第15話 悪い子
お茶会の当日になってもパパは迎えに来なかった。
事故や事件に巻き込まれた可能性より、急な仕事が入ったのだと予測した方がはるかに合理的だ。オーランド・ヒュー公爵は元々土日も休まず仕事をするのが当たり前の人間なのだから。そして、わたしは、
「仕事とわたしどっちが大切なの!?」
と駄々を捏ねるうざい女属性ではない子供だ。外せない仕事が世の中にはある。知っている。
おばあ様は気まずそうにしていたけれど、招待状を持ってマリアンヌとユリウス伯爵の屋敷へ向かった。パパが何をどう説明してお茶会へ招待してもらったのか分からない手前、領地にいるわたしまでドタキャンするわけにはいかない。父は来られないのだとしっかり挨拶して、公爵令嬢としての責務を果たす必要があった。
「旦那様はお忙しいのでしょうね」
「うん。無理して先週も来てくれたんだね」
わたしが明るく返してもマリアンヌはぎこちない笑顔を浮かべていた。
ユリウス伯爵の屋敷は馬車で三十分の場所にあった。閑静な別荘地の一角だ。
大きな庭が敷地を囲う細い鉄格子の合間から窺い知れた。門扉の前に馬車を止めると、屋敷の門番が歩み寄ってきた。招待状を見せると中へ誘われ、そこから執事の男性が庭園の方へ案内してくれた。立食形式のようで大きなテーブルが五脚設置され、軽食が並べてあった。その周囲では既に二十人ほどの人が談笑をしている。
執事はわたし達から離れると、恐らくユリウス伯爵だろう恰幅のよい男性に声を掛けた。男性はすぐにわたし達の所へ挨拶に訪れた。
「ようこそ、サラちゃん。随分お姉さんになって、見違えたよ。おじさんのこと覚えているか?」
王妃教育で散々躾けられたカーテシーが日の目をみる、と用意万端な面持ちでいたけれど、百合子が田舎へ帰った時の親戚のおじさんと同じ挨拶を受けて当惑した。
こっちは八歳以前の記憶があやふやで悩んでいる。覚えているわけなどないし、前前世のサラちゃんの記憶の限り登場していない人物だ。十中八九ユリウス伯爵だろうけれど、状況証拠を元に答えてよいものか。まごまごしている間に、ユリウス伯爵が付け加えた。
「まぁ、覚えてないだろうな。まだよちよち歩いていた頃だから」
そんなんわかるかーい、と盛大に突っ込みたい気持ちを呑み込んで、
「本日はお招き頂き光栄です。父は急用で来れなくなりました」
とちゃんと儀礼的な挨拶だけはしておいた。
「これは失礼した。立派な淑女に礼儀を失してしまったな。改めまして私はユリウス・マクマイヤーだ。オーランドは相変わらず忙しそうだな」
ユリウス伯爵は豪快に笑った。公爵で宰相のパパを易々とファーストネームで呼び捨てにするのだから余程親しいのだろう。どういう関係なのか。わたしもサラちゃんもオーランド・ヒュー公爵について何も知らないのだなと実感する。どうしてこんな風になってしまったのか。パパと向き合うと決めてから、自分自身の記憶があやふやなことを必死に考えている。マールのことがあって、自分の味方をしてくれない父に嫌悪感を募らせていったはずだ。では、なぜまだ八歳の現状でこんなによそよそしいのか。ママのことがすっぽり抜け落ちていることも違和感だ。四歳だったから単純に覚えていないのか、もしくは、思い出さないようにしてきたから故意に忘れてしまったか。百合子だった時「思い出さない練習」を繰り返せば頭に流れてくる嫌な記憶を消去できる、と聞いたことがある。でも、ママの記憶は嫌な思い出じゃないはずだ。ママが死んだことが嫌だったから全部忘れたかったのか。納得いくけれど、そんな風に思考が流れるだろうか。忘れないように覚えておきたいのではないか。わたしだったらママのことを絶対に忘れたくない。四歳のわたしもわたしじゃないか。だったら何故忘れようとしたのか。理にかなわない。結局堂々巡りで、わからないという結論だけが残る。
