第6話 逸話 知らない物語
「ウサギを飼いたいのです」
突如、執務室に訪れたマール王太子が告げると、王は驚き、そして歓喜の声を上げた。
マール王太子はグラン家の嫡男である。出産の際、王妃は次の子を産むことができない身体になった。一人きりの王子であることに、側妃を娶るよう進言する議会の声は大きかった。しかし、王は頑なに王妃以外を側に置くことはなかった。故にマール王太子は唯一の世継ぎとして異常なほどに過保護に育てられ、徹底した英才教育を施された。
議会の声が沈静化したのは、マール王太子が三歳にして既に識字が可能となったことである。これほど聡明な子はいない。稀代の王となる器である。マール王太子以外に王になる者はいないのだから、他の子供を望む必要はない。王室は安泰である。皆が口を揃えて語った。
しかし、王と王妃の懸念は全く違うところに及んでいた。マール王太子は王として優れた資質を有しているが、子供らしさは皆無であった。玩具を与えても一頻り遊べば直ぐに飽きたし、同年代の子供の輪に放り込んでも、
「仲良く遊ぶのよ」
という王妃の言葉をそのまま実行して睦まじく遊ぶが、楽しくしているかと問えば違った。
「マール。乗馬はどうだ? 生誕祭にお前に馬を与えよう」
「人気の観劇のリバイバルに出かけましょうか」
様々に気を引けそうなものを与える。しかし、マール王太子の興味を持続させることはなかった。そして、聡明なマール王太子は、そんな両親の心中を察してにこやかに微笑むようになった。それが貼り付けられた作り物の笑顔であることに、王と王妃は胸を痛めた。誰も悪いわけではなかったが不毛な悪循環が続いた。
そんな彼がウサギを飼いたいと申し出たのだ。動物を愛でる心が芽生えたのである。
「ウサギか。あぁ、好きなだけ飼えばいい」
「お許しくださるのですか?」
「もちろんだ。直ぐにウサギ小屋を造る手配をしよう」
「いえ、僕の私室で面倒をみますので」
王は室内でウサギを飼うことに一瞬顔を曇らせるも、可愛いペットと片時も離れたくないという七歳児らしい発言に快諾をした。
「有難うございます。一生大事に育てます」
「そうか。可愛がって面倒を見るのだぞ」
「はい」
マール王太子の満面の笑みは王の心を満たした。
しかし、マール王太子が部屋を出てほどなく、マール王太子の執事であるルーク・エドガーが血相を変えて現れた。
「陛下! 殿下に許可を与えたのですか!」
「ん? どうした。ウサギを飼うことか? そんなに目くじらを立てることはあるまい。室内で飼うことに抵抗があるのか? 本人が面倒を見ると言っている。ちゃんと責任を取らせる」
「ウサギじゃありません!」
「ん?」
「殿下が飼おうとしているのはウサギではありません!」
*
ルーク・エドガーがマール王太子付きの執事になったのは彼が二十四、マール王太子が六歳の時であった。
利発そうな子供。
第一印象は良くも悪くもなかった。
だが、仕え始めてみると、無機質の人形みたいな生活ぶりに困惑した。朝から晩まで政治、経済、言語学、帝王学を学び、合間には健康維持の為と剣術や乗馬に勤しむ。いくらなんでも詰め込みすぎだ。両陛下は一人息子を溺愛していると聞いていたのに、これはある種の虐待ではないか。誰かカリキュラムを見直すように進言する者はいないのか。見かねたルークは執事長の部屋を訪ねた。
「あれは殿下ご自身が望まれていることだよ」
「え」
「同じ時間を潰すなら、身になる方がよいそうだ」
そこでルークは執事として駆け出しの自分が、王太子の専任執事に抜擢された真意を聞いた。なんでも卒なくこなすマール王太子は冷めた子供だった。最初は楽しげにしていても直ぐに飽きる。マール王太子の心を満たす物は何か。若いルーク・エドガーならば、年配の執事達より王太子の興味を引くものを見つけだせるのではないか。王太子が望むものならば何でも構わない。心から好きだと思えるものを探し出せ。随分な丸投げだが、期待を寄せる執事長に「無理だ」と答えることができるはすはない。ルークの頭を悩ます日々が始まった。
とは言え、マール王太子は決して手の掛かる子供ではなかった。むしろ優等生すぎるほどだ。いくらでも我儘を言える立場で、環境も整っているのに、無理難題を吹っかけることはなかった。あれをしてみたらどうか、これはどうか、と言うルークの進言にも素直に耳を傾けて試みる。だか、やはり長くは続かない。器用貧乏の最たるものに思えた。
