第16話 逸話 知らない物語 -君のためにできること- 1
メアリージュン。
君の言うことはいつも突飛で、それでいて正しかった。だけれど、これだけは間違いだ。
「貴方はいいパパになれるわよ」
私は良い父親にはなれない。
どうすればいいのかさえ、わからないんだ。
*
オーランド・ヒュー公爵令息は無口な子供だった。そして、とても口下手な少年でもあった。頭の回転が悪いというわけではない。だが、昔から思うことを口にできない、或いは、しない質だった。それは、彼の生まれ育った環境に起因しているのかもしれない。
オーランドはありがちな政略結婚の夫婦の元に生まれた。両親共に公爵家の出身で、立身出世主義者の父は仕事人間、母親は華やかな場を好む社交家で、両者共に屋敷にいることは稀だった。必要に応じ夫として妻としての役割を果たし互いが好きに暮らしている。一人息子のオーランドには最高峰の乳母と家庭教師が幾人もつき、物質的に何不自由ない暮らしが与えられていた。また、父親は後継者としてオーランドに多大な期待を寄せていたし、母親もお茶会で聞き齧る教育論を説いては気紛れに可愛がった。暖かな家庭ではないが、ギスギスしているわけでもない。三人揃えば同じ食卓で食事をとり、体調が悪いと聞けば心配し、三者三様に独立した生活を保ちつつ家族関係を形成している。オーランドはそれが普通だと思っていた。故に、自分の思いを人に伝えようとする考えが育たなかった。自分のことは自分がわかればそれでよい。彼の根底には自身でも気づかぬうちにそんな思考が根を張っていたのだ。
彼に転機が起きたのは十一歳の時だ。
大叔父の孫にあたるユリウス・マクマイヤー伯爵の元に遊学することになった。当時王太子であったデイビット殿下が領地に赴き、ひと夏を過ごしたことがきっかけで、貴族達の間で息子を田舎へ遊学させることが大流行した。将来、デイビット殿下の側近にさせる備えとして、同じ体験をさせておこうという思惑が犇いていた。当然、ヒュー公爵夫妻がその流れに遅れをとるはずはない。オーランドは会ったこともないユリウス伯爵の元へ来訪することになったのだ。
ユリウス伯爵は侯爵家の次男坊であるが田舎貴族のマクマイヤー伯爵家の長女と恋に落ち婿に入った。マクマイヤー家は、伯爵位を有しているが土地は保有していない。ユークリス侯爵家の右腕として長年仕えている家系だ。当然にユリウス伯爵も、ユークリス侯爵の元で文官として働くことになった。代々高位貴族として名を馳せるヒュー一族の中では異端児だ。だが、他に近場の領地で暮らす適任な親族がいなかった為、ヒュー公爵夫妻は彼に息子を託した。
ユリウス伯爵は結婚して三年になるがまだ子宝に恵まれず、オーランドを大歓迎で迎え入れた。
ユリウス伯爵から見たオーランドは、まさしく「貴族らしく」と英才教育を施された子供そのものだった。穏やかに微笑みを保ち、ざわざわと落ち着きなく浮ついた様子がない。ヒュー公爵夫妻が望むだろう理想的な子供。もちろんそれが悪いことではない。話をすれば利発であることはわかったし、公爵家を継ぎ国の為政者となることが確約されている子である。将来苦労をしないように幼い頃から立ち居振る舞いを身に着けさせることは親として当然だろう。しかし、今しか得られない子供の時分の楽しい思い出というのも必要ではないか。豊かな経験は豊かな心を作る。ユリウス伯爵は、王都で屋敷に籠り勉強ばかりしているオーランドを外へ連れまわした。牧場や果樹園で農民の生活に触れさせ、渓流下り、山登りと自然の中へ放り込んだ。恐らくヒュー公爵夫妻の望むことではなかったが、オーランドにそれをしてやれるのは自分しかいないと思った。対するオーランドの反応は、実に曖昧なものだった。誘えば何処へでもついて来るが、自ら進んで発言することはなく、ユリウス伯爵が不在の時は、部屋で読書していることが殆どだった。外遊びが嫌いな子供も存在する。自分のしていることは単なる押し付けなのか。ユリウス伯爵が悶々と悩んでいる中、マクドーウェル伯爵の茶会へ招かれた。
ユークリス侯爵領は多くの貴族の別荘地として賑わう領地だ。マクドーウェル伯爵も、王都から毎年避暑に訪れる。ユリウス伯爵とは懇意ではない。だというのに今年に限り別荘地に滞在する貴族達を集めて大規模な茶会を開いた訳合は、将来有望株の貴族令息達がこぞって遊学していることに他ならない。