「サラちゃんと同じ年くらいの子達が来ているから紹介するよ」
ユリウス伯爵はわたしの背中をぐいぐい押して奥のテーブルへ誘う。マリアンヌは「控えています」と庭園の隅へ下がって行った。
「ユリウス伯爵様」
「親戚なんだから、おじさんでいいよ」
え。血縁者なんですか、と聞き返しそうになった。何も教えられずにいることが恥ずかしい。パパの親戚は祖父母をはじめとして、つんけんしたお貴族様ばかりで苦手だ。ユリウス伯爵は随分毛色が違う。感情を露にしないのが貴族の基本だから、ユリウス伯爵の方が異端とも言える。
「ユリウスおじさん」
「なんだい」
「パパってどんな人?」
ユリウス伯爵はちらりとわたしの顔を覗き込むと、悪戯を仕掛けるみたいに笑った。
「真面目も真面目、大真面目。法律が服着て歩いているような奴だろう」
「そうかな。あまりわからないの」
「久しぶりに連絡を寄越したと思ったら、急にお茶会に招待してくれと言うので驚いたよ。その理由がサラちゃんだということにもね」
「パパが無理を言ったの?」
「いや、おじさんの趣味だ。サラちゃんが来てくれてとても嬉しいよ。オーランドも来たかっただろうに」
ユリウス伯爵はパパがわたしを可愛がっている口振りで告げる。来たかったかどうかは知らない。でも結局来なかった。わたしの為、わたしの為、パパはわたしに甘いのだ、と周囲の人は言うけれど、それはないとわたしは思っている。だってみんなは知らない。知らない? 何を? また、だ。パパのことを考えるとわからないことだらけで、もやもやする。パパの行動もわからない。王都にいるときは、一人ぼっちでも放置していたのに、領地に来たら急に友達を作らせようとしている。何故急にお茶会に参加させたのか。
「やぁ、みんな。楽しんでいるか。この子も仲間に入れてやってくれ。サラちゃんって言うんだ。子供は子供同士で仲良く遊びなさい」
ユリウス伯爵は、入り口から一番奥のテーブルまで行くと、わたしを雑なほどフランクに紹介した。少女が三人と少年が四人いる。皆、思い思いに話をしていたけれど、ユリウス伯爵の声に一斉に視線が集まる。畏まってカーテシーをするのは違う気がしてまごついてしまう。
「サラ・ヒューです」
情けなくも蚊の鳴くような声でかろうじて言葉だけの挨拶をする。それに応じてみんなも順に名前を名乗ってくれる。向こうは全員知り合いで、わたし一人を覚えればいいが、こっちは一度に七人覚えなければならない。名前を間違えたらとても失礼だ。この間のお茶会と全く同じことを考えている自分がちょっとおかしかった。聞いた名を何度も頭の中で反芻させていく。だから、
「どうも。ノエル・マカリスターです」
四人目の順番が来るまで全く気付かなかった。目を見張るわたしにノエルは黙って笑顔を向けてくる。信じられない。どうしてここにいるのか尋ねたい衝動をかろうじて抑えこんだ。他の子の挨拶を遮れない。それで完全にタイムミングを逃してしまった。挨拶を終えると三人の少女達に囲まれた。マール・グラン王太子の婚約者が来ると噂になっているらしかった。少女達は興味津々に話しかけてきた。
「殿下は普段どんな風ですか?」
「絵姿を見たことがあるけれど素敵ですね」
「サラ様ととてもお似合いです」
これまで言われたことのない言葉が耳を掠めた。前前世ではマールに冷遇されるから、周囲にマウントをとられていたけれど、普通はこの反応が然るべきだろうよ、と憤然と思ってしまう。でも、無邪気なのか、怖い物知らずなのか、少女達の質問があまりに私的な事に及んで困った。王子のプライベートをぺらぺら語るわけにもいかず、かといって「知らない」と返答すれば総スカンを食らうだろう。女子というのはそういうものだ。困惑する中、いい塩梅で助け舟を出してくれたのはノエルだった。