「人間とは少しくらい欠落している方が幸せなのだな」
ルークはこの若き王太子に同情の目を寄せるようになった。
そんなマール王太子に転機が訪れたのは七歳の時だ。
「……パパァ……パパァ」
午前中の言語学の授業を終え図書室から私室へ向かう途中だった。幼い少女が父親を呼びながら大泣きしている。迷子であることはわかったが、王宮にどうしてこんな子供がいるのか。ルークの疑問に答えたのはマール王太子だった。
「あれはヒュー公爵の娘だ。夫人の体調がよくないとか。それで止む無く娘を連れてきているらしい。王妃がそうするよう助言したと聞いたな」
「そうなんですね。迷子のようですから、公爵様の所へお連れしましょうか」
「あぁ」
ルークが足早に近づき、
「お父上の所に案内しましょう」
声を掛けると、少女はビクッと体を震わせた。
「怖くないよ。おいで」
出来る限り優しい声音で視線を合わせるように膝を折った。しかし、少女はルークを素通りして駆け出し、後ろで経緯を見ていたマール王太子に飛びついた。普段動揺しないマール王太子も驚きのあまり言葉が出なかった。七歳児のマール王太子がすっぽり包んでしまえるほど少女は小柄だった。
少女はマール王太子の腕の中でちらちら振り向いてルークを見ている。
「その方に抱きついては駄目ですよ。ほら、こっちに来てください。パパの所へ行きましょう」
「知らないおじさんに付いて行ったらダメ!」
少女は叫ぶと再びマール王太子にしがみついた。知らないおじさんは駄目だが、知らない子供はよいらしい。この幼女が王太子に危害を加えるとは思わないが、こうもぎゅうぎゅう抱きつくのは如何なものか。ルークは二人を引き離そうと立ち上がったが、
「ルーク。構わない」
マール王太子はルークを制し少女に目線を下げた。
「ヒュー公爵の娘だな。名前は確か」
「サラちゃん!」
「……そうか」
「お兄ちゃんは?」
「マール・グランだ」
「マール・グラン!」
王太子を呼び捨てにするとは何事か。マール王太子は幼子の非礼に声を荒げる性格ではないが、誰に見られているとも知れない。冷や冷やするルークとは裏腹に、先ほどまで泣いていたサラ嬢はにこにこと笑い始めた。
「ヒュー公爵の所へ連れて行ってやる」
「ヒュー公爵?」
「お前のパパだ」
「サラちゃんのパパ!」
「そうだ。捜していたのだろう。連れ行ってやる」
「本当?」
「あぁ」
「有難う! マール・グラン!」
ルークは卒倒しそうだった。
「サラ様、マール様とお呼びください。その方は将来この国の王になられるお方なのです」
サラ嬢は振り向くと、
「マール様?」
と首を傾げた。
肩までのくるくるの金髪に緑と金のキラキラした瞳。子供らしくころころと表情を変える。
「そうです」
「マール様」
「はい、そうです」
「わかった! おじさんは?」
「私のことはルークとお呼びください」
「ルーク様」
「ルークで構いません」
「ルーク!」
素直で可愛らしい。知らないおじさんに付いて行くなと強く言い含められているらしい理由に納得いった。おじさん限定にしないことを進言したいとルークは強く思った。
「こっちだ」
マール王太子がサラ嬢の手を取り歩き始めた。
ヒュー公爵の執務室に着く前に、サラ嬢を捜していた公爵に出くわした。
「殿下、申し訳ありません」
「構わない」
「ほら、お礼を言いなさい」
「マール様! ルーク! 有難う!」
「お手数をお掛けしました」
「いや。王妃が招くように指示していると聞いている」
マール王太子は、父親の腕の中で嬉しげに笑うサラ嬢にじっと視線を合わせている。同年代の令息、令嬢を招き茶会を開くことはあるが、こんな幼子に触れたことはない。飽き性ではあるが、新しい知識を得ることには積極的である。マール王太子にはサラ嬢が不思議な生き物に見えているのだろうと、ルークは理解した。
「はい。妻が検査入院しておりまして。屋敷に置いてくるとひどく泣くものですから……」
王妃とサラ嬢の母は学生時代の友人だ。王妃は自分が面倒をみるつもりでサラ嬢を登城させたが、父親から離れたがらなかった為、公爵の執務室で過ごさせることになった。しかし、そこは幼い娘のこと。退屈して抜け出し迷子になったというのが顛末だ。
「ならば僕が預かろう」
「え」
突拍子もないマール王太子の発言にヒュー公爵とルークの言葉が被った。
「王妃が呼び寄せたのなら、こちらで責任を持つのが道理ではないか。ヒュー公爵も忙しい身だ。仕事が滞っては困る」
「いや、しかし……」
朝の惨事が蘇る。王妃に預けようとして大泣きされたのだ。ヒュー公爵は自分の腕の中の娘に視線を向けるも、話を聞いているのかいないのか、にこにこ笑うばかりである。
「サラ、パパは仕事がある。終わるまで僕と一緒にいるんだ」
「マール様と遊ぶの?」
「あぁ」
「わかった!」
サラ嬢は驚くほどあっけなく頷き、マール王太子に手を伸ばす。子供は子供同士がいい。それはごく自然な流れにも思えた。
「殿下にもご予定があるのでは?」
「構わない」
ヒュー公爵は恐縮してみせるが、サラ嬢が乗り気であることも後押しして王太子に娘を預けることにした。
その日は庭園を案内して、翌日は王宮の建物を見せてやり、三日目は図書館で本を読んでやって過ごした。
元々、マール王太子の人当たりはいい。本人が楽しんでいるかどうかは別問題として、お茶会の席でも温厚で優しい王太子として評判がよかった。一方、サラ嬢は素直な性格でころころ笑い愛くるしい。まだ言葉が覚束なく、支離滅裂な発言をする。それにマール王太子が逐一真面目に返したり訂正するたび、
「わかった!」
とうんうん頷く様は悶絶級の可愛さだった。マール王太子とサラ嬢が寄り添い兄妹のように過ごす三日間をルークは目を細め見守った。当然、王と王妃の耳にも事の経緯は届いていた。庇護すべき存在を与えることは良いことかもしれない。サラ嬢に今後も王宮に遊びに来るようお願いしてはどうか。二人は嬉々として話し合っていた。
サラ嬢が再び王宮を訪ねてきたのは、最後の登城から一週間後のことである。マール王太子に改めて礼を言う為、母であるメアリージュン夫人と共に来訪した。
「殿下、娘が大変お世話になりました。有難うございます」
「マール様に遊んでもらったお礼しなさいって! それでサラちゃん絵を描いてきたの! マール様の絵だよ!」
メアリージュン夫人が謝辞を述べ、サラ嬢は画用紙を差し出した。
お世話にもうまいとは言えない絵だった。二つの生物が描かれている。似顔絵らしいから、人間に見える方が自分なのだろう、とマール王太子は理解した。しかし、その側にいる謎の生き物は何か。マール王太子が絵を黙視したままでいると、
「サラちゃんのおかげでマールも随分楽しい時間を過ごせたのよ。これからも遊びにきて欲しいわ。ね、サラちゃん、遊びに来て頂戴!」
代わりに王妃がにこやかに返した。その言葉にマール王太子は顔を上げ、メアリージュンの膝の上でにこにこしているサラ嬢をじっと見つめた。
「うん! わかった!」
サラ嬢の笑顔にサロンは柔らかな空気に包まれた。それから、王妃とメアリージュンの昔話が始まるとマール王太子は徐に席を立ち、
「僕らは二人で遊んで来ても構いませんか?」
とサラ嬢を誘った。王妃とメアリージュンは笑顔で見送り、サラ嬢はマール王太子に手を引かれ部屋を出た。
その一部始終を見ていたルークは温かい気持ちを抱いた。サラ嬢が登城しなくなってここ一週間、マール王太子に日常の生活が戻ったが、時折ぼんやりしていることがあった。
「サラ嬢が来なくなって寂しいですね」
マール王太子はルークの言葉には頷かず、全く気のない素振りを取り続けていた。しかし、昨日、サラ嬢の来訪を知ると今日の予定を全てキャンセルした。
「意外に天邪鬼な部分があるな」
ルークは苦笑いしつつ、マール王太子の人間臭い行動が喜ばしかった。
サラ嬢の手を引いて歩いて行くマール王太子は、温度のある生身の少年に見える。マール王太子がサラ嬢に特別な感情を持っていることは確かだ。
私室に着くとマール王太子はサラ嬢と並んでソファに座り、先ほどの絵の意味を尋ねた。
「この絵はなんだ」
「マール様だよ?」
「違う。こっちの生き物だ」
「これはね、ウサギさんになったサラちゃん! マール様と同じ目の色だからね。サラちゃんもウサギさんになったよ!」
どういう理屈なのか。ルークは可愛さに身悶えたが、マール王太子は、
「そうか」
と短く答えると、
「では、お前のことは僕が責任をもって飼うことにする」
とサラ嬢に負けずの突飛な発言を始めた。
めちゃくちゃな内容だが、七歳と四歳児の会話としてはむしろ正しく思えた。普段、マール王太子が口にするのは政治や経済の話題ばかりだ。その方がよっぽどの異常である。
「飼う?」
「あぁ。ウサギには飼い主が必要だ。でないと狼に食べられるぞ」
「え!」
「だから僕が飼ってやる」
「そっか! わかった!」
「じゃあ、菓子と許可を取ってくるから少し待っていろ」
マール王太子はソファにサラ嬢を残して席を立った。
「おやつでしたら、私が用意して参ります」
「いや、僕が行く。あの子を見といてくれ」
「畏まりました」
ルークにとってマール王太子は聡明で大人びた少年だ。聞き分けも良く無茶を言わない。だから、彼が何をしに何処へ向かったか、全く想像できずにいた。
「待たせたな」
三十分してマール王太子はバスケットに多量のカップケーキを携えて戻った。後ろからメイドがティーセットを運んでついてくる。若干時間が掛かったのが気になったが、ルークの意識はすぐに別の所へ削がれた。
カップケーキを頬張るサラ嬢をマール王太子が慈しむように見ているのだ。一年以上仕えて、あれやこれや王太子を魅了するものを与えようと画策したが全て無駄な徒労だった。マール王太子の心を掴めるものなどこの世にないのではないか。ほぼ諦め掛けていたが、この表情である。王と王妃に申告しなくては、と喜びに湧くルークの内心は、しかし一瞬にして凍りついた。
「ルーク。洋服なんかが必要だと思う。手配してくれ」
「え? 洋服ですか?」
「あぁ、毎日同じ服を着せるわけには行かないだろ。大事にすると約束してきた」
「え?」
「聞いていただろう。今日から飼うことにした。王の許可も取ってきた」
「は?」
*
「サラ様はウサギではないので飼えないのですよ」
「何故だ。許可は取った」
「サラ嬢を飼っていいとは言っていないだろう」
サラ嬢をぎゅうぎゅうに抱きしめて一向に離さないマール王太子に王とルークは弱り切った表情で顔を見合わせた。
マール王太子の興味を引くものなら何でも、金にいとめはつけない。しかし、人様の令嬢を飼いたいなどと異常行動に出ようとは露ほどにも想定しなかった。
「殿下、サラ様をお放しください。苦しそうではないですか!」
実際のサラ嬢は、おやつを食べて眠たくなったらしく、うつらうつらとしている。
「放したら取るつもりだろう」
「殿下のものではありませんよ! サラ様はヒュー公爵とメアリージュン夫人の大事な娘なんです!」
「そうだぞ。ヒュー公爵が泣いて悲しむ!」
王とルークはマール王太子から無理やりサラ嬢を引き離した。大の男が二人掛りだ。結果は目に見えている。だが、ここで再び規格外のことが起きた。王に羽交い締めにされ身動きのできないマール王太子は、サラ嬢を抱え込んでいるルークを見ながらぼろぼろと泣き出したのだ。マール王太子が泣くなど赤ん坊の頃以降、誰の記憶にもなかった。天から与えられた才能を幾つも持ち、何を望むわけでもなく、将来の王となる為だけに黙々と勉学に励むだけだった。そのマール王太子がサラ嬢を返せと駄々を捏ねて泣いているのである。
「え」
ルークの蒼白になった顔に、王も後ろからマール王太子の顔を覗き込んだ。
「え」
するとマール王太子の涙を見たサラ嬢も、眠気眼をはっと見開き、同様に大声で泣き始めたため、室内は混沌を極めた。大人二人に泣きじゃくる子供が二人。惨事の中、救いの手か、断罪の牙か、部屋の入り口から声が掛かった。
「何をしているのですか!」
王妃とメアリージュン夫人の登場に王とルークが胸を撫で下ろしたのも束の間だった。
「貴方が付いていながら、この状況は何です!」
王妃に論われる王の姿を一介の執事が見ていてよいのか。ルークが固まっていると、横からメアリージュン夫人がサラ嬢を抱えるよう手を伸ばした。
「申し訳ありません。ほら、おいで。どうしたの? ケンカしたの?」
メアリージュン夫人はおっとりした性格であるらしく、ルークの腕の中で泣いているサラ嬢を受け取ると、柔らかに声を掛けた。サラ嬢はただつられて泣いていただけだ。母親に抱かれて安心したのか、再びの眠気に襲われ半分夢見心地になっている。こちらはこれで解決する。問題はあっちである。
ルークは恐る恐るマール王太子に目を向ける。王と王妃が言い争う間で、赤い双眼を滲ませながらサラ嬢を見ていることに恐怖を感じた。
「マール。よく聞きなさい。サラちゃんは人間だから飼えないのよ。わかる?」
王は王太子の私室に来る前に王妃の元へ遣いを送っていた。経緯は把握しているようで、王妃はマール王太子をソファに座らせると自分も隣に座り冷静に話を始めた。
「ヒュー公爵夫妻より大切に育てる」
マール王太子は全く引く様子は見せない。
「マールはサラちゃんが好きなのね」
「好き?」
「好きだから、飼いたいのではないの?」
「側に置きたいから飼いたい」
「それを好きだと言うんだ」
王の横槍に王妃の鋭い視線が刺さる。
「そう。だったら、メアリーの代わりにサラちゃんを引き取って育てましょうか」
「おい。何を言い出すのだ」
王の発言に再び王妃が無言の目を向ける。強烈な圧力に王が黙るのを確認すると王妃は続けた。
「引き取って大切に育てましょう。それから、よい旦那様を見つけてお嫁さんに出してあげましょう」
「そんなことはしない!」
「あら、メアリーはサラちゃんが幸せな花嫁さんになるのを楽しみにしているのよ。代わりに育てるのなら、ちゃんとよい旦那様を見つけて結婚させてあげないといけないわ」
「……ずっと側に置いておく」
「じゃあ、サラちゃんは育てられないわ」
マール王太子は俯いて黙った。ぼたぼた流れる涙が膝の上で握りしめている拳に落ちる。マール王太子がこのように感情を露わにするのは余程のことだ。もう少し繊細に扱うべきではないか、と王のハラハラとした視線を無視して王妃は続けた。
「サラちゃんはお家に返すわね?」
「だったら妃にする」
「さぁ、それはどうかしら。メアリーはサラちゃんを一番好きになってくれる人のところへお嫁さんに行かせるって言っているわ」
「僕が一番だ!」
マール王太子の涙ながらの訴えに、ルークも流石にやりすぎてはないかと思った。しかし、執事の自分に発言権はない。何か言いたそうな王も、口を挟める権限を既に奪われていて助け舟を出してやれる状況にはいない。どう着地点をとるつもりなのか。
「王妃様、もうよいではないですか。マール殿下。サラを好いてくれているのですね」
メアリージュン夫人はサラ嬢を抱えたままマール王太子の元へ歩み寄った。サラ嬢はその振動にパッと目を覚ましてキョロキョロと周囲を見渡している。
マール王太子はメアリージュン夫人が目の前まで来ると涙を拭い立ち上がった。流石にマール王太子である。
「メアリージュン夫人。サラ嬢を僕の妃にください」
「そうですね。ではサラが十六になった時、サラを一番好きでいてくれるならマール王太子の元へお嫁に出します」
「ちょっと、ちょっとメアリー、サラちゃんの意志もあるでしょう」
いい場面じゃないか。王とルークは王妃の横槍に眉根を寄せるが抗議をする度胸はなかった。
王妃はあくまで公平に、そして現実的にマール王太子とサラ嬢の結婚を考えている。
「サラ、マール殿下がサラのことお嫁さんにしたいって」
「お嫁さん?」
「そうよ。サラはマール殿下のこと好き?」
「うん! 好き!」
「マール殿下もサラのこと好きだからお嫁さんにしたいんだって」
「そっか! わかった!」
「メアリー、それ、騙しうちって言うのよ」
「あら、いいじゃない。姑が貴方ならわたしも安心だわ」
ふふっと意味深に笑うメアリージュン夫人に王妃は一抹の不安を感じた。
「マール! よかったじゃないか!」
しかし、空気だった王が手放しに喜ぶのを睨みつけるのに気を取られてすぐに忘れてしまった。
「ヒュー公爵にも直ぐに知らせなければ! マールとサラちゃんが結婚してくれれば何の問題もない! こんなめでたい事はないぞ!」
「貴方、落ち着いてください! ただの口約束です。今後のことはわかりません。サラちゃんが嫌がるかもしれません。何もわかっていないでしょう」
冷静な王妃と興奮気味の王にメアリージュン夫人は緩やかな微笑みを向けていた。
メアリージュン夫人が再入院を余儀なくされ帰らぬ人となる半年前の出来事だった。
彼女の知らない物語である。
それから――――、
「一番好きになってくれる人のところへ嫁がせる」
その確実な証明とは?
自分一人だけが好きであればよいのではないか。
「僕が一番好きになる」
呟いた声は誰にも聞こえていなかった。
彼しか知らない物語の始まりだった。
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