「オーランド、行ってみるか」
「はい」
ユリウス伯爵自身は気乗りしなかったが、かなり大々的に催される茶会である。手前勝手な好悪でオーランドが除け者になっては困る。止む無く参加の返事をしたためたが、結果としてこの判断は英断だった。オーランドのその後を大きく変えることとなるのだ。彼の生涯唯一の恋人との出会いをもたらしたのだから。
マクドーウェル伯爵の茶会の席は、実に退屈な貴族同士の社交場そのもので、延々続く儀礼的な挨拶にオーランドは生真面目に対応し続けていた。公爵家の嫡男に群がる大人の姿に胸焼けしたユリウス伯爵は、オーランドを呼び出し、
「疲れただろう。少し休憩しなさい」
と告げるも、
「大丈夫ですよ」
とにこやかに返った。自分より遥かに貴族社会の在り方を知っているらしい。オーランドの慣れた様子にユリウス伯爵は苦笑いになった。だが、聡明なオーランドはユリウス伯爵の意図する心遣いを汲み取り、人気のない場所に身を寄せることにした。しかし、他人の屋敷を無闇にうろうろも出来ず、雑踏を離れる為の選択肢は裏庭へ回ることくらいだった。殺風景でおおよそ客人を招き入れる場所ではない。見られることを想定していない場所へ踏み入ってよいものか。オーランドが思考を巡らせて歩いていると、足音に反応したらしい声が飛んできた。
「ジオルド! マドレーヌ取ってきてくれた? ママに見つかってないよね?」
「え」
鉄柵格子の外壁に連ねて生い茂る目隠しの植木の合間から少女が顔を覗かせる。少女は靴音の主が自分の待ち人でないことに途端に顔を赤らめた。
「すみません。あの、すみません」
あわあわと繰り返し頭を下げる。余程恥ずかしいらしい。オーランドより頭一つ分背が低く、日に焼けた血色のよい肌に翠緑の瞳がとても映える。オーランドの知る貴族の令嬢達はみな青白いまでの肌色であるから、とても印象的だった。
「いや、驚かせてすまない」
オーランドが答えると少女はやはりぺこぺこと謝り、自分が来た方向とは逆へ足早に去って行った。
本日、この屋敷に呼ばれているのだから少女も貴族の娘なのだろう。挨拶もなく立ち去るとは不躾だが、不快感はなかった。
「……マドレーヌ」
母親にお菓子を止められていて、執事にでも持ってくることを頼んでいたのだろうか。わざわざこんな人気のない茂みに隠れて。想像すると可笑しい。オーランドは少女に興味を持った。しかし、その後、幾ら探しても少女の姿を見つけることはできなかった。
オーランドが少女を再び捉えたのは町の市場だった。ユリウス伯爵に誘われて朝市を見学しに行った先だ。
毎朝、近くの漁港から引き上げられる新鮮な魚介類の卸売で賑わっている。ユリウス伯爵は王都では体験できないことをなるべくさせてやる算段で赴いた。貴族の子供が出入りする場所ではない。だが、そこに少女の姿を見つけてオーランドは驚いた。
「ジオルド! メアリーちゃんも一緒か!」
そしてユリウス伯爵が突然声を掛けた為、オーランドは身体を硬くした。緊張で胸が鳴る。何故そうなのかはまるで不明だった。
「ユリウス伯爵、おはようございます」
「君達だけか?」
「いえ、家の者と一緒です」
ジオルドと呼ばれる少年が気まずそうに答える。家の者とは妙な言い回しだ。恐らく親に内緒で使用人にくっついて来たのだろう。ユリウス伯爵は、
「君らは本当に……」
と溜息まじりに返すと、
「これはうちの親戚の子だ。オーランドって言うんだ」
と後方にいたオーランドを示すように振り向いた。普段ならさらりと定型文の挨拶を交わすオーランドのあっけに取られたような様に、ユリウス伯爵は笑った。王都で品行方正に暮らすオーランドにとって、自分と同じ年頃の子供が市井をうろつくことは信じられないことに違いない。
「こいつらは、ジオルドとメアリー。ニコイチの悪ガキコンビだ」
ユリウス伯爵があまりに簡略して紹介をするので、オーランドは更に困惑した。二人が、
「初めまして」
