第5話 嫌なものは嫌だと言う
サロンにてお茶なう。
向かいには麗しきご尊顔のマールが通常営業の無表情でカップに口をつけている。昨日の今日でどの面を下げてお茶なんて飲めるのか。その神経がわからん。
屋敷の方でも朝から不愉快だった。朝食を食べていると朝食を食べないヒュー公爵がうろうろとダイニングに訪れた。何か言いたそうなので、
「おはようございます」
と声を掛けると、
「あぁ、もう起きていたのか。食事中か」
と返ってきた。
毎朝七時に起きて朝食をとるリズムだ。知らないわけはなかろう。仮に知らなくとも見ればわかるだろう。ひたすら気まずい空気感に、関係のないメイドも困惑していた。
「いつも通りだよ」
仕方がないのでにっこり笑って答えたけれど、それが昨日の捨て台詞と被っていることに気づいた。ヒュー公爵は、
「そうか」
と言うと一旦黙ったけれど、わたしがロールパンに齧り付くタイミングで、
「今日は王宮に行く日か」
と、また当たり前のことを尋ねてきた。
「水曜日だから」
月水金とわたしが王宮に通っていることは、屋敷の誰でも知っている。
「そうか」
わたしが王妃教育をサボることを懸念したのだろうか。行かないと言えばどうするだろうか。
「頑張りなさい」
ヒュー公爵はそれだけ言うと出て行った。何だよ。頑張っているじゃないか。サラちゃんはいつだって頑張っていた。
「ムカつく」
わたしの呟きは届くことはなかった。聞いて欲しいとも思わないけれど。
そんな朝のやりとりがあったから、本日の王妃教育はますますやる気が起きなかった。教えてくれる先生には申し訳ないけれど、王妃になんてなりたくないのだ。
「どうしました? 集中してください」
「先生、勉強が終わらなければ王妃にはなれませんよね?」
「そうです。だから、」
「じゃあ、できないなら仕方ないですね? 諦めます」
発言を遮り告げた言葉に、先生は一瞬ぽかんとしたけれど、すぐさま、
「まだまだ、これから時間はあります。一生懸命努力すればできないことなどありません」
と模範解答で返してきた。
「努力しても報われないことはあります」
「そんなことはありません。サラ様は立派な王妃になれますよ」
「わたしはいいので、先生が努力して王妃になってください」
「何を無茶苦茶な……」
普段大人しいサラちゃんのあるまじき反撃に先生は蒼白になった。先生は与えられた仕事をしているだけ。まごうことなき八つ当たりだ。後ろめたい気持ちが黒く広がる。
「わたしが勉強を辞めたら先生はどうなりますか?」
先生が何かの罰を与えられたり、職を失い露頭に迷うのは困る。無害な他人の人生を歪めるのは出来るだけ避けたい。
「……サラ様、何かあったのですか?」
「わたし、先生のこと好きだよ」
「え?」
「例えば、わたしの勉強が完了したら先生はどうするの?」
「……私の仕事は家庭教師ですから、何処かの御令嬢の元へ通うことになるでしょう」
なるほど。王宮の教育係に任命されるのだから引く手は数多なんだろう。安心した。
「先生は凄いですね。女性が働くには制限が多い世界なのに。わたしも先生みたいに自分の力で生きたい。だから、社交界でのマナーとかじゃなく、もっと手に職がつくような他の勉強がしたいの」
これは素直な意見だ。先生は少し間を開けて、こほん、と一つ咳払いをすると、
「マナーは大事です。人に馬鹿にされないように自分を武装する最良の方です」
と真面目な返答をしたけれど、顔は満更でもなさそうだった。自立した女になりたいアピールでいこう。「サラ様は王妃になりたくない」という認識を植え付けなければならない。とても重要なことだ。
かつてのサラちゃんは、自分の心を湾曲させて生きていた。努力は報われる。頑張ればいつかきっと……なんて思って我慢を重ねた。良くも悪くもお嬢様だった。籠の中の何も知らないお嬢様。自分一人で生きていく自信も力もなかった。与えられたレールの上で生きるしかない。だから好きでもない男と結婚する他なかった。いや、最初はちゃんとマールを好きだった。邪険にされるごとに心が擦り切れていっただけだ。そして逃げ場がなかったから「減っていく好き」に蓋をした。変わらずずっとマールを好きなのだ、と自分に暗示を掛けた。醜い化け物が王子様に恋をして、権力という魔法で手に入れた婚約。だから、頑張らなくてはならないと思いこんだ。嫌われないように、余計なことはせず、声を掛けてもらえるのをひたすらに待ち、マールが傍にいればパブロフの犬みたいに喜ぶ。自分が不幸でない証明にマールを好きでいなければならなかった。それが心の均整を保つ唯一の方法だった。そんなサラちゃんの様子に、周囲はますます誤解をした。「サラちゃんの我儘で結ばれた結婚」と非難を向けた。本当は嫌で嫌で仕方がないのに、誰一人、きっとサラちゃん自身でさえ気づいていなかった。
「わたしだって、あんたなんて大っ嫌い」
