第17話 逸話 知らない物語 -君のためにできること- 2
メアリージュン・オーガスタ侯爵令嬢は、赤ん坊の頃から暮らしていた別荘地を十四歳で離れた。いずれ王都に帰った後、苦労しないように十歳から家庭教師がついていたが、都会の生活に慣れる為、学園に入学するより一年前に田舎町を引き上げたのである。そのことに関してメアリージュンは特に反発はしなかった。
「わたし、王都になんか行きたくない!」
と我儘を言えば、元々田舎で育った母は自分に加勢してくれるだろうし、母と自分に甘い父も難色を示すだろうが最終的には折れてくれるはずだ。だが、十四歳で自分の人生を決める必要はない。豊かな自然の中で逞しく育ったのだから、今度は都会で田舎では得ることのできない知識に触れてみたい。メアリージュンは、両親の多大な愛情を一身に受けて大らかに育ち、また、とても柔軟な考えを育んでいた。親友のジオルドと離れ離れになることだけが、唯一の憂慮すべき点だった。しかしそれも、幼き日、冒険譚に書いてあるのを真似て行った「血の誓い」がある。「どんなに遠く離れても友情は不滅で、互いにもし窮地に陥った時は必ず助けに来る」と言うものだ。ジオルドならきっと守るだろう。そして、自分もまた然りである。故に、メアリージュンは快晴を仰ぐような清々しい気持ちで領地を旅立った。
王都に帰っての一年は目まぐるしかった。いくら家庭教師がついていたとは言え、生活環境が違いすぎる。走り回ることは疎か、一人で気ままに出歩くこともできない。窮屈な生活。顔を繋ぐ為にあらゆる茶会に出席して、貴族特有の嫌味な洗礼を受けたし、対立する派閥、影響力を持つ婦人は誰か等々、頭に叩き込まなければならなかった。
「貴族ってまるで意地悪で我儘な子供の集まりね」
「領地へ帰りたい?」
「冗談! 逃げ帰るなんて女が廃るわ」
メアリージュンは母の言葉に陽気に笑って返した。田舎で幼少期を過ごさせるのは母の願いだった。侯爵家の一人娘に対して、ありえない処遇だ。メアリージュンはそのことにとても感謝しているし、母に後悔させたくなかった。立派に学園生活を全うし、他の令嬢に遅れをとるようなことはしない、と心に決めている。母の教育方針は正解だったと知らしめるつもりだ。メアリージュンは見た目のおっとりした雰囲気とは異なり、逞しく不屈の精神を持ち合わせていた。そして、決めたことを実現させる根性も。彼女は一年間の努力の末、入試試験を二位の成績で通過した。しかし、一位には百点もの点数差で全く及ばなかった。
「あの問題で全教科ほぼ満点? 嘘でしょ!」
メアリージュンがぽかんと見つめる先には主席合格者として新入生代表の挨拶を務めるキャサリン・ロマノフ侯爵令嬢の姿があった。
メアリージュンはすぐにキャサリンに興味を惹かれた。しかし、王太子デイビットの婚約者である。格が違う。そうそうに近寄れる存在でない。この一年、田舎から出てきたばかりの自分が出席できるような茶会に一度として現れたことはなかった。自分が揶揄われているのは聞くが、キャサリン嬢の悪い噂はついぞ耳にしたことはなかった。尤もそれはデイビット殿下の寵愛ぶりが常軌を逸している部分が大きい。キャサリンは元々、隣国に住んでいた。王族の血を引く姫であったのに、デイビット殿下の熱烈な求婚の末、王妃となるべく移住してきたのだ。だから到底友人になれるなどとは思っていなかった。
「どんな勉強をしているのかしら。話せる機会があれば伺ってみたいわ」
それくらいの軽い気持ちでメアリージュンはキャサリンに憧れを抱いた。
だが、二人の仲は想像以上に、そして、思うより早く縮まる。
全寮制である学園の寮は爵位により別れている。デイビット王太子殿下の婚約者であるキャサリンは、一歳年上のジェニファー王女が現在使用している王族用の宿舎に入ることを打診されたが、
「わたくしは、侯爵家の人間ですから」
と特別待遇を拒否して侯爵家用の寮部屋に入寮することとなったのだ。それもメアリージュンの真隣りの部屋だった。
入所してすぐに寮棟ごとでの顔合わせが行われたが、キャサリンの抜きんでた美貌に誰もが息を飲んだ。透き通るように白い肌にブルネットの髪をラフに束ね、規定の制服を着ているのに異次元の存在に感じられた。寮長の挨拶の後、代表で言葉を述べたのもキャサリンだった。
「これから五年間、この学園で過ごす日々は、恐らくわたくしたち貴族の娘にとって唯一、自分の心のままに時間を費やせる時ではないでしょうか。どうか、皆様、かけがえのない素晴らしい日々を共に過ごしましょう」
将来の王妃の語る言葉には重みがあった。完全ではないが、全寮制の学園生活はある程度外部の干渉を排除できる場である。つまりが自由だ。特権階級には特権階級の柵がある。まして、幼い頃から王妃教育を受けてきたキャサリンには強く思うところがあるのだろう。
メアリージュンはその挨拶で、益々キャサリンの虜になった。
一方、キャサリンがメアリージュンに興味を抱いたのも同日の夕刻のことだった。
メアリージュンが宿舎の裏手にある庭木の剪定を寮長に申し出たことが発端だ。入寮早々に何故そのような申し立てをしたのか。
「この木は防犯上よくないと思います。ロマノフ様の部屋に侵入できてしまいますもの」
「え」
寮長はこの学園に長く務めている。その木は彼女がこの職に就く前から存在したし、そのような主張を受けたことはなかった。しかし、これまで将来の王妃となる者がこの宿舎へ入ったこともなかった。王族専用の厳重な警備の宿舎を使う為だ。学園内に侵入すること自体が容易でない。その上、木登りして部屋へ入るとは突飛な考えである。杜撰な性格の寮長ならば鼻であしらうところだが、何分、この学園の寮長は神経過敏なのである。庭の枝葉を一、二本、剪定することで解決する問題ならば、とすぐさま学園の庭師を呼び寄せた。急に始まった作業にキャサリンは自室から顔を覗かせる。
「わたしだったら、その枝があれば飛び移れますね」
「これですかね」
恰幅の良い庭師が高枝鋏でじょきじょき枝を落とすことに、メアリージュンが指示を出している。なんとも奇妙な光景にキャサリンは裏庭まで降りていきことの経緯を尋ねた。
「すみません。余計なことを。でも気になってしまって」
「木から部屋まで結構な距離があるように見えるのだけれど、飛び移るなんて可能かしら?」
「はい、試しに自分の部屋に飛び移ってみましたから確かですわ」
「え」
キャサリンが目を見張るも、メアリージュンは剪定する枝葉の分別に忙しく淡々と指示を出し続けていた。
――オーガスタ侯爵家のメアリージュン様……確か学園に入学する為に領地を引き払ってきたとか? けれど、田舎で生活していた割に入学試験の成績はかなり良かったわ。不思議な方ね。
既に同学年の令息令嬢の情報を把握済のキャサリンは、好奇の眼差しでメアリージュンを見つめていた。
メアリージュンはどちらかと言えば地味で目立たない部類に入った。しかし、それは彼女の興味を抱くものと、多くの貴族令嬢達が好むものに剥離があったからである。メアリージュンが好むものは物理学や自然学。一旦好きになったものへの探求心は誰よりも強く、色々なことに独特の拘りを持っていた。友人として付き合うのも、所謂「ガリ勉」と呼ばれる令嬢達ばかりで、ドレスや化粧、流行物に疎く、華やかな社交の場に表立って出ることがなかった。故に、他の令嬢の眼中には入らず埋もれてしまう存在となった。なぜなら、この学園へ通う令嬢達の目的の多くは、できるだけ有望な令息を捕まえて婚約することだったから。その戦線に参加しない者を相手にする暇はない。互いに足を引っ張り合い、いかに令息達と交流を持てるか、が重要視されていた。
一方のキャサリンはどうか。当然に目立つ存在だ。その美貌もさることながら、三つ年上のデイビット殿下がことあるごとにキャサリンを呼び出すのだ。王族専用のサロンでお茶を共にして、必ず花束を携えて寮に戻る姿は、令嬢達の羨望の的だった。そして、キャサリンの元へは、デイビット殿下の側近候補である有能な令息達を紹介してもらう為、下心を抱えた令嬢達が集まってきた。キャサリンはそんな令嬢達に嫌悪感は抱かなかった。貴族の血とでも言うのか。そういう教育方針の元に育ったのだから、ある意味全うに成長していると思った。そして、彼女達が自分の幸せの為に行動しているのが喜ばしかった。一昔前ならば、親の決めた相手と結婚式当日に会い婚儀することが普通だったのだ。学園で自分の好きな相手を見つけられることは素晴らしい、と感じた。尤も、不快感はないが協力する気もなかった。自分の立場上、余計な口添えで忖度され、不幸な恋人達ができたらかなわない。にこやかに公平に将来の王妃らしく振舞っていた。
