第19話 逸話 知らない物語 -君のためにできること- 4

 オーランドがデイビット殿下を伴って朝礼の時間を割き決意表明をしたことで、噂がすぐに根絶やしになることはなかったが、かといって、大手を振って大貴族のヒュー公爵家を敵に回す者もいなかった。破局の可能性がない以上、オーランドに拘り叶わぬ夢想をするより、早く次を探した方が賢明だ。時間の経過と共に事態は沈静化し、やがてオーランドが卒業して女生徒達から一層遠い存在になると話題にも上がらなくなった。メアリージュンはまた目立たぬ学生へと埋もれていった。

 その一方で、オーランドとメアリージュンの仲は至って良好だった。着実に思いを育み、メアリージュンの「ちゃんと卒業したい」という意思を尊重し、二人はオーランドが二十三歳、メアリージュンが二十歳になる年に結婚した。

 そこからは目まぐるしい日々が続いた。メアリージュンは公爵夫人として、義母に連れられ様々な社交場で相応の振る舞いを学ばねばならなかったし、オーランドも新米事務官として仕事に追われた。わざと子供を望まなかったわけではないが、初子を授かったのは結婚をして五年目のことだ。


 その日、オーランドは出産の朗報を受けて病院へ駆けつけた。


「産んでくれて有難う」

「大変だったね。お疲れ様」

「これからの生活が楽しみだよ」


 口下手な自分を憂慮して掛けるべき言葉を幾つも用意しておいた。しかし、病室へ入り赤ん坊を目にした途端言葉を失った。


「パパが来たわよ」


 メアリージュンが微笑みながら娘に語りかけるが、オーランドはパパという単語に反応できなかった。手招きされておずおずと傍に寄る。赤ん坊を抱くように促されるも、こんなに生まれたての、こんなに小さな命を間近で見た経験がない。首も座らぬふにゃふにゃした生き物を抱くことができなかった。時間を止めたようにメアリージュンの腕の中にいる娘を食い入るように見つめる。笑顔なく、無表情に、ただじっと。自分の状態がどうのこうのより意識は完全に視線の先へのみ注がれている。メアリージュンは呆れたような安堵したような、不思議な可笑しみが込み上げた。結婚後、子供を成すことについてオーランドは欲しいとも欲しくないとも言わなかった。公爵家に嫡男を求める周囲のプレッシャーにも、


「授かりものですから。子供が欲しくて結婚したわけではありませんので」


 と理知的に返した。メアリージュンは、無神経な重圧から守ってくれたことへの感謝の気持ちの一方で、オーランドは子供が好きではないのかもしれないとも思った。実際、三年前に生まれたデイビット陛下とキャサリン妃の一人息子に何度か触れる機会があったけれど、大人に接するのと同様な態度をとって、


「お前はブレないな」


 と笑いの種にされていた。大人も子供も同じ人間。子供だからと不敬にあしらわないし、逆に甘やかしもしない。恐らく、オーランド自身がそのように扱われてきた。メアリージュンは、オーランドと義父母の関係性を知っている。貴族らしい家族で、寧ろ手ずからに子育てをした自分の母の方が珍しいのだと思う。だけれど、我が子は絶対に母と同じく自らの手で育てることを決めていた。


「撫でてあげてください」


 メアリージュンの優しい声にオーランドはゆっくり顔を上げる。柔らかに微笑む表情が母の顔をしていた。伝染するように幸せが体内に満ちていく。戸惑う腕をとられてオーランドは初めて娘に触れた。恐る恐るそっと頭を撫でる。温かいし柔らかい。もっと触りたくなった。人差し指を頬に押し当てるとふにふにした感触に全身が震えた。

 幼少時から淡白な人間関係を形成してきた。不幸ではなかった。友人もいた。しかし、メアリージュンと出会い沸騰するような熱量が心に宿ると世界が薄いベールの向こうから姿を現したように変化した。何もかもが素晴らしくこの世の全てに感謝したいような気分。

 メアリージュンは、共に人生を分つ人だ。病める時も健やかなる時も、例えどんな困難が襲ってこようとも、一緒に手を取り隣を歩いていく。愛だと思った。きっと子供にも同様の感情を抱くはず、と。しかし、実際は違った。全く異なる感情が湧いた。


