第20話 変わったのは
世界中の不幸がわたしを目掛けて襲ってきた。それくらいの絶望。
白い服を着た白い顔のママが寝息を立てずに木の箱の中で眠っている。
「ママは死んだんだ」
「もう起きないんだ」
「お別れを言いなさい」
パパの言葉は細い針みたいにわたしに刺さった。最初は何も感じなくて、次にチクチク痛みがきて、だんだんヒリヒリして、無理やり引き抜いたら血が流れた。痛くて痛くて、ただ泣いた。知らない。知らない。そんなことは何も知らない。
「可哀相に」
「まだこんなに小さいのに」
「メアリージュンも心残りだったでしょう」
口々に聞こえる声も、憐憫の眼差しも、物凄く腹が立った。
なにが? わたしはちっとも可哀相なんかじゃない。いい子にしていれば、ママは帰ってくる。そしたらまた一緒に本を読んだり、お飯事したり、頭に綺麗なリボンを結んでもらって、マール様のところにもお出かけしなくちゃ。でも、あんまりマール様のことを言うと、パパが焼きもちを焼くんだって。そういう時は、パパに好き好きしてあげないといけない。わたしはとても忙しい。それなのに、それなのに、それなのに。みんな何を言っているのだろう。わたしは平気だって、教えてあげなくちゃ。
「サラちゃんがいい子にしていたら、ママは元気になって帰って来るって約束したの」
だけど、言えば言うほどみんなは一層わたしに悲しい目を向ける。
なんで?
だから、わけのわからない他所の人達には何も言わないことにした。ちゃんとわかってくれるパパにだけ言った。
「パパ! ママは何処にいるの?」
「ねぇ! パパがお休みになったらお見舞いに行こう!」
だけども、パパは忙しいからなかなかママの所へ連れて行ってくれない。パパは凄くて、何でもできて、みんなの為に忙しく働いているから仕方ない。わたしはパパがお願いを聞いてくれる自分の順番がくるのを待った。パパが忘れないように毎日言った。
「パパ、ママに会いたい。お願いお願い! サラちゃんいい子で待っているから!」
「ママはもう死んだんだ。泣いても帰ってこない。サラにはパパがいるだろう」
でも、パパまで意味不明なことを言うから、わたしは本当に頭にきた。
「そんなの嫌! ママがいい! パパは嫌! あっち行けー! ママぁぁ!」
パパの顔が歪んだ。とても怖い顔をした。胸がもやもやして背中に嫌な汗が流れた。でも、パパは何も言わなかったし、わたしも謝らなかった。だって、だって、だって……。わたしは悲しくて辛かった。ママに会いたかった。パパは大人で偉くて凄いけどわたしは違う。わたしは小さくて弱いから、強いパパには何を言ってもいいんだって思った。でも、その日は、パパが仕事に行ってからも、一日嫌な気持ちだった。胸に黒い霧がかかったみたいだった。気持ちが悪くてベッドに入ったままでいた。ずっとそうしていたから、夜中になっても眠れなかった。そんなことは初めてで、真っ暗な部屋でぼんやり天井を見ていた。しばらくすると目が慣れて、またパパのことを考えた。パパはもう帰ってきているのか。気になって部屋を抜け出した。一階の突き当たりがパパの書斎。最初は寝室に行こうかと思ったけれど書斎の少し開いたドアの隙間から薄っすら明かりが見えた。わたしは静かに静かに傍まで行った。本当は中に入って行きたかったけれど、今朝のことを思い出して勇気が出なかった。ドアの隙間から中の様子を窺う。パパの姿は見えなかった。だけれど聞こえた。
「メアリー……」