だが、自分の身近な人物のこととなると話は別だ。思慮分別を備えた淑女といえ、中身は十五歳の少女である。
「デイビット殿下は、なんというか情熱的ね」
「いいように言ってくれて有難う。でも、やり過ぎなのよね。変な虫がつかないかとか心配ばかりして、ちょっと苛々してきたから、そろそろガツンと言ってやらないと。ねぇ、それより、メアリーは好きな人いないの? ジオルド様は?」
「ジオルドはそういうのじゃないから。釣りの師匠? 親友って奴よ」
「えー、でも文通はしているのでしょ? ねぇ、姿絵とかないの?」
「恋人でもないのに姿絵なんてあるわけないでしょ」
メアリージュンとキャサリンの交流は入寮当初、剪定事件以来続いていた。
夜中にこっそりベランダ越しに語らう。メアリーが柵を乗り越えてキャサリンの部屋へ訪れることもしばしばあった。隠す必要はないが、クラスも違うし昼間に接点がない。だから、なんとなく夜にしゃべることが当たり前になり、いつの間にか何でも打ち明け合う間柄へ変化した。メアリージュンは領地での暮らしを、キャサリンは王妃教育の話を、まるでかけ離れた生活を送ってきた二人が、夜中に密談を交わし合う。互いに互いが未知な存在で、好奇の対象で、対等だと思った。二人は友達になったのだ。
そんな中、件のジェニファー偽婚約者計画は実行されていた。
そしてオーランドとは別に、メアリージュンもまたこの画策に共謀している一人だった。
いくらジェニファーに偽りの婚約者ができても、クリストフ辺境伯の耳に入らなければ意味がない。この計画を実行する為に最初に思慮されたのはその部分で、故に頓挫しかけていた。
「ジェニファーお姉様はそこまで思い詰めているのよ」
「じゃあ、クリストフ辺境伯様にその噂が耳に入って、動向が探れる状態ならば実行に移せるわけね」
「正式に婚約発表したら王族の結婚として大々的に新聞に載るでしょうけれど、あくまで婚約者候補ですもの。近隣の領地にいたって王都の噂はそんなに届かないでしょう。クリストフ辺境伯様の所にまで知れ渡るとは思えないのよ。かといって実際婚約したら流石にジェニファーお姉様にも、偽婚約者の方にも汚点となってしまうもの」
「ねぇ、わたし、役に立てるかもしれないわ」
メアリージュンは直接クリストフ辺境伯と面識があったわけではない。ただ、従兄弟が、クリストフ辺境伯の元で書記官をしていることは知っていた。一時メアリージュンの家庭教師をしていた男だ。公務員になる為にずっと勉強をしていた。事務官に空きが出たと知り、遠方にも関わらず就職を決めた。その際、父が推薦状を書いたらしい。随分喜んで移住していったが、メアリージュンは大丈夫なのかと懸念していた。何せその従兄弟は非常に口が軽くかなり噂好きなのだ。公の文書を扱う事務官の仕事が務まるのか。尤も、季節の折々に父にあて名産品だという魚の燻製が届くことで心配は既に払拭しているのだが。
「凄くおしゃべりな人でね。『ジェニファー王女の婚約者が決まったらしいんです。クリストフ辺境伯様も妹のように可愛がっていらっしゃる方だから、お耳に入れば喜んでくださるのじゃないかしら』って書けば、必ず伝わると思うわ」
故に、計画は実行へ移った。
その後、メアリージュンの元へはひっきりなしに封書が届いた。いずれも従兄弟からのもので、
『学園生活は楽しく過ごしているだろうか。勉強にはついていけているかい? 君は優秀だから心配ないだろう』
などなど元家庭教師らしい文章の後、
『ところでジェニファー王女の婚約の件だが、それは事実なのだろうか。憶測で変な噂を流すのはよくないよ。一体、相手は誰なんだ?』
という内容がしたためられていた。それは万事が上手くいっている証拠とも言えた。何往復かの書簡のやり取りののち、小分けにだす情報に痺れをきらしたクリストフ辺境伯は王都まで乗り込んできてサロンでオーランドと対峙することになる。無論、茶会の日時が相手に伝わっていたことも、情報源はメアリージュンである。
かくして、ジェニファーとクリストフ辺境伯の恋は収まるところに収まったのだ。
「有難う。本当にみんなのおかげだわ。でもね、わたくし、絶対に彼と結婚するって思っていたのよ。一目会ったときにね」
ジェニファーが笑顔で語る。とても幸せそうな表情。柔らかく甘い。恋をしている顔だ。メアリージュンは、その時、とても懐かしい母の言葉を思い出した。
「パパとママは赤い糸で結ばれていたの。目を見たときこの人だって一目でわかったの。メアリーもいずれ、運命の人に出会ったらきっとわかるわ」
幼い頃、繰り返し告げられていたが、あまり興味がなかった。それより、山へ入り虫を捕まえ標本を作ったり、川へ入り魚釣りをすることの方がずっと魅惑的だった。淑女なんぞなりたくもない。なぜ、自分は男に生まれてこなかったのか、そればかりが悔やまれた。だけれど、メアリージュンは、その日初めて誰かに恋をしてみたいと思った。
そうしてそれは、すぐに叶うのだ。何故なら、もうとっくに始まっていたのだから。
「メアリーどうしたの? 調子悪いの? なんだか今日はずっと静かだったけれど」
慰労会としてデイビット殿下に招待された夕食会の終了後、寮へ帰る道すがら、キャサリンが尋ねた。デイビット殿下とも初対面ではない。とっくにメアリーの性格は了承済で、いつもは殿下そっちのけで女三人好き勝手な話をする。だが、今日に限り、話題を振っても一言二言返すだけだった。
「オーランド様のこと気にしていたんじゃないかしら。あの方はいつもあんな風だから、別にメアリーまで黙る必要はなかったのよ」
ジェニファーも自分の配慮が足りなかったような言葉を告げる。
「いえ、そうじゃないんです。そうじゃなくって……」
歯切れの悪いメアリージュンに二人は顔を見合わせる。
「わたし、多分、あの方と領地にいた頃お会いしたことがあるんです」
「オーランド様と? まぁ、そうなのね。でも、初めましてって言ってなかった?」
「あの方は覚えていないと思います。いえ、むしろ覚えていらっしゃらなくてよかった」
ジェニファーとキャサリンがまた顔を見合わせるも、メアリージュンは悶絶するばかりだ。
彼女の脳裏には、これまで全く思い出さなかった出来事が色鮮やかに蘇っていた。
七年前、マクドーウェル伯爵家からお茶会の招待を受けた日のこと。本当は山に行きたかったけれど、ジオルドも招待されていると知り、渋々二人で茶会へ出席した。大人達も参加している為、迂闊なことはできない。美味しそうな焼き菓子がテーブルに並んでいたけれど、妙に格式ばった茶会の為、メアリージュンは幼心に「淑女らしからぬ行動をすれば王都の父の顔に泥を塗ることになるのでは?」と手に取ることができなかった。おまけに虫歯治療で甘い物は禁止中だ。食べたいのに食べられず、しょんぼりした態度でいると、理由を知ったジオルドが笑って「代わりに取ってきてやるよ」と裏庭で待つように告げた。しかし、いくら待っても中々戻って来ない。見知らぬ屋敷の人気のない裏庭で独りぼっちで待ちぼうけである。不安でそわそわしている中、足音がした。
「ジオルド! マドレーヌ取ってきてくれた? ママにばれていないよね?」
勢いよく発したが同時に顔が火照った。立っていたのは絵本から出てきた王子様みたいな見知らぬ少年だった。柔らかそうな金髪が風にふわふわ靡いて、切れ長の濃い緑色の瞳が大きく開かれている。メアリージュンは感じたことのない羞恥心に見舞われた。よりにもよってどうしてあんな台詞を吐いてしまったのか。兎に角頭を下げまくりその場を後にした。失敗した、失敗した、失敗した。だから忘れたかった。しかし、その一週間後、今度は親に内緒でこっそり行った朝市で再会してしまう。知り合いの伯爵様に「悪ガキコンビ」と紹介されて泣きたくなった。それから随分後まで伯爵様を恨みに思ったほどだ。ジオルドに何を怒っているのかわからない、と散々言われて、自分でも何に怒っているのかわからず、やがて忘れてしまった。
どうしてあの時、わからなかったのだろうか。そして、どうして今更こんなことを思い出し理解してしまったのだろうか。
メアリージュンはこの日、七年越しで自分の初恋を自覚した。
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