――――守ってやろう。この子は私が守るんだ。どんな苦境からも盾になって守ってやる。


「メアリージュン、有難う」


 オーランドが漸く言葉を発したのは、入室してから一時間も経ってのことだった。



「パパはママの運命の人なのよ」

「運命の人?」

「そうよ。運命の人とは赤い糸で繋がっているの」

「ふーん。でもパパもママも糸なんてついてないよ?」

「見えない糸なの」

「えー。じゃあ、どうやったらわかるの?」

「目を見ればわかるわ。サラちゃんも運命の人に出会ったら、きっとこの人だってわかるわ」

「そっか! わかった!」


 メアリージュンの初恋は八歳の時。それに気づいたのは、十五の時だ。


「今思うと、あれは運命の出会いだったのよ」


 と結婚後の惚気話によくあるように、彼女もまたオーランド・ヒュー公爵との出会いを運命だと語った。幼い頃に領地で会い、時を経て王都で再会した。確かに運命と言われればそうだが、貴族社会は狭い。それくらいの偶然はよくあることだと受け流せばそれまでだ。うまくいったから振り返って言えること。でもそれを愛しい娘に優しく語ることに何の問題があるだろうか。

 メアリージュンは幼い時、母親に同様の話をされたが全く興味がなかった。娘は予想外に興味津々に聞く。自分と異なり随分真面目に素直な子に育ったな、と笑ってしまう。きっとオーランドに似たのだ。

 サラ、と名付けたのはオーランドだった。


「可愛いけれど、少し短くない?」

「短い方がよいだろう。サインが楽だ。試験の時、早く問題に取り掛かれる」

「……試験」


 何の心配をしているのか。でも、その名前が数多の候補から考えあぐねた結果であることを知っている。書斎に籠り仕事をしているのかと思えば、つらつら人名を書き連ねていた。妊娠中は何らの人事リストと思っていたが、ファーストネームばかりだったと、後になりふいに気づいた。オーランドはメアリージュンが考えるより遥かに娘を思っていた。


 オーランドは当初、メアリージュンが乳母を雇わず子育てをすることにも反対した。


「乳母に頼んだ方がいい。君は子育ての経験がないだろう。知っている人間が適切な方法で育てるのが一番だ」


 抱いて寝かしつけて、三時間おきに授乳せねばならないし、毎日沐浴させて、おしめは常に清潔に交換せねばならない。免疫がないうちは外出などもっての他だし、顔に布がかかっただけで窒息してしまうことがあるから、目を離すことはできない。何か事故が起こってからでは遅いのだから、絶対にプロに依頼すべきだ、と。

 反対されるかもしれないとは思ったけれど、反対される理由が想像と違い過ぎて戸惑った。そんな育児の知識を何処で知ったのか。子育ては乳母にさせるもの。そう考える高位貴族の男性の中に、そこまで赤子の実態を知っている人がどれほどいるだろうか。


「貴方はいいパパになるわね」


 メアリージュンが随分感心して言うと、オーランドは言葉を詰まらせた。勉強熱心なオーランドは不明なことを調べるのが当然で、乳母を雇うか否かの話の最中に何故そんな突飛な言葉が飛び出すのかわからなかった。

 結局、指導係という形で一年間だけ乳母を雇うこととなった。



 家庭環境は安定していて問題はなかったが、サラが二歳になる頃、オーランドは宰相の書記官に任命され仕事が多忙を極めた。書記官になることは将来為政者となる為の布石だ。しかし、オーランドは当初その申し出を辞退しようとしていた。家族との時間がとれなくなる、という何とも驚きの理由だった。


「何言ってるの。為政者になることは貴方の夢でしょう? 小さい頃からその為に勉強してきたのではないの? わたし達は何処にも逃げたりしませんから、辞退なんて馬鹿な事仰らないでください」


 メアリージュンに後押しされ、オーランドは書記官を引き受けた。しかし、親の心子知らずとはよく言ったもので、案の定、父親と会えない日々が続く生活は、溺愛する一人娘を完全なるママっ子に成長させた。