と頭を下げるのに、かろうじて会釈を返すことしかできずにいた。そして「初めまして」と言われたことにひどく打撃を受けた。先日の茶会のことは忘れている。それとも最初から覚えていなかったのか。ほんの一瞬のことだ。仕方ない。だけれど途方もないほどがっかりして、どうしてそうなのかよくわからないことにもやもやした。
「じゃあ、オレらはもう行くから。ここで会ったことはなかったことにしてくれ!」
ジオルドは捨て台詞を残しメアリーを引き連れて去って行く。
「しょーがないなぁ。あんまり無茶するなよ!」
ユリウス伯爵の言葉に二人は振り向かず人混みへ消えた。オーランドは結局一言も発せられないままだった。
「まぁ、あの二人はあまり見習ってくれるな。公爵夫妻に首を絞められかねん」
ユリウス伯爵は肩を竦めるが、オーランドは既に見えなくなった二人に視線を向けたままでいた。ただ、忘れなければ、と思った。オーランドは何も始まる前に失恋したのである。自分自身ですら気づかぬうちに。
これがオーランド・ヒュー公爵とのちに彼の伴侶となるメアリージュンの出会いだ。この時、二人が出会っていなければ、オーランドの心に暗い影を落とすことはなかった。しかし、あの日出会っていなければきっと恋をしなかった。
ここ二十年で貴族社会の教育制度が見直され、十五で入学し十八で卒業することとなっている。だが、オーランドが学園で学んでいた当初は、男子学生は十五で入学二十歳で卒業というのが一般的だった。女子学生も同様であるが、その多くは在学中に結婚をして退学する為、卒業まで残っている者は行き遅れと後ろ指をさされた時代だった。
学園は全寮制で、隣接した建物だが男女は完全に分離されていた。しかし、令嬢達は卒業までに結婚相手を探さねばならない。故に、定期的に催される男女合同のお茶会、ダンスパーティー、学園祭などは学校公認の出会いの場として大いに盛り上がりをみせた。
オーランドは学園に入ると優秀な頭脳を遺憾なく発揮し、常にトップの成績を誇ったが、生憎スポーツは得意ではなかった。両親には同じ歳で同学年であるデイビット殿下と懇意にするよう執拗に説得されていたが、クラスも違う上、陽気な性格で勉強より剣術や馬術を好むデイビット殿下とは交流をもつ機会がなかった。しかし、そんな二人は、入学して三年目の春、ある画策を共謀したことで、親交を深め強い信頼関係を築くことになる。オーランドはデイビット殿下の二つ歳下の妹ジェニファー王女の婚約者候補を務めることとなったのだ。カムフラージュとして。
当時、ジェニファーは九歳歳上のクリストフ辺境伯に執心していた。十五歳と二十四歳。二人は幼い頃からの知り合いで、クリストフ辺境伯はジェニファーを妹のように可愛がっていた。だが、恋愛感情を抱いていたかといえば皆目で、ジェニファーの一方的な片思いと言えた。
ジェニファーは学園に入学するとその麗しい美貌と王族の姫君という肩書から多くの令息達の心を捉えた。求婚をする者が後を絶たなかったが、ジェニファーは一顧だにせず拒絶し続けていた。だが、一年経過した頃、女好きと名高い他国の王子までが参戦してきたことで事態は深刻化した。正式な婚約の申し入れでないうちに手を打たなければ外交問題に発展しかねない。そこへ白羽の矢が立ったのがオーランドだった。爵位もあり美男子で、馬鹿がつくほど生真面目で誠実。浮いた噂はなく恋愛に興味なし。仮に万が一ジェニファーの婿になったとして文句なしの男だ。デイビット殿下は突如としてオーランドの宿舎へ訪ねて行った。オーランドは内密な話があると告げられ息を飲んだ。自分は一体何をしたのか。
「君に折り入って頼みたいことがあるのだが、君には好きな女性がいるか?」
「はい?」
あまりに予想しない質問にオーランドは間の抜けた返答をした。その様子にデイビット殿下からは笑いが漏れた。失礼な話だが、想像より遥かに人間らしかったのだ。
「もし、意中の相手がいないのなら、私の妹の婚約者候補の振りをしてくれないだろうか。妹には好きな男がいるんだが、問題ある相手でね。君には虫除けを頼みたい」
貴族とは腹の内を探り合い少ない情報から相手の真意を汲み取る能力が必要だ。オーランドもそういった教育は受けてきた。だというのに色恋沙汰になると培われた動線がぷっつり断絶して思考が及ばなくなる。仮に自分が婚約者の振りをして周囲の男からの虫除けになったとて、その先に何があるというのか。問題のある男とは爵位的なことか。
