたいと頼んだ。ノエルにも会っておきたかった。けれど、その日は大事をとって安静にするように言われ、明日、帰宅前にジオルド邸へ訪れる段取りになった。






「サラちゃん、またいつでも遊びにいらっしゃい」

「うん。おばあ様も遊びにきてね」


 おばあ様との別れはあっさりしたものだった。前前世では領地に行くことは敷居が高くて考えられなかったけれど、パパが毎週来るくらいなのだから本当にいつでも来れる気がしていた。

 ガタゴト馬車が行く。わたしの足で歩くと十分掛かる道を半分の時間でジオルド邸へ到着した。

 使用人が丁度門扉の前にいて、声を掛けると一旦屋敷へ入りすぐに案内に来た。マリアンヌを馬車に残したまま一人で中へ入った。生憎ジオルド男爵は不在らしい。


「顔色が白いけど、それ元からのやつだよね?」


 通された部屋で向かい合ったソファに座ると、ノエルは本気か冗談か、わたしの顔を真っ直ぐに見て言った。


「軟弱な貴族令嬢なもんで」


 答えると、どうやら本気の心配だったらしくノエルは肩をすくめた。


「ヒュー公爵からお礼状と菓子折りが届いたよ。うちの父が恐縮していた」

「そうなんだ。うちのパパとジオルド男爵って面識あるの?」

「メアリー夫人の葬儀のときに挨拶したみたいだけど」

「そっか。ジオルド男爵、わざわざ王都まで来てくれたんだね」


 なんだかジーンとしてしまう。百合子やサラちゃんの葬式はどうだったろうか。二時間かけて来てくれる友達なんていたかな、とふいに思った。


「わたし、今日、帰ることになったから。ジオルド男爵様に直接お礼言いたかったかったのだけど、宜しく伝えておいてね」

「……帰ることにしたんだ。確かにここにいても仕方ないもんな」


 身も蓋もない言い方でノエルは言う。自分のことと前前世の出来事に夢中で、今のノエル自身についてあまり考えたことはなった。わたしと同じくらいの体格で小柄。前の時に小さい印象はないから恐らくこれから伸びるのだろうけれど。柔らかい物言いの割に辛辣で、結構遠慮なく話をするタイプだよな、と改めて思った。八歳の男の子ってみんなこんな感じだろうか。周囲に同年代の人間はマールしかいない。マールは王太子で特殊だからサンプルにならない。百合子の友達に小学生の男児の母親がいた。筆箱にザリガニの爪をいれて喜んでいる話を聞いたことがある。よくポケットに得体のしれない物を隠していているから洗濯する時、勇気がいる話も。アホすぎて困る。単純で周囲のことが見えていないから危なっかしい、と愚痴っていた。ノエルはそんなタイプには思えない。大体、四十歳の記憶持ちのわたしと対等に話すのだから賢いのだと思う。でも、わたしの奇怪な状態をすんなり受け入れたこと自体が子供所以であるようにも感じた。戦隊ヒーローにも食いついていたし、自分で小説を書いているくらいだから想像力が豊かなんだろう。そこへ、ラノベの主人公設定のわたしが登場すれば、興味を持つのは必須。百合子の記憶に飲まれて百合子になったつもりでいたわたしが言うのもなんだが、現実とアニメの世界をごっちゃにするのは子供あるあるではないか。信じる信じないより、信じた方が面白い、と思考が流れておかしくない。実際、ノエルがどう考えているかなんてわからないけれど。でも、


「色々わかったのはノエルのおかげだから、有難うって言っておこうと思って」


 わたしは感謝しているし、それに友達だと思っている。


「別に、思ったことを言っただけだよ」

「うん。ずばっと言ってくれる友達って大事だよね。わたし、そういうのなかったから、今回はちゃんとその辺もやり直そうと思って」

「は?」

「折角、友達になったんだから」


 ノエルが口を付けていたティーカップを放して不思議な物を見るような視線を投げてくる。そんな変なことは言っていないだろう。サラちゃんには友達なんていなかったし、百合子も友人関係は気薄だったから、さっきの葬式の話を聞いてちょっと思ってしまっただけだ。そして、わたしは今希望に満ち溢れているので願望は素直に口にする。