「サラ嬢、僕の父親がきみに挨拶したいって。きみの母親と幼馴染みだったそうだよ」
「あ、はい」
あくまで初対面の体を通すつもりなのかと思いきや、
「きみって案外猫っかぶりなんだね」
二人になるといつもの調子で話を始めた。
「来るなら来るって言ってくれればいいのに」
「急いで帰って交渉したんだ。ヒュー公爵を見たかったからね」
「もしかしてこないだの急用?」
伯爵家のお茶会に男爵家が容易く参加できるのか。わたしの疑問を察したように、ノエルはにやりと笑うと右方向を指し示した。ジオルド男爵とユリウス伯爵がげらげら笑っている。二人が気の合いそうなことは醸し出す雰囲気からもわかる。
「仲がいいんだね。うちのパパは仕事で来れなくなったの」
「らしいね。大人達ががっかりしていた」
わたしも入ってきた時は幾人かの大人の目が気になっていた。ロリコンなのかと思ったけれど、パパと繋がりを持ちたい人達だと気づいた。わたしと話す機会を伺っているようだった。でも、今は視線を感じない。ユリウス伯爵が「子供は子供同士遊ぶのがいい」と声高に告げてくれたおかげだ。多分、予防線を張ってくれたのだ。主催者の意向を無視できず、パパも来ないことがわかり諦めたらしい。ユリウス伯爵は細やかな気配りをしてくれるとてもいい人だと思った。
「ねぇ聞きたいことがあるんだけど。こないださっさと帰るから聞けなかった」
「何?」
「小さい頃の記憶っていつからある?」
「また漠然としたことを聞くね。断片的になら二歳の頃かな。屋敷の柱時計をこれ何かなーってぼんやり見ていたことは覚えている」
「二歳? 赤ちゃんじゃない!」
「二歳児は赤ちゃんじゃないと思うけど」
ノエルが冷静に返すのでそれ以上反発はしなかった。参考にする相手を間違えたのだ。仕方ない。他の子に聞いてみようか。急に変な質問すぎるだろうか。
「今度は何を悩んでいるわけ?」
きょろきょろと辺りを見回すわたしの心中を推し量るようにノエルが面倒くさげに言う。ノエル曰く、現状のわたしは何も始まっていないのに、濡れ手に粟を目論んで骨折り損のくたびれ儲け状態らしい。なんだかよくわからないが、とにかく失礼だ。
「自分のことが思い出せないの。記憶が戻る八歳以前の記憶。サラちゃんでも百合子でもないわたしの記憶」
「サラちゃんとごっちゃになっているんじゃない? 記憶が戻る前は同じ人生歩んできたんだろ」
「サラちゃんの記憶もない。マール様と昔よく遊んで仲が良かったことくらいしか覚えてない」
「じゃあ、元々きみは、八歳にしてそれ以前の記憶は覚えていない人間なんだよ」
そんな馬鹿な。八十まで生きた人間が五歳や六歳の頃を思い出すわけじゃない。一、二年前の話だ。他人事だと思っていい加減なことを言ってくれる。
「なんか変な感じなの。盗まれたみたいに思い出せない」
「盗まれた? 誰にだよ」
「たとえよ」
「わかってる。冗談だよ。思い出そうとするから思い出せないのかもよ。意識しなくなったころにぽろっと思い出すってうちの父親がよく言ってる」
それって年齢的なやつじゃないか。わたしがむっとしたのに気づいてノエルは肩を竦めた。
「それ思い出したら何かあるの?」
「思い出さないとパパと不仲なわけがわからない気がするの」
「不仲って、きみが一方的に嫌っているだけだろ。往復六時間もかけて毎週会いに来てくれる親なんてそうそういないと思うけど?」
「わたしが?」
確かにこの間までやり返すことしか考えていなかった。今は歩み寄る気がある。根本的に変われていないということか。第一印象は覆らない的なやつ。自分の親に第一印象もないのだけれど。
「まぁ、こういう時は身体を動かすといいんじゃない? そろそろ時間だから」
「何?」
「僕が普段ユリウス伯爵のお茶会に来ない理由」