弱々しい声。聞いたこともない悲しい声。泣いているのだと思った。パパが泣いている。泣いている? パパが? なんで? 喉がヒュッと鳴った。周りから空気がなくなったみたいに息ができない。嫌だ。思った瞬間、わたしは逃げた。口を押えて、声を殺して、足音を立てないように、暗闇の部屋へ逃げ帰った。怖かった。ただ怖かった。だって、パパが泣いている。わたしのせいだ。わたしがひどいことを言ったから。わたしだけが悲しくて、わたしだけが辛くて、わたしだけが不幸だと思っていた。可哀相なんかじゃないって否定しながら、本心では可哀相だと思っていた。だって本当は知っていた。ママがもう帰って来ないこと。そうだ。わたしは知っていたのだ。ママが何度も教えてくれたから。
多分、きっとママは自分が死ぬことを予期していたのだろう。だから、無理を押してわたしの傍にいてくれた。ママが検査入院から帰って、王宮に通い始めて、前よりずっとわたしと一緒の時間を過ごしてくれた。あの蜜月の日々はわたしの為にママが用意してくれたのだ。そして、ママは沢山の絵本を読んでくれた。毎回違うお話の中、一つだけ同じ物語があった。死んだ娘が心配で天国へ行けないママの話。
「ナタリーちゃんが泣いていると、心配でママが天国へ行けないの。だから、ナタリーちゃんはパパと仲良く元気に暮らしていかないと。ママはお星さまになってナタリーちゃんが笑うをのずっと見ているからね。わかった?」
「嫌。ナタリーちゃんとママとパパがいいの。このお話は嫌い」
わかった、わかったが口癖のわたしは、わかったとは言わなかった。ママはとても困った顔で、だけど繰り返し繰り返しその話を読んだ。露骨に話を逸らしても逃がしてくれなかった。悲しい気持ちになって、ぽろぽろ涙がこぼれた。するとママは必ず黙ってわたしをぎゅーと抱きしめる。首筋から暖かい匂いがした。あの絵本は嫌いだったけれど、その瞬間は好きだった。わたしは抱きしめられたままいつも眠りに落ちた。ナタリーちゃんはどうなったか。最後のページが頭に浮かぶ。パパに抱き上げられて夜空を見上げている場面。星になったママが優しく微笑んでいる。でも、わたしは違う。パパにひどいことを言って傷つけた。ママがいなくなって、パパにも嫌われた。何もかも失った。どうしたらいいのか。なんて言えばいいの? ママは死んだのに会いたいって言ってごめんなさい? そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。ママは帰ってくる。でも、ママのことをパパにいったら駄目だ。どうすれば? そうだ。全部なかったことにしよう。わたしはその夜からママのことは話さなくなった。
「大きくなればわかりますよ。時間が解決して忘れさせてくれます」
執事や侍女長がパパにそんなことを言うのを何回か聞いた。わたしはその言葉にもムカついていた。だって忘れるわけがない。いつまでもずっと覚えていて、いつまでも悲しい。わたしは、ママのことを誰にも言わないことにしてから、胸の中に段々何かが溜まっていくのを感じた。だけどそれも誰にも話せなかった。パパが出掛けると、ママが使っていたクローゼットの中に入る。沢山掛けられたドレスからママの匂いがしたから。でも、ぎゅっと抱え込んでも日に日に匂いが薄れていく。そしてわたしの目からも涙が溢れなくなった。ママのことを考えるとじんわり瞳は滲むけれど、息ができないほど泣きじゃくることはなくなった。悲しいのに、寂しいのに、少しずつ少しずつ、ママのいないことが当たり前になっていく。みんなの言うように、大きくなったらママのことを忘れてしまうんじゃないか。それが堪らなく嫌で恐怖だった。忘れないように、ママの絵を何枚も書いた。ママが好きなピンクのドレスを着て笑っている絵。でも、わたしの絵は下手くそでちっとも似ていなかった。詳細に描こうとするほど、どんどんかけ離れていく。ママが遠くなる。そうなるとまた何もかも忘れたくなってママのクローゼットに引き籠る。暗くて狭くて、昼とも夜ともわからない空間でうとうと眠りに落ちる。