「ママ大好き!」

「そうねぇ。ママもサラちゃん大好きよ。パパもサラちゃんが大好きよ」

「サラちゃんは、ママが一番好き!」

「……サラちゃん、パパのこと好きでしょう?」

「うん! 好き!」

「パパはね、お国の為に一生懸命働いてとっても偉いのよ」

「えらい?」

「そうよ。パパはね、何でもできるんだから。みんながパパを頼りにしているのよ」

「そっか! すごいねぇ!」

「じゃあ、パパが帰ってきたら好き好きしてあげてね」

「うん! でもサラちゃん、ママが大好きなの」

「……サラちゃん」


 メアリージュンが困った顔で、執事や侍女に助けを求めると、


「旦那様は、サラ様が笑ってくれるだけで満足なさるので大丈夫ですよ」


 と苦笑いが返った。実際オーランドは、娘が母親を一番好きだと公言しても不機嫌になる狭量さはなかった。むしろ愛しい妻と慈しむべき娘とが仲睦まじく寄り添う姿を眺めるのが至福の時と言えた。それより問題なのは、オーランド自身が、娘へ上手く接することができないことだ。何分、生真面目で、娘の支離滅裂な話を必死で汲み取ろうとするあまり、しつこく同じことを尋ねて嫌がられた。何言っているのこの人、という表情で見つめられると言葉が出てこない。出世街道まっしぐらで、議会では対立する派閥の意見陳述を見事に論破する官僚候補が、娘の全く辻褄の合わない話に質問もできず頷くだけなのだから、メアリージュンは当然、屋敷の使用人達も笑いを押し殺して悶えた。

 そんなオーランドが唯一心置きなく娘に触れられるのは眠っている時だ。夜中に帰ると毎晩娘の部屋へ寝顔を見に行く。一度眠ると朝まで起きない親孝行な娘の頭を撫でると一日の疲れが吹き飛んだ。



 メアリージュンの体調の異変に気付いたのはサラだった。

 時々、胸の辺りを抑えて顔を顰める。不安そうな娘に促され、掛かりつけ医に診察をしてもらうも問題はないと診断された。それでも時折襲う胸の圧迫は止まず、一度大きな病院で診てもらう方がよいと検査入院することとなった。

 そこで問題となったのは、日頃、メアリージュンにべったりなサラだ。

 四日の入院中、泊まりがけでメアリージュンの母親が手伝いに来てくれた。しかし、初日から一日中泣いて大変だった。昼休みに様子を見に帰宅したオーランドは想像以上の惨事に、義母にばかり負担を掛けるわけにもいくまいと、王宮に帰ると翌日からの休暇申請を出した。が、内情を知ったデイビット陛下とキャサリン妃は、


「王宮に連れて来たらいいじゃないか。屋敷にいるから母親のことを思い出すのではないか」

「そうよ。メアリーも水臭いわね。わたしが預かりますから連れて来てください」


 と提案を持ち掛けた。公私混同はしない主義だ。オーランドが頑なに断ると、


「これは王命だぞ」


 と無茶な権利を主張し始めた。結局、娘を登城させることになった。しかし、そこでまた違う不安が生じた。娘はあまり自分に懐いていない。無理やり連れて来たら余計に泣くのじゃないか。どぎまぎしながらサラに提案を持ち掛ける。


「サラ、明日からパパと仕事に行こうか」

「え!」

「城で仕事をするんだ。ママが帰ってくるまで頑張って働かないといけない」

「サラちゃんも?」

「そうだ」

「そっか! わかった!」


 拍子抜けするほどにこにこと頷く。オーランドは妙な感動を覚えた。

 サラはそれ以降ずっと上機嫌で、翌朝もぐずつく様子なく目を覚まし、


「パパ、まだ行かないの?」


 と出勤時刻の一時間前から用意して待ち構えていた。屋敷から王宮まで馬車で十分の道のりも終始はしゃいだ様子だった。


「お城には王子様とお姫様がいる?」

「え、あぁ、王子様はいるがお姫様はいないな」

「なんで?」

「え、あぁ、この国にはお姫様は生まれなかったんだ」

「え! じゃあ、お姫様は何処にいるの?」

「……王子様が大きくなったら、見つかるだろう」

「そっか! わかった!」


 城に着くと、デイビット陛下とキャサリン妃にプライベートサロンへと呼ばれた。サラを預かろうと、子供の好むようなお菓子やぬいぐるみを用意して待っていてくれたらしい。


「サラちゃん。今日は、ここで一緒に遊びましょうね」

「王妃、すみません。ご迷惑をお掛けします」


 腕の中のサラを下ろそうとすると、ぎゅぅぅぅと首にしがみつかれてオーランドは目を見開いた。


「サラ?」

「サラちゃん、ほら、こっちへいらっしゃい」


 キャサリン妃が両手を開いいてサラを貰い受けようと呼びかけた瞬間、


「いやぁぁぁ。パパぁぁ」


 声を張り上げて泣き出したので、鼓膜に痛いくらい響いた。ぎゅうぎゅう抱き着いて離れない。オーランドはおろおろとするばかりだが、キャサリン妃は笑いながら、


「サラちゃんは、パパと一緒がいいのねぇ。じゃあ、パパとお仕事してちょうだい」


 と宥める様に後ろから髪を撫でる。途端に嘘泣きだったのかと勘繰りたくなるほどピタリと泣き止んだ。目は涙で滲んでいるからもちろん本当に泣いていたのだが。キャサリン妃の言葉に、うんうん頷いて静かにオーランドの腕の中に収まっている。