顔を歪めるノエルと同時に、
「よーし! じゃあ、子供達は裏庭で遊ぶか!」
ユリウス伯爵の陽気な声が響いた。
何が始まるのか。みんな勝手知ったるようで、ノエルは嫌々だったけれど、他の子供達は意気揚々とユリウス伯爵について行く。
「行けば分かるよ」
何処に行くのか聞いても、ノエルはつれなく言うだけなので、諦めて一番後方にくっついて歩く。ガーデンパーティが催されている場所から屋敷の周りを半周。目に飛び込んできた光景にびっくりした。立派な遊戯場が設置されている。滑り台にブランコ、シーソー、鉄棒、雲梯、平均台や砂場まで揃っている。全部木製みたいだけれど、結構がっしりした本格的な作りだ。
「ここって公共の建物?」
「ユリウス伯爵夫妻には子供がいなくて、近所の子供を集めて遊ばせるのを生きがいにしているんだ。子供達を喜ばしてあげよう、楽しませてあげようって段々加速して、その結果だよ」
わたしの囁きに対してノエルは説明をした後、更に付け加えた。
「外で遊ぶのが好きな子供ばかりじゃないと思わないか」
ノエルの見つめる先にはジオルド男爵の姿があった。ユリウス伯爵だけでは監視の目が行き届かないからか、ジオルド男爵も一緒に裏庭へ移動してきていた。
まだしていなかった挨拶をしに行くと、
「僕らの頃にはこんな遊具はなかったから、木に登ったり、魚を獲ったり、もっと野性味のあることをしていたんだけどな。その分危険もあったけどね。ここなら安全だから、サラちゃんも遊んでおいで。ノエルもな」
とにこやかに告げられた。子供は外で遊ぶべきという教育方針なんだろう。いいお父さんに見えるけれど、ノエルにとっては地獄だ。書斎に籠って日がな一日仕事をしているうちのパパとノエルなら上手くいくのかも。だから、ノエルを養子に取ったのだろうか。
「ねぇ、ノエル。川には絶対行っちゃ駄目だからね」
急に思い出した。まだ終わっていない最重要項目だ。不安になって念を押す。切迫するわたしの思いをよそに、
「それはきみのお陰で行かなくて済むと思うよ。でも、今日はきみのせいで元気よく遊ばなければならない」
とノエルは答えた。「僕もたまにはユリウス伯爵の所へ行ってみんなと遊びたい」とか言ってここへ来る口実にしたのだろう。別にわたしのせいじゃないじゃないか。
結局、ノエルは渋々男の子の輪の中へ、わたしはドキドキと女の子の方へ混じった。マールのことをまた聞かれたら嫌だなと思ったのは、声を掛けた直後だけだった。遊び始めると公爵も伯爵も男爵も関係なかった。「サラ様」から自然に「サラちゃん」に変わっていたし、ただの八歳児になっていた。スカートを気にすることなくブランコに乗り、シーソーにまたがる。鞄を投げ捨てて、自由気ままにわけのわからないルールを作って遊んだ小学校の放課後みたいだった。王都だったらありえない光景だ。子供でも徹底して階級教育を施される。幼いうちから淑女の嗜みを教えこまれスカートで駆けずり回るなど反省文十枚案件だ。おばあ様がママを田舎で育てたがった理由が理解できた。田舎と王都じゃこんなにも違うのか。もし今日ここにパパがいたらわたしはこんな風に遊ばせてもらえただろうか。帽子も置いて来た。眩しいけれど、前髪が圧迫されて額に張り付かなくていい。でも、それが良くなかった。ブランコってこんなに楽しかったっけ。あれ、少し頭痛がするな。そう感じた瞬間、身体が震えて意識が途絶えた。
声が聞こえる。怪獣が倒される時みたい。とても悲痛。神経を掻きむしられるような叫び。
こっちへ来いって呼んでいる。だけどわたしは振り向かない。手を伸ばさない。うるさい、うるさい。もう黙れ。嫌だ。とても不快。いい加減にしてほしい。嫌だって、嫌なんだって、だから————……