その日も午後になると寂しくなってクローゼットの中にいた。瞼がくっつく直前、
コンコンコンコン。
予期せぬドアのノック音が聞こえた。わたしはこっそりママの部屋に入っているつもりでいたけれど、多分パパに報告は上がっていた。ママの部屋にはわたし以外入室禁止になっていたのではないか。これまで掃除がされることも誰かが入って来ることもなかった。
返事をしなかったのにガチャリとドアが開く音がして、急いでクローゼットを出た。こんな所へ入り込んでいると知られれば流石に咎められると思った。急いで這い出した所で、室内へ入ってきた赤い双眼と目が合った。
「何をしている?」
驚いた様子も怪訝に眉根をよせることもなく、いつも通りの真面目な表情でマールが立っている。わたしは大事な忘れ物を見つけたような気持ちになった。夢中でパタパタ傍に駆け寄ったけれど、言葉は何もでなかった。
「クローゼットに入っていたのか?」
わたしの背後に視線を向けてマールは言った。
「あ」
開けっ放しのクロークの扉に、はっとなったけれど、
「髪がばさばさだ」
マールはどうということもなくわたしの髪を整えるように頭を撫でた。
「サラちゃんの髪はパパに似て猫毛ね」
そういって毎日髪にリボンを結んでくれたママが浮かんだ。今朝も侍女が髪を梳いてくれたのに何故このタイミングで思い出したのか。無意識に誰かが傍にいる時、ママのことを考えないようにしていたのだ。自覚して悲しくなった。
「ここはメアリージュン夫人の部屋なんだな」
メアリージュン。久々に聞いた。ぐっと奥歯を噛みしめる。
「悲しいのだろう? 何を我慢しているんだ?」
マールが「朝なのに何故寝ているんだ?」と聞くように尋ねる。喜怒哀楽のどれでもないような感情が遠くから迫り上がってきた。じっとマールを見る。
「誰かに何か言われたのか? 対処法を考えるから言ってみろ」
「……」
なんと言えばいいのかわからなかった。ママがいなくて悲しかった。パパにひどいことを言った。でもそれをマールに知られたくなかった。怒られたくなかった。嫌われたくなかった。じんわり視界が滲んでいく。握りしめた掌が熱くて、自分の輪郭が浮き出して世界から剥がれて落ちそうな感覚。
「笑わないとママが天国に行けないから我慢しているのか? あれは絵本だろう。大体、ママはお前がちゃんと笑えるまで待っていてくれる。そういう人だろう?」
マールの顔がぼやけて見えない。全然そんなことは考えていなかった。だってわたしはママがいなくなったことを「ママが悪い」と何処かで思っていた。いなくならないでってお願いしたのに。あの本は嫌いだって何度も言ったのに。ママが悪い。だから、知らない。関係ない。天国に行けなくても知らないって怒っていた。なんて悪い子なんだろう。あぁ、そうか。いい子じゃないから、ママは帰って来なかった。わたしのせいか。全部わたしのせいなんだ。わたしが悪い。わたしが、
「……ごめんなさい」
「何がだ」
「悪い子だから」
「ママは病気だった。お前が悪い子なのは関係ない」
マールが淡々と言う。
慰めているとか、憐れんでいるとかの雰囲気はなかった。いつもみたいにわたしの知らない世の中の理を教えてくれるみたいに告げる。お前は悪い子じゃない、と言わないことにも納得できた。瞳に溜まった涙がぽろりと流れるとふいにマールの顔がクリアに見えた。マールが王子様だって教えてくれたのはママだった。絵本の中の王子様と同じ王子様。悪いドラゴンと戦ってみんなを救う王子様。最初に会った時も、わたしを助けてくれた。だったら今日も助けてくれる?
「……ママ、が……なくなっちゃう。どんどん消えてく……」
我慢できなくなって不安を吐露した。鼻が鳴って声が震えた。可哀相に、気の毒に、って言葉が欲しいわけじゃない。悲しいのが消えて、辛いのが薄れて、そしたらわたしはどうなるのか。それが不安で不安でたまらない。でも、パパには聞けない。ママのことを言っては駄目。行き詰まりの感情をどう逃がせばいいのか知らない。
「消える?」
「サラちゃんがぁ、小さいから……忘れてぇ……」
大人たちの言う慰めの言葉が深くわたしに刺さっていた。悪気がない分余計に、反発して腹を立てる分尚更に。自分が悪い子になっていくのが分かって、ママが死んだことを知らないふりをして、パパを傷つけた。わかっていたのに、止めなかった。自分で自分がどうしたいのかもよくわからなかった。知らない、知らないって言い続けたら、何もかも元に戻るのじゃないか。ただママに消えて欲しくなかった。ずっと悲しいままでいいから忘れたくなかった。でも日に日に失われていくのだ。掴んでいる両の手があまりに小さすぎて。
「そうか。だったら僕が代わりに覚えておく。僕はお前より大きいし、忘れたりしない。お前が話して欲しい時にちゃんと話してやる。だから、お前は全部話して忘れていい」
マールが言った。嘘じゃないと思った。信用できる人。王子様。わたしは、泣いて泣いて泣いてわけのわからないくらい泣いた。ぐちゃぐちゃになりながら、ママのことを話した。ママは大人だけど人参が嫌いで、一番好きなお菓子はマドレーヌなこと。ママの育った田舎の話。大きくなったら釣りに行こうって約束したこと。まだ読んでもらっていない薄紅色の奇麗な本、お揃いのリボン、刺繍が下手で編み物は上手な話、寝る前に歌ってくれる歌。思いつくままに息をするのも惜しむほど支離滅裂に言った。マールは黙って聞いていた。漸くわたしの話が途絶えた頃、
「僕は自由に外出できる身分ではない。だが、お前が王宮に来る分には相手をしてやれる。思い出すことがあればいつでも話しに来ればいい」
マールが胸ポケットのハンカチでわたしの顔をぐるぐる拭いた。それから、わたしが言ったこと全てをすらすら復唱してみせた。あぁ、本当に覚えてくれているのだと安心した。とても安心したのだ。あぁ、そうか、そうか。だからわたしは————……
「……サラ様、ご気分は?」
ゆっくり目を開くと瞼全体がピリピリした。どうしてか考えて昨夜の出来事が蘇った。わたしはパパが出て行った後、泣きつかれて眠ってしまったらしい。声の方へ首を傾けると額の生暖かいタオルがぽとりとベッドの上に落ちた。マリアンヌが不安に見つめている。身体が熱くて気怠い。むくっと起き上がると関節の節々に痛みが走った。
「大丈夫。……今何時?」
「朝の九時です」
随分長い夢を見ていたから昼の二時くらいかと思った。マリアンヌが水の入ったコップをくれた。一息でこくこく飲み干す。食道を流れていくのがわかった。
「水分をしっかり取ってください。食事は食べられそうですか?」
「チョコレート」
マリアンヌは少し笑って、
「駄目ですよ。ミルク粥をお持ちします。身体も拭きましょうね」
立ち上がると部屋を出て行く。ずっと傍にいてくれたのだろうか。前前世では記憶にないようなただの侍女だったのに、なんだか本当のお姉さんみたいだ。
頭がぼんやりする。
何が現実でどれが夢か。さっきの夢は嘘か本当か。ママを忘れた理由を思い出した。辛いことも楽しいこともママの記憶は全部マールに預けたのだった。毎日王宮に通って毎日ママの話をした。パパに見捨てられて、わたしにはマールしかいなくなったから。あの日、あの後、マールに付き添ってもらってパパに謝ったけれど許してもらえなかった。パパは「お前が謝ることはない」と言った。でも、ママがいた頃のようにうまく話せなくなった。王宮へ登城しても、パパはわたしの所へ来てくれなかった。ママと二人で通っていた時は、昼休みに顔を見に来てくれたのに。正式な婚約の打診があった時も、
「サラ、マール殿下がお前を婚約者に望んでいる。光栄なことだ。マール殿下はお前をとても大切にしてくれる」
と言った。あぁパパは焼きもちを焼かないのだな、と思った。わたしのことが好きじゃなくなったから、わたしがマールと仲良くしても平気なんだって。好き好きしなくても、パパはもういいんだなって思った。それから王妃教育が始まって、パパの仕事が急激に忙しくなって、あまり顔を合わせなくなった。パパはマールがいかにわたしを大切にしてくれるかばかりを説くようになった。だから、わたしも一層マールに傾倒した。マールに依存してマールばかり頼った。マールはいい加減それが鬱陶しくてわたしを毛嫌いするようになったのかもしれない。重い女は嫌われる的なやつ。だから、あのお茶会であんなことを……
「っ痛い」
ピリピリと神経を圧迫するように頭痛がした。こめかみを押さえて目を閉じる。熱の種が燻って体内が熱い。
「サラちゃん! 頭が痛いの?」
おばあ様の声が聞こえた。マリアンヌが知らせたのだろう。ベッドで前のめりに俯くわたしを覗き込むように確認する。
「ちょっと考えすぎただけ」
「なんだかサラちゃんは、しばらく会わない間に、本当にお姉さんになったわね」
おばあ様が背中を摩る。頭でっかちのクソガキなだけだ。訳知り顔で仕事を優先すべきだ、とどうってことないふりをして結局パパに当たり散らした。だったら最初から寂しいって言えば良かった。寂しい? ……あぁ、そうか。わたしは寂しいのだ。もうずっと寂しい。ママが死んでずっと。マールが大切にしてくれても寂しかった。だってわたしは本当は、
「パパ……」
漏れ出た言葉に咄嗟に口を押さえると、おばあ様が優しく笑った。
「サラちゃんのこと、とても心配しているわ」
「……パパはわたしが嫌いでしょ」
「まさか」
おばあ様が目を見開いて言う。大人はすぐに慰めの言葉を吐く。わたしの視線におばあ様が少し困った顔をして、
「言葉の足らない人だからね」
諭すように言った。
え? と思った。パパのことをそんな風に考えたことがない。必要なことは必要な分だけ的確に話す人。とても偉くて凄い人。正しいことをする人。みんなに頼りにされている。完璧主義者。少なくとも記憶が戻る前のわたしはそんな風に思っていた。だから、嘘をついてパパを傷つけたわたしは、パパの子に相応しくない。悪い子だから捨てられたんだって。
「だから、パパの分もサラちゃんがたくさんお話しして、聞き出してあげてね」
「……」
なんだろうか。オセロの石が一列ひっくり返るのを見ているみたいな気分。そうだった。大人は別に完璧な人間ではない。百合子だった時、母親が「いくつになっても気持ちは二十歳のままよ」と語ったのを「図々しい」と呆れて返したけれど、自分が四十になって全くその通りだと理解した。気に入らないことがあればムカつくし、感情に流される。旦那にプリンを食べられてブチ切れしたことが何回かあった。ならパパは? 三十代の初婚の男が突然シングルファーザーになった。ママを恋しがる娘をどう扱えばよいのか。わからなくて当然で、パパが向き合ってくれなくなったとわたしは嘆いたけれど、自分はどうだったか。わたしは……、わたしは逃げた。パパが泣いているのを見てショックだった。怖くて怖くて、あまりにひどいことを言ったから、もう駄目だと思った。怒られたくなくて、嫌われたくなくて、パパが何も言わないなら、踏み込まない方が楽だと思った。虐待されているわけでも、不仲なわけでもない。だったらこのままでいい。そう思いながら心の奥底で、パパが昔みたいに歩み寄ってくれるのを切望して、ひたすらに待っていた。昔みたいに仲良く……でも、よくよく考えればパパは元から、あまりしゃべらなかったかもしれない。ママは明るくて陽気でおしゃべりな人だった。三人でいて楽しかった。その感覚だけが残っている。ママがいなくなって屋敷は火が消えたみたいになった。でも、それはママが「いない」からで「いなくなったから」ではないのかもしれない。パパはずっと同じ。昔も今も。変わったのはわたしで、必要以外パパに話しかけなくなった。だったら、わたしが前みたいに戻ったら?
「……パパ、おばあ様といる時、わたしのこと何か言ってた?」
「今のサラちゃんと同じこと尋ねたわ」
「おばあ様はなんて答えたの?」
「直接聞いてみてくださいって答えたわ」
おばあ様はふふっと笑って、
「これじゃ、依怙贔屓ね。だからサラちゃんもパパのことは直接パパに聞いてね」
と加えた。あんなことがあったのに、昨日の今日で何故こんなにのほほんと言ってしまえるのか。でも、他人事だと思って! という怒りは湧かなかった。無性に帰りたかった。帰りたくなった。帰りたい。帰りたい。帰りたい。
「……お家に帰りたい……パパぁぁ」
ピリピリ痛む瞼に生暖かいタオルが充てがわれる。日焼けのせいもあるんだろう。ごしごし拭うと顔全体が傷んだ。
「それじゃあ、しっかりご飯を食べて早く元気にならないとね」
おばあ様の柔らかな声が心地よく耳の傍で聞こえた。
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