「何よ? 友達でしょ? 手紙書くね」

「……あぁ、うん」


 ノエルは小さく返事をした。微妙な空気。協力してくれる言質はとっている。手助けはしても友達じゃない? まさかそんなつれない話ある? じっと見つめていると、


「じゃあさ、あれしようよ。血の誓い。父さんとメアリー夫人はそうやって友情を誓ったらしいよ」


 悪戯を思いついたようにノエルは言いだした。ママとジオルド男爵はかつてママが領地を離れて王都へ帰る際に、冒険小説の少年団の誓いを真似て約束を交わしたらしい。お互いピンチの時には絶対に助けに行くというもので、書面に誓約を書いて血判を押して燃やすという。わたしもノエルも痛いのは嫌なので朱肉を使い、火遊びは禁止なので、後でこっそり台所のオーブンに入れてノエルが燃やすことになった。ママとジオルド男爵は、きっと本当に血判を押して火も自分達で用意したと思う。わたしもノエルも軟弱な今時の子なのが笑えた。

 それから、ノエルと別れてしばらくは明るい気持ちでいた。

 馬車に揺られて三時間の帰路を行く。

 随分ゆっくりしてしまったから、屋敷についたのは夕方で、陽が落ちるのと共に再びわたしの心も暗く沈んだ。パパはまだ帰宅していなくて若干ほっとした。帰ってくるのは深夜だろう。対面するのは恐らく明日になる。


「サラ様、お疲れでしょう。まだ万全な体調ではありませんから、夕飯の時間までベッドに横になられてください」


 マリアンヌに促されベッドに入った。でも、わたしは思うより疲れていたらしく夕食に起こされても、


「お腹空いていないからいい」


 と爆睡し続けた。





 九時に就寝、七時に起床、と規則正しい生活をしている。八歳児だからなのか物凄くよく眠れて、一度寝ると朝まで起きない。しかし、今日は夕方に眠ったので流石に夜中に目が覚めた。お腹が空いたのもある。真っ暗闇の中、どうしようかしばらく考えていた。電気は通っていない。暗闇すぎると物騒なので廊下に出ればフロアランプはついている。部屋から抜け出して台所へ向かうことは簡単だけれど、食べ物なんてあるのか。冷蔵庫がないからその日作った食事は食べきるのが基本だ。まさかマリアンヌを起こすわけにはいかない。やっぱり朝まで我慢するしかない。パパはもう帰ってきているのだろうか。朝ご飯の心配をしている場合じゃなかった。空腹で寒くて眠いと死にたくなると誰かが言っていた。空腹以外は該当しないので、全く死にたい気分じゃない。きっと明日も平気だ。朝ご飯を食べたら万全。パパと仲直りできる。大丈夫。そんなことを考えながら目を瞑る。


 ガチャリ。


 え? 

 ノックもなくドアが開く音がして誰かが室内に入ってくるのがわかった。マリアンヌが様子を見に来てくれたのか。起き上がってお腹が空いたと言おうか。ベッドの足元に目をやる。ランプの薄灯に浮かび上がる顔に心臓がどくん、と強く反応した。


――パパ


 咄嗟に目を堅く閉じた。

 どうしよう。多分このまま寝たふりをすればバレない。規則正しく呼吸を整える。ランプの光源がゆっくり近づいてきて途中で止まった。カタン、と音がする。多分、灯でわたしが起きないようにランプを床の上に置いたのだ。光の位置が低くなって、さっきより暗くなった。人の気配だけが近づいてベッドサイドで止まる。布団を整えるわけでもなく、頭を撫でてくれるわけでもなく、声を掛けてくるわけでもなかった。時間の枠外に飛ばされたような、短いのか長いのかわからない時が流れる。緊張で息が乱れそうになるのを必死で保っていると、パパはベッドの傍を離れた。ほっとした。これで明日の朝まで執行猶予がつく。執行猶予? わたしは何を考えているのか。先手を打つのではなかったか。また弱虫の愚図がでる。言い訳ばっかりしてだから駄目なんだって。