「すみません、王妃。折角のご好意を。やはり休暇を取り屋敷で面倒を見ます」

「別に構わんだろう。お前の執務室は個室なんだし、そこで面倒みてやれば」

「いえ、屋敷に、」

「お仕事する」


 オーランドの言葉に被せる様にサラが言った。


「サラちゃん、パパとお仕事しに来たの」


 サラの言葉に、デイビット陛下とキャサリン妃は顔を見合わせて笑った。サラの発言が可愛かったこともあるが、普段表情があまり緩むことのないオーランドが、困惑のポーズを取りつつ、隠せないほどまんざらでない顔をしたからだった。


「そうか。サラちゃん。では、王命で、これからサラちゃんにパパと仕事をする任務を与える。しっかりやってくれよ」

「うん! わかった!」

「すみません。きっと何もわかっていません」


 サラの快諾に、オーランドが真面目にフォローするのでデイビット陛下とキャサリン妃は吹き出した。


「では、休暇申請は出しますが、仕事はします」

「まぁ、その辺は気の済むようにしろ。どうせ休暇枠余りまくっているだろ」




 溜まっていた不要な書類にマルとバツを付けさせる仕事を与えた。

 好きだと思ったらマル、嫌いだと思ったらバツを付けるように言うと、一生懸命考えて万年筆を走らせる。我が子ながら几帳面な質なのか、マルが付けてある書面は奇麗な文字で整然と書かれたもの、乱雑にまとめられた読みにくい書面にはバツがついている。ちゃんと判断していることに笑いが漏れる。永遠に見ていられるな、と思ったが、自分の仕事も際限なくある。止む無く書類を片しながら、ちらちらサラの様子を確認していた。しかし、込み入った案件に取り掛かると集中してしまった。ふいに顔を上げると執務机の正面のソファに座っていた姿がない。

 蒼白になり席を立ち、部屋中見渡すが何処にもいない。部下が行き来する為、部屋に鍵はかけていない。分厚い扉であるため、出ていくとは思わなかった。完全なる手落ちだが、そんな反省をしている場合じゃない。急いで廊下へ飛び出て、あちこち捜してみるが、王宮は広すぎる。あんな小さな身体で遠くに行けるはずはないし、警備はしっかりしているから怪しい人間が入り込んで攫われる可能性は低いが、何処を捜せばよいのか。取り敢えず周囲を一周ぐるりと巡り、執務室に帰っていないか戻ろうとしたところで、


「パパぁ!」


 マール王太子に連れられて歩いてくるサラの姿が目に飛び込んだ。

 安堵したのと、王太子に迷惑を掛けてしまったことと、自分の不注意への呵責の入り組んだ気持ちで謝罪を口にする。


「殿下、申し訳ありません」

「構わない」


 マール王太子が答えると、サラがぱたぱたと自分の元へ走り寄ってきた為に咄嗟に抱き上げる。

 マール王太子とは何度も顔を会わせている。子供が苦手なオーランドは不思議と彼にだけは苦手意識を抱かなかった。デイビット陛下とキャサリン妃のいずれにもあまり似ていない物静かな性格だ。聡明で温厚、ざわざわした騒々しさがまるでない。子供らしくないことを両陛下は嘆いていると聞くが、何が問題なのか全くわからなかった。


「ほら、お礼を言いなさい」

「マール様! ルーク! 有難う!」

「お手数をお掛けしました」

「いや、王妃が招くように指示していると聞いている」

「はい。妻が検査入院しておりまして、屋敷に置いてくるとひどく泣くものですから……」


 腕の中のサラはすっかりご機嫌な様子だった。後で勝手に出ていかないように注意しなければならない。いや、監督不行き届きなのは自分の落ち度だから反省すべきは自分の方か、と甘い思考が巡る中、


「ならば、僕が預かろう」

「え」


 突然のマール王太子の発言に傍にいた執事のルークと一驚の声が被った。


「王妃が呼び寄せたのなら、こちらで責任を持つのが道理ではないか。ヒュー公爵も忙しい身だ。仕事が滞っては困る」

「いや、しかし……」


 朝の惨事が蘇る。また大泣きされるのではないか。オーランドはサラに視線を向けるも、話を聞いているのかいないのか、にこにこ笑うばかりだ。


「サラ、パパは仕事がある。終わるまで僕と一緒にいるんだ」


 しかし、マール王太子が尋ねると、


「マール様と遊ぶの?」

「あぁ」

「わかった!」 


 と驚くほどあっさり快諾した。子供は子供同士がよいのか。有難い申し入れだったが、どうにも釈然としなかった。


「殿下にもご予定があるのでは?」

「構わない」


 言われれば断る要素がない。サラが進んでマール王太子の手を取るのでそのまま預けることになった。王太子に相手をしてもらえるとは光栄なことだ。が、物凄く嫌な予感がしたし、不快というわけではないが、率直な感想として面白くなかった。



 悪い勘は当たった。

 検査の結果に問題はなかったと安堵して話すメアリージュンは、留守中にサラが王宮で世話になった経緯を聞き、お礼を兼ねてキャサリン妃を尋ねると言い出した。

 そして、登城した日の夕刻。

 まだ本調子でないメアリージュンを気遣い、出来るだけ早く帰宅することを心掛けていたオーランドが屋敷へ戻るとメアリージュンと睦ましく寄り添うサラに迎えられ満たされたのも束の間で、衝撃の報告を受けた。


「婚約?」

「そう。マール殿下がサラをお嫁に欲しいそうよ」

「駄目だ」


 嬉しそうに話すメアリージュンに憤然としてオーランドが返した。あまりのことにメアリージュンはぽかんと間抜けにオーランドを見る。


「王妃なんて苦労するだけだろう。厳しく躾けられるし、自由もない」

「え、いや、そういうことじゃなくて」


 冗談ではないが、正式な婚約というわけでもない。ただ、物事に淡白なマール王太子が、涙を流して自分の娘が好きなのだという姿を見て悶絶級に胸を打たれたという話だった。


「ほら、サラちょっと来なさい」


 オーランドが珍しく強気にサラを呼び寄せ膝に乗せると真剣な表情で言った。


「いいか。マール殿下と結婚するには、大変な努力が必要だ。毎日毎日、たくさん勉強しなくちゃいけない。そんなのは嫌だろう?」


 メアリージュンは呆れて聞いていたが、オーランドのあらぬ吹込みにサラは、


「そっか! わかった! サラちゃん頑張る!」


 にこにこ答えるものだから、オーランドが目を見開いて珍しいほど狼狽した。


「頑張らなくていい!」

「え! なんで?」

「サラは、ここでパパとママと好きなことをして暮らせばいいんだ」


 メアリージュンは笑いを堪えながら、必死なオーランドからサラを奪いとると、


「サラちゃんは、頑張るわよねぇ。マール殿下が好きなんだもんねぇ。全くしょーのないパパですねぇ」

「ねー」


 額を寄せて笑い合う。オーランドは完全に自分がアウェイだと悟り黙った。


――――明日、朝一で謁見して文句を言ってやる。


「貴方、まさか陛下に抗議なんてなさらないでくださいよ」


 メアリージュンが横目で言うのには、返事をしなかった。




 その後、メアリージュンはサラを連れて週に二度登城するようになった。マール王太子とサラを遊ばせる為であることに、オーランドだけが眉根を寄せる状況だ。デイビット陛下とキャサリン妃は公務に忙しく中々時間を取れなかったが、マール王太子はこれまで暇つぶしに勉強していた時間をサラとメアリージュンと過ごすことに充てた。三人で庭園でお茶会を開き、飯事したり、鬼ごっこしたり、本を読んだり、サラを中心に幸福な時間が流れた。


「こんなことを言うと失礼かもしれませんが、マール殿下は貴方に似ているみたい」

「は?」

「女の子は、パパに似た人を好きになるそうよ」


 メアリージュンが柔らかに微笑んで言う。そんなことを言われても、マール王太子とサラの婚約には全面的に反対だ。王命だろうがなんだろうが跳ねつけてやる。オーランドは頑なに思ったが、一方で、メアリージュンとサラが本気で頼んでくれば容易く折れてしまうこともわかっていた。無駄な抵抗をしている自分に笑ってしまう。


「サラが嫌だと言ったら、すぐに婚約解消だ」


 メアリージュンが倒れた。検査入院でも異常はなかったはず。一体何が起こったのか。症例の少ない肺機能の疾患だった。元々、治療法が確立されていない上、検査した時には進行し過ぎていた。もって半年。大きな発作が起きればいつ命を失うかもしれない。オーランドに知らせては、入院生活を余儀なくされる。勝手とわかっていながら、メアリージュンの選択は、ギリギリまで平常な生活を過ごすことだった。残された時間、娘と蜜月の日々を過ごして、できることは全てしてあげたかった。余命宣告を黙ったまま生活していたのだ。


「隠していたのだもの。気づかなくて当然よ。自分を責めるような馬鹿なことしないで。ごめんなさい。出来る限り家族で普通に生活したかったの」


 ベッドの上で意識が戻るとメアリージュンは鎮痛な面持ちで謝罪した。「誰も何も責めないで欲しい。愚かなわたしを許して欲しい」と言って静かに笑った。とうに覚悟はできているかのように。オーランドは拳を握りしめるしか出来なかった。

 それから、病気が明るみになった途端、堰を切ったようにメアリージュンは日ごとに体力を失い、目に見えて痩せていった。

 

「乳母を捜して欲しいの。子供が好きで愛情深い女性がいいわ」

「君が世話をするのだろう。そう言ったんだから最後まで守れ」

「……そうね。そうだったわね」


 サラのことを考えれば正しい判断と言えない。まだ母親が生きているうちに、乳母を雇い入れ懐くようにした方がよい。わかっているけれどできなかった。父親としてあるまじき判断。冷静じゃない。だが、乳母を捜してしまえばメアリージュンの死期が早まる気がした。

 メアリージュンは気丈に明るく、サラの前では元気に振舞ったが、子供は大人が思うよりずっと敏感だ。メアリージュンが倒れてからサラは屋敷で大きな声を出さなくなった。バタバタ走らなくなったし、メアリージュンに会うのも少しの時間で我慢していた。オーランドも使用人達もそれを不憫に思うもどうしてやることもできなかった。せめて今の状態がずっと続きますように。何も変わらずこのままずっと、静かに静かに時が流れていくように。そんなことを皆が切実に願った。しかし、硬い城壁で囲ったはずが悪い隙間風が何処からか入り込んでくる。足元から少しずつ崩れ落ちるのを止められない。

 まだ若いメアリージュンの身体を蝕む病気の進行は思うより早かった。屋敷で倒れてから三週間で、意識の混濁が起こるようになり病院へ担ぎ込まれた。子供に見せられる姿ではないから、とオーランドだけが屋敷と病院と職場を往来する日々が続いた。


「サラちゃんがいい子にしていたら、ママ元気になる?」

「あぁ、そうだ。きっと元気になって帰って来るから」

「そっか! わかった!」


 屋敷を出る度に不安げに尋ねる幼い娘に嘘を吐き続けた。胸が軋んで痛かった。しかし、他に何が言えただろうか。ママはもう助からないのだ、と言えるはずがないし、言いたくなかった。

 そして、メアリージュンが入院して二週間目の朝。

 いつものように職場へ向かう前に病室へ顔を覗かせると、久しぶりに穏やかに笑うメアリージュンの姿があった。オーランドは救われたような気持ちでベッドサイドの椅子に腰を掛けた。


「気分は?」

「えぇ、今日はとてもいいの。不思議なくらい身体も軽いわ」

「……そうか」

「サラちゃんはどうしている?」

「いい子で君の帰りを待っている」


 メアリージュンが笑う。何故笑うのか。縋りつきたいのは自分で、娘を隠れ蓑にしたことを見透かされたのか。情けないな、と思う。だけれど、とても心細く不安だった。子供の頃にも感じたことのない恐怖。誰かに捨てられてしまうような寂寥。置いていくのと置いていかれるのは、どちらが辛いだろうか。


「サラのこと守ってね」

「あぁ」

「わたしの分まで愛してね」

「……」

「寂しくて泣いている時には、ちゃんと寂しくないようにしてあげてよ」

「困るよ。君がしてくれ。私はなんて言っていいかわからない」

「そんなの、何も言わなくてもいいの。傍にいてぎゅーと抱きしめてあげればいいの。貴方に何かの言葉は特に期待してないから」


 ふふっとメアリージュンは笑う。随分な言われようだ。確かに自分はあまり何も口にしてこなかった。胸の奥から迫り上げる思いはいつもあったのに。愛しているとか、好きだとか、有難うだとか、言うべきなのか。目が合う。最初に会った時は幼い少女だった。びっくりして見開いた緑の瞳が、今は優しく弧を描いている。時が流れて家族になった。これを奇跡というのではないか。オーランドが奥歯を噛みしめ意を決したように口を開こうとした瞬間、メアリージュンはおどけたように言った。


「わかってる。大丈夫。運命の人はね目を見ればわかるってママが言っていたの。わたしもそうだと思う。サラちゃんもきっと、ね。だからマール殿下のこと邪魔したら駄目よ」

「……邪魔などしていない」

「してる」

「していない」

「してる」

「……しない」

「よろしい」


 窓から注ぐ朝の陽がキラキラとても美しかった。よく覚えている。オーランドが生涯忘れることのない日だ。


「あー楽しみ」


 それがメアリージュンの最期の言葉となった。




 葬儀は曇天の中でしめやかに行われた。太陽が消えたのだから仕方ない。

 子供に遺体を見せるべきか。オーランドは迷うことなくサラを抱えて棺の前に立った。白装束に身を包み、沢山の献花に囲まれて静かに眠るメアリージュンを黙って見下ろす。


「ママ寝てるの?」

「ママは、もう起きないんだ」

「え! なんで?」

「ママは、死んでしまったから」

「え! 嫌! ママ起きるもん! 元気になるって約束した!」

「サラ、ほら、ママにお別れ言いなさい」

「嫌! ママ起きて! 起きて!」


 式場内がしんしんとした悲しみに包まれる。

 泣くじゃくるサラには憐憫の目が寄せられた。


 子供には酷じゃないか。

 理解するには幼すぎるのではないか。

 時間が経てばきっとわかる時がくる。

 今はまだ早すぎる。


 それでも敢えて別れの場に立ち合わせたのはオーランドが父親であったからだ。絶望に寄り添って共に生きる覚悟があったからだ。だが、現実は思うよりも厳しい。自分が出来損ないの父親であることをまざまざと思い知らされる。葬儀が終わって幾日経っても、サラは毎日繰り返し尋ねた。


「ママはいつ帰ってくるの? いい子にしていたら元気になるって約束した!」

「ママは何処に行ったの? なんでいないの!」


 責め立てられるのはいい。嘘を吐いたのも、約束を破ったのも自分なのだから。ただ、それよりもっと辛いのは、


「お願いお願い。なんでぇ? サラちゃんいい子になるから」

「パパは偉いって、なんでもできるって、お願いお願い。ママのところに行きたい」

 

 縋って泣かれること。小さな頭を何度も下げて頼まれることだ。そして、それに何もしてやれない自分にうんざりする。周囲の人間が口々に、


「大きくなればわかります。時間が解決します。今だけの辛抱です」


 と言うけれど、今あの小さな胸の痛みを取り除いてやりたいのだ。

 どうすればいいのか。何をしてやれるのか。強く思うのに口をついて出た言葉は最低だった。


「ママはもう死んだんだ。泣いても帰ってこない。サラにはパパがいるだろう」

「そんなの嫌! ママがいい! パパは嫌!  あっち行けー! ママぁぁ!」


 はち切れるように泣き叫ぶ娘に結局何もしてやれなかった。

 パパがいるからなんだ。暴れて当然だろう。メアリージュンの代わりなどなれるはずもない。サラが部屋で眠ったと使用人に報告を受けては安堵する毎日。あぁ、一日が無事に終わった。いつまでこんなことが続くのか。出口のない迷路を彷徨い続ける。


「メアリー……」


 もしここにメアリージュンがいたら、呆れて、怒って、笑って、全てを魔法みたいに解決してくれるだろう。だから自分には無理だと言ったじゃないか。どうして先に逝ってしまったのか。情けない。情けない。情けない。強くあらねば。守ってやらねば。だけれど、思うほどに涙が止まらなかった。





 サラがメアリージュンの話をしなくなった。一体急にどうしたのか。しかし、わざわざ蒸し返して尋ねる者は誰もいない。まだ四歳の幼子だ。時間が経てば忘れてしまう。このまま思い出させない方がいい。残酷だろうか。それでも泣き叫んで悲痛な思いを抱き続けるよりはいい。

 そんな中、サラを懸念して、マール殿下が屋敷を訪れた。以前のように城に遊びに来るように再三誘いを受けていたけれど、とても登城させられる状態ではなかった為断り続けていた。

 オーランドは執務室でマール殿下が屋敷へ向かったことを知らされるも、外せない議会があった為、帰宅することは叶わなかった。夕刻、急いで屋敷に戻るとマール殿下がサラと共に玄関へ顔を出した。自分の帰りを待っていたらしい。


「殿下、ご迷惑をお掛けしました。サラが何か不敬なことをしませんでしたか?」

「いや。それより公爵に言いたいことがあるらしい」


 促されてサラがマール殿下の後ろからおずおずと告げる。


「……ごめんなさい」

「え」


 言ったきり、きゅうっと口を結んでマール殿下に隠れる様に腕にしがみついた。何を謝っているのかわからない。後頭部を鈍器で殴られたほどの衝撃を受けた。これまでのどんな言葉より胸が詰まった。


「謝ることなどないだろう」


 オーランドがかろうじて答えると、再びひょっこり顔を出して、


「ほら、大丈夫だ」


 マール殿下の言葉にうんうん小さく頷いた。


「ヒュー公爵。明日からサラを城へ招いてもよいだろうか。屋敷に籠っているよりも気が晴れるだろう」

「……それは、構いませんが。サラがなんと言うか」

「来たいと言っている」

「そうですか。ご迷惑にならないならば」

「問題ない。サラ明日から、公爵と一緒に城においで」


 やはり黙ってうんうん頷くばかりだった。

 

 翌日から、サラの王宮通いは始まった。

 朝、オーランドと一緒に屋敷を出て夕方は先に帰宅する。オーランドが仕事の合間にそっと様子を見に行けば、嬉しそうに笑っている姿が目に飛び込んだ。こう毎日相手をしてもらってはマール殿下の勉強の妨げになるのでは、と懸念したが、デイビット陛下とキャサリン妃は、全く問題ないのだと容認してくれた。自分を気遣ったのか、サラを可哀相に思ったのか、或いはマール殿下が望むからか。


「ヒュー公爵。サラのことは心配いらない。僕がちゃんと守ります。メアリージュン夫人とも約束しましたから」


 マール殿下が執務室に訪れて言われた時には喪心した。しかし、何処かほっとした気持ちもあった。メアリージュンが選んだ相手なのだから間違いないだろう、と言い訳めいて思った。僅か七歳の少年に娘を託して、こんな無責任なことがあっていいはずはない。要は逃げたのだから。良い父親どころか、父親ですらないのではないか。だから、当然の報いを受けた。狡い内心を悟られて、サラの心がどんどん自分から離れていくことを感じた。毎日、マール殿下の元へ通うごとに、砂時計が落ちるみたいにさらさら流れていく。表面上は関係性が悪化したわけではない。ただ、父親として見限られたのだ。そうこうして一年が経つ頃、サラをマール殿下の婚約者へ、と正式な打診があった。邪魔をするな、とメアリージュンの言葉を思い出すが、今更そんな権利もない。


「サラ、マール殿下がお前を婚約者に望んでいる。光栄なことだ。マール殿下はお前をとても大切にしてくれる」

「……うん」

「正式な婚約者になれば王妃教育も始まる」

「頑張る」

「そうか」


 王妃教育が始まるとカリキュラムから、毎日登城することはなくなり、オーランドとサラは朝一緒に出掛けなくなった。パパと呼ばなくなったし、敬語で話すようになった。

 父娘の時間は減る一方だったが、デイビット陛下もキャサリン妃もサラを可愛がってくれている。マール殿下がサラにだけ特別な愛情を掛けてくれていることも知っている。何も心配はない。この国一番の嫁ぎ先だ。もう自分には娘にしてやれることなどないのではないか。オーランドは自虐的に思ったが、考えて考えて、一つだけ浮かんだことがあった。灯台下暗し。与えられた才能。自分ならばしてやれるとても単純なこと。父親失格でも、政治家としての手腕ならば他に遅れを取ることはない。だったら上り詰めてやろう。てっぺんまで。娘が王妃になったとき誰にも文句を言わせない。強靭な後ろ盾になって守ってやる。誰にどう思われても構わない。朝も、昼も、晩も、ただがむしゃらに働くこと。あの子の為にしてやれるのは、もうそれくらいしかないのだから。

 そして、オーランド・ヒュー公爵は、三十五の若さで頂上まで駆け上がるのだ。

 皮肉にも、権力を得る為に娘を王家に売り払った若き宰相として名を馳せることとなる。

 誰も知らない物語である。 

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