言えたら何か違っていた。わたしなら言ってやるのに。お前なんか好きじゃない。お前なんかとは結婚しない。お前なんか嫌いだ。なんでサラちゃんは我慢なんかしたの? なんで……。どう考えてもムカつく。だから、わたしが代わりに言ってやる。最高のタイミングで。そして、それは今日これからすぐでもよい気が急激にしてきた。やっぱり腹の虫が治まらない。昨日の落とし前をつけてやる。授業後、熱り立ってサロンへ向かった。
そして、現在に至るわけだが。
マールが部屋へ入って着席した時点で苛つきは最高潮だった。陰口を言っておいて平然としていることが、いつもそうであることを暗に示している。今まで仲良くしていたことが全部疑わしい。腹の底で何を考えているか知れたもんじゃない。百合子とサラちゃんの記憶がある今のわたしならきっと負けない。だけど、マールはまだ十一歳じゃないか。絶対に勝てる、という明明白白の事実が逆にわたしの重い足枷となった。止む無く素知らぬ顔でお茶を飲む。視線だけは絶対に合わさないように注意して。わたしは紅茶より珈琲派なのだが、と現実逃避しながら。
「授業はどうだった?」
地獄の沈黙にマールが口火を切った。それしか言うことないんか。こいつはわたしを苛立たせる天才だ。やはり制裁を加えてやるべきかもしれない。自分が嫌いだからって辛くあたってよいわけではないことを教えてやらねば。力のある者なら尚更、周囲に及ぼす影響は計り知れないのだ。そのせいでサラちゃんがどんな辛酸を舐めたか。
「普通」
「普通? カリキュラムが滞っていると聞いている。この間、何日か休んだからな。しっかり励め」
なんであんなことを言われて、わたしが頑張らなきゃいけないんだ。冗談じゃない。
「もう、努力はしないの」
「何?」
「頑張らないの! 王妃教育は受けたくない」
嫌なことは断る。王太子だからって関係ない。顔を見ていないので、マールがどういう表情をしているか不明だ。赤鬼みたいな形相か、絶対零度に微笑んでいるか。
「授業が停滞したら困るのはお前だろう」
「別に困らないし、やりたくないからやらない」
「そんな我儘は通らない」
わたしの声は上擦っているのにマールは淡々と返す。マールの怒りを買おうが嫌われようがどうでもいいはずなのに、謝ってしまいたいこの気持ちをは何か。ちゃんと口に出さないと駄目だ。負けたら駄目だ。
「なんでわたしが頑張らないといけないの? 王妃教育なんてしたくない」
どうせお飾りの王妃だ。いくら勉強したってエリィに勝てない。比べられて惨めな思いをするだけ。馬鹿馬鹿しい。
マールは黙った。
いつもは気にならない柱時計の秒針の音がカチカチ聞こえるほど静寂が広がる。頭に血が上って伝えたいことを言えていない気がする。マールは冷静に話しているのに、わたしは積年の鬱積で荒ぶる波が抑えきれない。こう言うタイプには感情的になったら負ける。ただのヒステリックで片付けられてたまるか。サラちゃんがありったけの勇気を出して言うべきだった言葉。難しいことじゃなくて、やっつけてやろうとかじゃなくて、ありのままの気持ち。視線を向けるときっちりと目が合った。燃えるような赤。
「わたしは、自分の幸せの為に自分を削ったりしないから」
「そうか」
そうか、じゃねぇよ。だから、お前の為に努力して王妃になんかならないんだよ。もっと既成事実を溜め込んで一挙にどーんとぶちまけてやろうと思っていたけれど、別にもういい。最高の復讐は自分が幸せになることだって、なんかのドラマの格好いい主人公が言っていた。公爵令嬢でこんなに可愛らしいサラちゃんだ。こいつの側で足踏みせず、全く別の幸せな人生を模索した方がはるかに有意義ではないか。そう考えると怒りが若干沈静化したけれど、
「そこまで嫌なら仕方ない。いいだろう」
続けて言ったマールの言葉に拍子抜けした。前前世では断腸の思いで申し出た婚約解消を片手で跳ね除けられた。こんなにあっさり了承されるなんて微塵も思っていなかった。まだ幼いから政治的な柵に無頓着なのかもしれない。喧嘩を売ったはずの相手から握手とハグを返された気分だ。同時にまるで一人芝居みたいで、ひたすらな虚無感に見舞われる。
「では、先に失礼する。折角用意したんだ。お前はゆっくりしていけ」
マールが目で示すテーブルの上にはインスタ映えしそうな三段のスタンドに色とりどりのお菓子が盛りつけられている。こんな状態で呑気に食べられるわけがない。しかし王宮スイーツを味わえるのはこれが最後だから食べておこうか、と現実的に思ったりもした。王族側から婚約破棄を伝えられればヒュー公爵は逆らえない。こんなに簡単なことだったのか。サラちゃんの苦労はなんだったのか。去りゆく足音を聞きながら、ただぼんやり煌めくお菓子を眺めていた。
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