「……っパパ!」


 起き上がった勢いのまま声を発するとビクッと影が揺れた。驚かすつもりは毛頭ない。普段のパパらしからぬ動きに、不穏に渦巻くわたしの感情に一瞬息継ぎするみたいな隙間ができた。


「……すまない。起こしてしまったか」


 でも、いつもの冷静な声に、あっと言う間に空間が埋まる。濃霧のようは不安が身体中に立ち込めていく。


「気分はどうだ?」

「ごめんなさい」

「約束を破ったのは私だ。謝る必要はない」

「……ごめんなさい」

「だから、謝らなくていい」

「……違う」

「ん?」

「ママが死んだとき……」


 ママ、と口にした瞬間ぶわっと頬が上気して瞳が潤んだ。パパの動きが止まる。わたしはこの数日ずっと考えていたけれど、ママに関することはパパにとっては寝耳に水の話ではないか。四年も前のこと。終わったこと。パパの中では消化できているんじゃないか。謝りたいのはわたしの罪悪感を消す為じゃないか。パパはわたしをどう思っているのか。本当にわからない。本当に。だって、もうずっと会話らしい会話なんてしていない。何不自由ない暮らし、最高峰の教育、誕生日には欲しいものを買ってもらえる。オーランド・ヒュー公爵は誰がどう見てもちゃんとした父親。わたしの望むパパではないだけ。でもそれは自業自得だから仕方ない。縋りついて拒絶されたら耐えられない。白黒つけない曖昧な世界で、もしかしたらいつかまた昔みたいに戻れるのではないか、ときっかけを待ちわびている方が楽。だからずっと逃げ続けてきた。


「ママのことでもお前が謝ることなどない。悪いのは私だ」

「なんで? パパは何も悪くない。わたしがひどいことを言ったの。わたしが悪い」


 本当に悪かったと思っている。酷いことを言った。この間のことも、ママのことも。わかっていたのに。全部わかっていた。ママが戻らないことも、パパに頼んだってどうしようもないことも、全部、全部、わかっていた。それでもわたしは言った。ママに会いたい、ママは何処にいるのかって、しつこく食い下がってパパを困らせて、パパの愛情が何処までかを試した。ママがいなくなって、パパだけになって、なのにパパはあまり家にいなくて悲しかったし腹が立った。ママのようにしてよってムカついていた。パパとママは全然違うのに、わたしはパパにママと全く同じことを求めた。


「だったら、もう気にしなくていい」

「……怒っていないの?」

「怒ってなどいない」


 じゃあ、なんで? 怒ってなくても許していない。たとえ家族でも縁を絶つことがある。「兄とは高校時代から口を利いていない」「あいつの連絡先も知らないし、結婚式にも呼ばなかった」そんなことが往々に起こることを知っている。因果応報。わたしはそれだけのことをした。子供だからって許されない。無邪気さを装って余計に質が悪い。とんでもない化け物。それでも許されたい。許して欲しい。


「パパは、もう……パパをやめちゃったの?」


 反応が返らない。わたしの言葉だけがむなしく空中に漂う。どうしよう。どうすれば? 怒っていない人に、許してもらう方法は? 謝らなくていいという人に、わたしは何と言ったらいい? わたしは、パパを傷つけたかったわけじゃなかった。誓っていい。絶対に違う。無茶苦茶言って困らせたら、もっとパパが構ってくれるって思った。自分のことばかりで、それがどんなに愚かなことか、酷いことか、パパが泣いているのを見て気づいた。でも遅かった。謝ったけど、謝らなくていいって言われて、どうしたらいいのかわからなくなった。今と同じ。また同じだ。パパに嫌われた。もう駄目だ。だから黙り込んだ。毎朝、毎朝、出掛けていく後ろ姿を見ていた。もう一度謝ろう、声を掛けよう、と思って言えなかった。勇気がなかった。傷つきたくなかった。いつかわたしの本心に気づいてくれる。心を入れ替えて真面目ないい子になれば、いつかパパは許してくれる。そうやって時が流れて、結局どうなったか……。