「追えば逃げる、逃げれば追うというのが人情だろう?」
デイビット殿下がにやついて言う台詞に輪をかけて混乱したが、結局わけもわからないままに申し出を受け入れたのは、オーランドにとっても有難い打診だったからだ。両親からジェニファー王女争奪戦へ加わるように再三手紙が来ていた。寮生活であるから直接顔を会せない為、のらりくらりと誤魔化していたものの、次の夏季休暇に屋敷へ帰ればどうなることか。オーランドはいずれ何処かの令嬢を娶り両親と同じような家庭を築くことを薄ぼんやり想像していたが、それより今は勉強が楽しい。煩わしい色恋の諸々云々に頭を悩ましたくなかった。両親待望のジェニファー王女の偽装婚約者候補の申し出とは願ったり叶ったりであるし、オーランド自身にとっての虫除けにもなる。オーランドもまた行事の度に女子学生達に付き纏われ辟易していたのだ。かくしてオーランドは、しばしばジェニファーとデイビット殿下、その婚約者であるキャサリンとの会合の席に赴き、さも婚儀が内定したように見せかけることとなった。
そうして半年経ち、不都合はないがこの嘘はいつまで続くのかオーランドが考え始めた頃、異変は起きた。クリストフ辺境伯である。これまで盲目的に自分に好意を寄せていたジェニファーに正式ではないが婚約者としてかなり有力な候補ができたと耳にし、領地から王都へわざわざ来訪した。それも、どう情報を仕入れたのか、学内にある王族専用サロンにてオーランドを伴った恒例の茶会を開いているときを見計らい訪ねてきたのだ。
「オレもこの学園の卒業生でね。懐かしいから寄ってみたんだ」
尤もらしい言い訳を並べるが、鋭い視線がオーランドに向けられていた。査定するように注視するも、生憎オーランドには何らの欠点はない。公爵の爵位を持ち、成績優秀、周囲からの信頼も厚く、年もジェニファーと二つ違い。何よりデイビット殿下の無二の親友であり直々に仲を取り持たれたという噂だ。おまけに実際に会えば、すらりとした長身で端正な顔立ちの美男子ときている。文句のつけようがない様にクリストフ辺境伯の瞳には失意の色が見えた。一方、初対面である為、オーランドはクリストフ辺境伯の敵意ある眼差しを「眼力が強い人物」と解釈した。恨まれる理由など皆目見当がつかなかった為である。それよりジェニファーがやたらに話題を振ってくることに違和を感じた。普段、この茶会の席では聞き役に徹している。なぜ今日に限り自分のことをあれやこれや話題にするのか。口が重い為に返答に困った。だから、デイビット殿下とキャサリンが目配せしていることには気づかなかった。
ジェニファーとクリストフ辺境伯の婚約が内定したのは、それから一月後のことだ。
晴天の霹靂。オーランドは柄にもなく、
「何故です!?」
と叫んで、デイビット殿下を苦笑いさせた。
「そんな風にはまるで見えませんでしたが」
「あ、うん。そうだな」
デイビット殿下の奥歯に物の挟まったような言い方にオーランドは疑念を感じるも、知人の婚約はめでたいものだ。すぐさま姿勢を正し祝福の言葉を述べた。そして、
「では、私はお役御免ですね」
と続けて言った。
オーランドはその時、十八になっていた。ジェニファーが他の男と結婚するとなれば両親が黙っていないだろう。王女であるジェニファー相手では強引に婚儀を進められないが、他の令嬢ならば話は別だ。公爵家から話をもっていけばまず断られることはない。強引に何処かの令嬢と見合いを勧められる、とうんざりした気持ちになった。だが、意外にも偽婚約者は続行となった。王陛下がジェニファーとクリストフ辺境伯に突きつけた結婚の条件が、現在クリストフ辺境伯が推し進めている荘園の改革を成功させることだったからだ。早く見積もっても一年は掛かる。その間、ジェニファーとの謁見も禁止された。王陛下は溺愛する娘のたっての頼みに渋々折れたが、辺境地に嫁がせることには反対だったし、公爵家で有能なオーランドを娘婿にして、デイビットの参謀として仕えさせたい意向があった。王陛下は偽装婚約を知らない為、突然のジェニファーの心変わりを一時の気の迷いで、離れている間にオーランドへ気持ちが戻るはずと淡い希望を抱いていた。だから、下手に偽装がバレて、他の男を宛てがわれたら厄介なことになる。オーランドが諦めずにジェニファーにアプローチしている事実が必要になったのだ。