目尻に涙の後を感じながら瞳を開けると暗かった。怖い夢を見た気がする。おばあ様の屋敷に戻って来ていた。いつも眠っているベッドに寝かされている。夜中かと思ったけれどカーテンが閉められているだけで、多分夕方だ。カーテンの裾からオレンジの光が少しだけ入って床を照らしている。額の上の生温いタオルを手に取りサイドテーブルに置く。その少しの動作だけで、身体がとても気怠かった。熱中症だろうな、と思った。本当は遊んでいる最中に頬が少し熱かったけれど浮かれているせいにした。みんなは普通だったし、平気だ、気のせい、まだ夏前で、日本の灼熱の太陽に比べれば大したことない、と安易な判断をした。自分が日頃出歩かない小さな女の子であることを失念していた。比較した「みんな」が地元の子供達で、わたしとは基礎体力が違うことも考えなかった。帽子を被れとしつこく言われていた意味を身をもって知って、浅はかな自分が情けなかった。きっと色々な人に迷惑を掛けた。同時に気を失った後、お茶会はどうなったのか不安になった。自分の立場というのが怒涛の如く襲ってきた。王太子の婚約者で公爵令嬢のサラ・ヒューがお茶会の席で倒れれば責任問題になるのではないか。罰を受けるのはユリウス伯爵なんじゃないか。わたしの自己管理ができていないせいで、とんでもないことになっているのではないか。這ってでも誰も悪くないことを証言しに行かなければ。重い体を奮起させて階下へ降りた。
誰かいないか呼ぼうとするより先に、扉のない応接間から怒声が轟いて息が詰まった。
「お前がついていながら、どういうことだ!」
「申し訳ありません、旦那様」
帽子も被らせずに出かけさせたのか、体調管理がお前の役目だろう、と厳しく叱責を受けている。状況はすぐにわかった。だが、どうしてマリアンヌが責められるのか。無性に苛々した。感じたこともない熱量が腹の底から突き上げてくる。侍女の役目? 自分は父親の役目も果たしていないくせに。わたしがマールに酷いことを言われても気づかずにいるくせに。慰めてくれたのはマリアンヌじゃないか。今日のこととは無関係に何もかもを一緒くたにした怒りが沸き上がった。危険、停止、落ち着いて。百合子の経験が冷静に判断する。仕事だったから仕方ない。納得していたはず。マールのことは今は関係ない。わかっているのに抑えきれない。激情に飲まれて坂道を落下するみたいに転がり落ちていく。
「マリアンヌは悪くないよ! わたしが被らないって言ったの。楽しかったから、やめさせられたくなくて、頭が痛いのを隠して遊んでいたの! なんでマリアンヌを怒るの?」
「サラ様! 気が付かれたのですね」
奥の方でこちらを向いていたマリアンヌが誰より早くわたしを見つけて、責められているのに安堵した表情になった。一方で、入り口を背に立っていたパパは振り返ると、
「寝ていないと駄目だろう。話は屋敷に戻ってから聞く。二、三日安静にしていなさい」
先程の怒声から随分トーンを落とした声音で告げた。倒れた娘への気遣い。でもわたしには、その温度差がとても不道徳に思えた。それに、
「屋敷?」
「田舎の暮らしはお前には合わない。王都に帰るんだ」
理不尽すぎて呆然となった。喉が乾いて、頭が痛くて、身体が怠くてたまらないのに。何の話をしているのか。
「オーランド様、それは今はいいではないですか」
おばあ様が後ろから諭すように言う。
「ええ、そうですね。ですが、お義母さんにもご迷惑ですし、来週中には連れて帰ります」
でもパパは淡々と答えて、わたしの元へ近づいてくる。
王都に帰る? なんで? 今日は友達が出来たの。同い年の女の子でわたしのことサラちゃんと呼ぶんだよって嬉しい話をしたかったのに、パパに聞いてもらいたかったのに、何故そんなことになっているのか。わたしの意見も聞かないで勝手に決めるのか。体内に残る太陽の残火がめらめらと熱い。息を吹き返すように再燃する。すべてをダメにされた気分。何もかもが台無し。不快の塊が体中を蠢いて這いずり回って気持ちが悪い。吐き出したくてたまらない。
「嫌だよ。帰らない」
「我儘はもう終わりだ」
「我儘じゃない。帰らない」
帰るつもりだった。帰ってパパともう一度仲良くしようとしていた。なのに約束を破って来なかった。来なかったじゃないか。今更来て偉そうに。マリアンヌを怒って。わたしが悪いみたいに言って。
「早くベッドに戻るんだ。殿下も心配なさる」
「わたしはここにいたいの。おばあ様がいいの! 帰りたいなら一人で帰ってよ!」
わたしを抱え上げようと伸ばされた手を思いっきり振り払った。痴れ者を咎めるような表情で見下ろされる。そんな顔を向けられる謂れはない。どうしてマールを持ち出すのか。結局そういうことか。だったらわたしだって言いたいことがある。色々なことを我慢して頑張ってきた。わたしは悪くない。今日だって、パパがちゃんと来ないから、代わりにお茶会に出席して、知らない人の沢山いる前で習った通りに挨拶をした。何も不満を言わなかったし、わたしはとても偉かった。たまたま熱が出て、みんなには迷惑を掛けたけれど、パパには何もしていない。謝るのはわたしじゃない。そうだ。
――――言ってやれ。
「わたしは悪くない。悪くないもん! 嘘ついたのはパパでしょ! 嘘つき!」
「サラちゃん、そんなこと言ったら駄目よ」
パパの色を失った顔に一瞬怯んだけれど、おばあ様の仲裁の声が耳に届くと、止めてもらえるという事実が甘えたわたしを増長させた。パパが約束を破った。できない約束は最初からするな。そしてわたしはまだ謝られてもいない。わたしは可哀想なんだ。とても可哀想なんだ。それもこれも全部、全部、
「パパが悪い。パパなんて嫌い。パパなんていらない!」
空気中に散漫する黒い言葉。時間の狭間に落ちたみたいにしん、とした一瞬ができた。頭はのぼせるように熱いのに足先が凍えるほど冷たい。ふわふわと感情に支配された世界から急に現実に戻った感覚。どうしよう。叱られる。怒られる、殴られる。でも、そのどれでもなくて、どれより最悪だった。おばあ様の嗜める言葉が聞こえるより先にパパの静かな声が、
「……そうか」
短く返った。
「だったら自分で部屋に戻って寝なさい」
感情をぎりぎりまで消音にした抑揚のない声が続いた。それから、わたしの返事を待つことなく、
「お義母さん、申し訳ありませんが、この子をよろしくお願いします」
おばあ様に頭を下げると、わたしのすぐ横をすり抜けて応接間を出て行った。足の悪いおばあ様が追いかけられるわけも、侍女のマリアンヌが引き留められるわけもない。そしてわたしは床に足が貼りついて唇が縫い合わされたみたいに動かない。じんわりと視界が滲んでいく。
なんで?
わたしは悪くない。謝るのはパパなのに。
なんで?
憎しみに似た怒りは蒸発したみたいに消えていた。がらんどうで空っぽで、空虚で、空白で、何もない。
なんで?
迷いなく歩いていく足音。入口のドアがガチャリと開いて、バタンと閉まる。一分にも満たない重く長い時間。おばあ様とマリアンヌが困惑しているのが分かる。でもその姿はぼやけていてよく見えない。下瞼のふちに溜まった涙がぽろりとこぼれた。悲しみが飽和する。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん」
またやった。わたしは、また、やったんだ。
思い出した、嫌なこと。みんなが知らないわたしの秘密。
――――ママは何処に行ったの! パパは嫌! ママがいい! あっち行けー! ママぁぁ!
そうだった。だからパパはわたしが嫌い。
だから、パパはいなくなった。
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