 パパの輪郭をランプのほの暗い明かりが照らし出している。目を凝らしても顔が見えない。すぐそこにいるパパの何にもわからない。しんとした部屋にしゅんしゅん鼻をすする音が小さく鳴っている。


「……誰かに何か言われたのか?」


 しばらくの間をおいて、様子を伺うような声がした。なんでそんなことを聞いてくるのかわからなかった。誰も何も言うはずはない。わたしの悪行は誰も知らない。マールにすら「パパにひどいことを言った」としか話していない。わたしが、どんなに卑怯で暴悪か。それなのに、なんでそんなこと……。


「誰に何を言われたんだ? お前は何も悪くないし、私は怒っていない。お前に何か言う人間がいるなら、」

「違う」

「じゃあ、急にどうしたんだ?」

「だから……」


 喉が詰まった。パパは本当にわたしが悪くないと思っているのだろうか。母親を亡くした幼い娘が寂しくて、死んだことの意味がわからなくて、ママに会いたいと言ったと思っている? わたしはそんなんじゃないのに。じゃあ、もし、本当のことを知ったらどうなるのだろうか。息が上がる。手が震える。でも、


「だから、本当にわたしが悪いの! パパに酷いこと言ったのは全部わざとなの! ママが死んでもう会えないって分かっていたのに、会いたい会いたいってわざと言ったの! ママともっと一緒にいたかったのに、いっぱいお願いしたのに、ママが死んじゃって、悲しくて、なんでわたしばっかりって思ったの! わたしだけが世界で一番可哀相って思ったの! みんな狡いって思ったの! 神様がママを取って行ったんだから、わたしは何をしても許されるって思ったの! だからわざと困らせることを言ったの! パパを試したの! 嫌だったの! 全部嫌だった。パパなら言っててもいいって思った。それで、それで、パパが泣いていたから……怖くなって、悪かったって、思って……ママのこと言っちゃいけないって思って……それなのに、パパはわたしが悪くないって……わたしが悪いのに……パパに謝らなくていいって……言われたら悲しい気持ちになるの……突き放されたって思うの。わたしのこともう要らないんだって。寂しくなるの、寂しい……嫌だ、嫌だよぉ……ごめんなさい。ごめんなさいぃぃぃ。うわぁぁぁぁぁん」


 猛然と感情の洪水が荒れ狂って押し寄せた。謝る人間の態度じゃない。それでも息をするのももどかしいくらい泣き叫び続けると、ずんっとベッドが沈んだ。何事かと一瞬涙が止まった。黒い影が近づいてくる。身体が強張った。ぶたれる。殴られる。でも伸ばされた大きな手は頼りなく、わたしの存在を確かめるようにそっと触れ、両腕が背中に回って引き寄せられた。ぎゅっと包まれた瞬間、ぐらりと世界が揺らいで、


「ごめんな、サラ」

「うあぁぁぁぁん」


 再び盛大に咽び泣いた。優しくされると余計に甘えるわたしの悪癖。深夜に迷惑なわたしの泣き声がパパの胸に埋もれていく。全部を吐き出すように号泣した。縋りついて喚くほど腕の力が強まった。ぎゅーと抱きしめてくれたママを思い出す。懐かしい。もしかしたらわたしはずっとこうしたかったんじゃないか。昔は簡単にできたこと。

 パパの肌触りの良い高級な一張羅はわたしの涙と鼻水だらけだ。確かな温もりが伝わってたぷたぷした柔らかな気持ちが溢れてくる。どの道ぐちゃぐちゃだしもういいだろう、と更にジャケットに擦りついて涙を拭った。鼻をじゅるじゅる鳴らし深く息を吸うと、パパの匂いがした。整髪料の匂いだ。仕事の時はいつもオールバックにしているから。つん、としたあまり好きじゃない匂い。そうだ。久しぶりに嗅いだら思い出した。だからわたしは休みの日にだけ進んでパパにくっついていったんだ。「パパがお休みだから甘えているのねぇ」ってママは笑ったけど、特にそんなつもりはなかった。髪を下ろしていて嫌な匂いがしないからだ。「休みの日のパパが好きなの」と幼心に気を遣って答えた。わたしは昔からパパに辛辣だったかもしれない。あの時、パパはなんて言ったっけ。


「今の仕事が片付いたら辞職する」


 あまりにタイミングよく頭上から降ってきた答え。そうそうそれな、と泣きくたびれた酸素不足の頭でぼんやり聞いていたけれど、


「領地で暮らしたいならそうするか? すぐには無理だが二年のうちにどうにかする」


 更に続けられた言葉で現実に引き戻された。言葉の意味を咀嚼する。仕事を辞める? 領地で暮らす? 宰相なのに? なんで? 驚きすぎて涙も鼻水も引っ込んだ。何言ってるのこの人。そんな馬鹿な。極端すぎるだろ。テレビに突っ込むみたいに思った。でも、パパは冗談なんて言わない。二年なんてリアルな数字提示までしている。本気なんだ。前の時もそうだった。ちょっとわたしが言っただけの言葉に反応して辞職するなんて言うから、ママが呆れて必死で止めたんだ。「ヒュー公爵は出世にしか興味がない権力の権化」なんて言ったのは誰だ。顔も知らないどっかの馬鹿。地獄へ落ちて舌を抜かれろ。けど、信じたわたしはもっと大馬鹿。パパはそんなんじゃないって、ずっと知っていたのに。


「辞めたらダメだよ」

「だが、」

「ダメ!」

「……」


 別に四六時中一緒にいて欲しいわけじゃない。もうそこまで幼くない。わたしは田舎より王都が好きだし不便なのも嫌だ。生活レベルも下げたくない。そんなことを冷静に考えてしまう打算的な糞ガキ。でも一番の理由は、


「パパは政治家になることが夢だったんでしょ?」


 ママに聞いたことがある。パパは若い時から一生懸命勉強して夢を叶えた偉い人だって。けれど、わたしはそれをあまり信じていなかった。家にいる時のパパは、ママの言うことに従うばっかりで、全然立派な感じではなかった。でも、マールに議会の様子を覗ける隠し部屋に連れて行ってもらって見たのだ。ざわざわした大人達がパパの発言にしんとなって黙り込んだ。大勢の人達の前で堂々と演説していた。パパって凄いんだって、ママの言う通りだって思った。とても誇らしかったんだ。


「お仕事しているパパはカッコいいから、辞めたらダメ」

「……そうか」


 パパは小さく答えたけど、わたしがぎゅっと抱きつくと頭上でふっと笑ったのがわかった。それでわたしも嬉しくなった。単純だ。わたしもパパも。これまでわたしは何をしていたのか。人生の半分。一分にも満たない言葉を伝えるために四年掛かった。でも簡単なことじゃなかった。


「パパ」

「ん?」


 どさくさに紛れて、大好き、とか、愛してる、とか言おうと思ったけれど止めた。なんだか違う気がした。代わりにもう一度、湿っぽいスーツにぎゅーと抱きつく。同じ分だけぎゅーっと返った。わたしはこれがいい。ポマードの嫌いな匂い。パパの匂い。ママに似た温かい匂い。へへっと涙が渇いてぱりぱりした顔が綻ぶ。パパはずっとパパだったんだ。よかった。勇気を出してよかった。サラ・ヒューに生まれてよかった。よかった。よかった。記憶が戻って初めて思った。サラちゃんは、どうして独りぼっちで生きてしまったの? 人の人生を憐れむのは失礼だって気取った誰かは言うけれど、どれくらい寂しいかわかるから思ってしまう。ネタバレしながら生きているわたしはきっと狡い。だからサラちゃんにも教えてあげたい。怖くても、頑張れって。前前世のパパが今のパパと同じかどうかはわからないけれど、自分から動けば何かが変わるかもしれないって。あぁ、わたしも絶対に頑張ろう。まだまだ憂慮すべきことは山積みだ。マールのこと。エリィのこと。地獄の学園生活。それから、結婚。取り敢えず今はお腹が空いている。でも、一ミリも動きたくない。幸せの真ん中にいる。そんなことをつらつら考えていると、やがて瞼が重くて開けていられなくなった。

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