「オーランド、君には迷惑を掛けるな。しかし、クリストフ辺境伯は有能な男だから安心してくれ。君には何か礼をせねばならんな」
王陛下の企みを十分に理解しているデイビット殿下は申し訳なさそうに言ったが、オーランドとしては有難いだけである。ただ、恋愛結婚というのも色々大変なのだな、と他人事そのものに、
「いえ、私も煩わしいことに悩まされずにすみますので」
と返した。
しかし、明日は我が身である。
「そうか。まぁ、取り敢えず目的は果たしたからな。慰労会というのはどうだろう。晩餐の席を設けようと思う」
オーランドはデイビット殿下に招待された夕食会にて、思わぬ再会を果たすのだ。
「オーランド様、今日はわたくしの友人の令嬢も招待しておりますの」
その日、遅れてサロンへやって来たキャサリンは、デイビット殿下とジェニファーに軽い挨拶をするとオーランドに向けて言った。オーランドは一瞬、嫌な予感がした。デイビット殿下が「礼をしなければ」と言ったことが脳裏を巡った。女性など紹介されても困るのだ。しかし、優美に微笑むキャサリンの声掛けと共に後方からサロンへ入ってきた女学生を見てその思いは吹き飛んだ。同時に、跳ね上がるように席を立ったものだから、隣にいたデイビット殿下がしゃくりあげた。
「! オーランド、どうしたんだ?」
デイビット殿下が尋ねるも、オーランドにはその声が完全に遮断されていた。内心が混沌としてざわざわと落ち着かない。思考力が完全に停止して、ただ無言のまま一点を凝視していた。女学生がデイビット殿下とジェニファーにカーテシーをし、オーランドに姿勢を向けた頃合いを見計らいキャサリンが口を開いた。
「こちらはわたくしの友人、侯爵家のメアリージュン・オーガスタ嬢ですわ」
紹介を受けたのに返答ができない。元より口が達者でないが、かつてなく自分に舌打ちしたいほどもどかしい気持ちになった。不穏に間の空いた時間ができた。デイビット殿下が、場を取りなそうと発言する寸前で漸く、
「公爵家のオーランド・ヒューといいます。初めまして」
オーランドは小さく声を発した。初めまして、とわざと付けたのは無意識の防波堤だった。また傷つきたくない。何に傷つくのかもわからなかったが。
「……紹介に預かりました。侯爵家のメアリージュン・オーガスタです。本日は皆様の集まりに参加させていただき光栄です」
柔らかに微笑んで先程同様に淑女らしくカーテシーをする。
悪ガキコンビ、とユリウス伯爵が告げた単語からは想像できないものだった。七年前のことである。当然と言えば当然で、子供から淑女に成長するには十分な時間だ。
メアリーは愛称だったのか。
侯爵家とは思わなかった。
笑った顔を初めてみた。
こんな声だったか。
色が白くなった。
翠緑の瞳はそのままだ。
オーランドの内心は目まぐるしく動いていたが、表情に出ないのが彼が彼である所以だ。
メアリージュンは、既にデイビット殿下、ジェニファーとは顔馴染みらしく、オーランドを除き場は終始和やかに軽口が飛び交った。オーランドがしゃべらないことは常時のことだ。誰も気にせず会話は進むが、円卓で斜め向に座るメアリージュンだけは、ちらちらとオーランドを気にする視線を投げた。
目が合うたび鼓動が跳ねる。食事姿を見られたくないような変な気分に叫びたくなる。自分のことは自分が一番理解しているはずが何もわからない。意味不明。底の知れない不安に腹底をぎゅっと掴まれて呼吸が苦しい。メアリージュンと関わるのはよくない、と激しく制止する一方で、何か気の利いた言葉の一つでも掛けろ、と叱責する自分が存在する。背中に冷や汗を感じながら、二時間の会食中、オーランドの発言は、
「はい」
「いいえ」
「そうですか」
の三音に留まった。そして、その会話の内容について殆どがオーランドの意識に上がってこなかった為、この後、彼を苦しめることになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます