第3話 悪夢のお茶会
ヒュー公爵は国の宰相で、毎朝九時に王宮へ出勤する。
王宮と屋敷は馬車で十分の距離にある。ヒュー公爵が出かけて一時間も経っていない。王妃教育を休む知らせを受けて直ぐに寄越したのであろう見舞いの品を眺めながら、微妙な気持ちになった。ずる休みなのに好物を差し入れられて後ろ暗いわけじゃない。
「サラ様のお好きな物をこんなに早く届けてくださるなんて、流石殿下ですね」
マリアンヌが誇らしげに笑う様を見てがっかりした。あいつはこういう抜かりのない男だった。父や王、王妃の前では狡猾に大人しい。精悍な王子様を演じる。裏表なくわたしを冷遇するならば、父もわたしの訴えに少しは耳を傾けてくれたはずだ。あの男は王になる自分が誰彼構わず娶れるわけではないと十分理解していた。政略結婚を結ぶ気でいた。そして、結局わたしと結婚した。貴族とは往々にして親の決めた婚儀をする。でも、だったら相応の対応を取るべきだ。なのにサラちゃんが大人しいことをいいことに横暴に振る舞った。親の目の届かない学園生活は本当の地獄だった。
「あのね、これは王妃教育の休憩に出されるおやつなの。わざわざお見舞いに用意したわけじゃないの」
騙されないで、と意味を込めた言葉なのに、
「まぁ、殿下はいつもティータイムにサラ様のお好きな物をご用意くださっているのですね」
とマリアンヌは呑気に笑う。この人は少し素直すぎるのではないか。百合子と比べると世間の荒波に揉まれていない二十歳そこそこの少女に見える。
「マール様は甘い物食べないの。お菓子を用意してくれるのは多分、王妃様だよ。王妃教育が大変なのを知っているから」
「まぁ、王妃様もサラ様を可愛がってくださっているのですね」
それは否定しないけれど論点が違う。わたしはこれから虐められる都度大袈裟に泣きつこう。マリアンヌに状況を把握させるにはそれしかない。
「早速召し上がりますか」
「……うん」
お菓子に罪はない。
マリアンヌは一旦部屋から出ると、オレンジジュースと共にお皿に盛られたクグロフを運んできた。甘い物を食べる時は、ブラックコーヒーがよいのだけれど。大きな出窓の傍のティーテーブルに着く。フォークに串刺しておもむろに頬ぼる。異常なくらい甘い。こんな味だったろうか。好物のはずなのになんだかとても美味しくない。柏餅が食べたい。この世界の何処かに存在するだろうか。急に百合子に戻りたくなった。こんな人生嫌だ。悲しい。泣きたい。帰りたい。どうせやり直すならもう一度百合子が良かった。クグロフなんか好きじゃない。全く食べる気がなくなって、テーブルに座ったままぼんやりしていると、
「やはり体調がすぐれないんですね。ベッドで休んでください」
とマリアンヌは心配そうに言った。「まさかクグロフを残すなんて」と言う意味合いであることが歯痒い。食べ物を残すのは気が引けるけど、促されるままベッドに入った。昼間なのに寝ているなんて不思議な感じだ。王妃教育は月水金で受けている。家にいる時は復習に追われる。あまり覚えがよくないから、サボったらどんどんやる事が積み上がるので真面目にやるしかない。落ちこぼれないように必死で勉強をする日々。マールと結婚する為に? 馬鹿馬鹿しい。ゆっくりしよう。何もしたくない。
*
わたしのボイコットは三回で断たれた。行きたくないから行かないのだ、とマリアンヌがヒュー公爵に伝えてくれないせいで、わたしの体調不良を懸念した王宮から宮廷医が派遣されそうになったからだ。自分の我儘に無害な他人を巻き込んで迷惑を掛けるのは憚られた。
離宮の一室。背筋がピンと伸びた先生の前で、わたしも同様に背筋をピンと張って授業を受ける。いつ何処で誰に見られてもよい姿勢を保たなければならない。誰もわたしなんて見ないのに。無駄な努力。無意味な時間。どうせ王妃教育を受けたところでわたしは社交の場には出してもらえない。エリィが来れば彼女が我が物顔でマールの横に並ぶのだ。そしてわたしはあっけなく死ぬ。今回の人生はどうだろうか。別の道を進めば違う結末に辿り着くはず。こんなに楽観的に考えているのは、百合子だった時、散々異世界転生のラノベを読み漁っていたせいだろう。予習は大切だ。
「サラ様、まだ体調も万全ではないようですし、今日はこの辺にしましょうか」
先生が気遣わしげにわたしを見ている。まったくやる気のないことを体調不良と解釈したらしい。記憶が戻る前のわたしが日頃いかに真面目に勉強していたか窺い知れる。しかし「この辺にしましょう」といっても、きっちりニ時間は授業を受けている。止めるならもっと早く止めてくれたら良かったのではないか。わたしが内心で悪態をつきまくっていると、先生は立ち上がり部屋の扉を開けた。すると、
「失礼します。サロンで殿下がお待ちです」
まるで控えていたみたいにタイミング良く侍女が入ってきて告げた。体調が悪いから授業を切り上げるのなら家に帰すべきだろう。病み上がりの人間にティータイムを勧めるとは、今日も世界はマール様を中心に回っているらしい。どう足掻いても婚約破棄をしない限り逃げられないので、記憶が戻って以来となる麗しき王子様のご尊顔を拝んでやることにする。先生にお礼を述べ、迎えにきた宮廷侍女と共に嫌々ながらサロンへと向かう。講義室の向かい三つ隣の部屋だ。重厚な扉を開けると開放的な光が目に飛び込む。一面ガラス張りのサロンには、毎度王妃教育の後に訪れる。一人の時もあるし、王妃様が相手をしてくれることもある。だけれど大概は、憎むべき生涯の敵マール・グランと共に時間を過ごさねばならない。
通されたサロンには既にマールが着席していた。
「……ご機嫌よう」
三日ぶりに見るマールは鋭い視線をわたしに走らせている。赤い瞳に黒髪。いずれも高貴な色として敬われている。特に目の色。女性の赤い瞳は珍しくないが、男性の赤目は王族固有のものだから。
王妃教育で最初に習う建国紀によれば大陸創造時、神は国を八つ造りそれぞれ神子を遣わせた。赤い瞳はその神子の末裔だと伝承されている。今、大陸には十二の国が存在しているが赤い瞳の国王が統治しているのは六つ。二国はどうしちゃったんだよ問題はさておき、この世界では男児は必ず父親の瞳の色を継承するから、確かな血脈が引き継がれている証拠として崇拝対象になっている。真っ赤であるほど良しとされマールは濃くてかなり赤い。そんなマールに冷遇されれば、虐められて当然だ。ただし、政治面では「王家は象徴」であるから参政させるべきではないと唱える派閥もある。だから、筆頭公爵家であるヒュー家は重要な後ろ盾だ。冷静に考えるほど、やっぱりサラちゃんは好き放題にやられる弱い立場じゃなかった。ムカつく。記憶の中よりかなり幼い眼前の少年を睨みつけると視線が重なった。マールはわたしより三つ上だから今十一歳のはずだ。既に出来上がっている感が凄い。王子だし、女の子達が夢中になるのも納得する。更にこの先、十五歳の若さで公務も担うようになるはずだ。学園では専用の執務室を与えられ、女子だけでなく男子の羨望も集めていく。そしてマールの光が強くなるほどサラちゃんの闇は深くなる。サラちゃんだって頑張って努力するのにも関わらず認められることはない。どんな無理ゲーなのか。
「体調は回復したのか」
「……はい」
今のところ何もされていないので、素直に返事をした。相手は王太子だし、こっちから喧嘩を吹っかけるわけにもいかない。ひたすら相手の出方をみるしかない。
特に座れとは言われないが勝手に座るのはいつものことだ。わたしが席につくと、お茶とお菓子を給仕するメイドが入ってきた。カップにお茶を注ぐ音が聞こえるほど静寂。てきぱきした所作で配膳を終えたメイドが下がってから二人きりになった後も無言が続く。いつもお茶を飲む時、こんな風だったっけ? 皆でいると話せるけど、二人になると気まずい人といるみたいな感覚だ。王妃様が来てくれたらいいのに。
「何故食べない?」
「え」
顔を上げるとマールの視線は皿の上に注がれていた。四角く白いエンジェルケーキ。ねっとりして口の中の水分を全部もっていかれるやつ。
「折角お前の為に用意したのだから食べろ」
わたしの好きなケーキだけど病み上がりの設定のはずだ。無理やり食べさせようとするなよ。元々ずっとこんな風だが妙に勘に触る。この先これがどんどん酷くなるかと考えると目眩がする。今のうちにがつんと言った方が良いのではないか。苛つきながら勧められたケーキをフォークで突く。
「まだ調子が悪そうだな」
口に放り込んだ直後に声を掛かけるな。「まだ」も何も調子は元から悪くない。お前の目は節穴だな、という感想しかない。首を横に振るとマールはまた黙った。頷いた方が早く帰れたんじゃないか。失敗した。ティータイムはいつまで続くのだろう。食べたら帰ってよいのか。話すこともなくどんどんケーキを頬張る。王宮御用達のスイーツはどうしてこんなに甘いのか。胃もたれしそうな味だ。百合子の感覚が強いせいか、薄味が恋しい。サラちゃんは嬉々として食べていたのに、意識の違いって大きい。
最後の一口を食べ終え皿から顔を上げると、再度マールと目が合った。気味が悪いと思っているくせに、ジロジロ見てくるのはどういう了見だ。前前世の記憶が戻らなければ、わたしは今もにこにこ笑っていたんだろう。ムカつく。誰も見ていない王宮内でも婚約者との仲良しアピールに毎回ティータイムを設ける周到さにもぞっとする。わたし自身が騙されるのだ、周囲が気づかなくても仕方ない。どうにかしなければ、絶望の繰り返しだ。
「聞いていると思うが、次の茶会にはお前も参加させる。初めての公式の場だ。甘い物ばかり食べるんじゃないぞ」
何だそれ。食べろと言ったり、食べるなと言ったり、いちいち煩い。そんなことより、そのお茶会って、あのお茶会のことだろう。わたしの悪口大会が開かれる胸糞お茶会。わたしにつまらない注意をするより、あの令嬢達をどうにかしろ。そしてお前の言動な! 本当に前前世と同じことが起こるのか、検証実験には丁度いい。このタイミングで記憶を思い出した自分を褒めたい。事前に分かっていれば、ショックを受けることもない。だってわたしは、既にマールを信用していないのだ。
「わかりました」
冷たく返したはずなのに、
「あぁ」
とマールはどうということもなく返事をした。お前にとやかく言われたくない、と言えばよかったと、家に帰ってから思った。
*
「前髪は編み込んで後ろに流してほしいの。おデコ全開になるように。できる?」
「はい。サラ様が髪型にご注文されるなんて珍しいですね」
「似合わないかな?」
「いいえ。お可愛らしいですとも!」
ここで会ったが百年目。サラちゃんのトラウマお茶会がやってきた。わたしは敢えてこの美しい瞳を前面に押し出して臨む。鏡の中には淡いピンクのドレスがよく似合う少女。自分で言うけど春の妖精さながらである。しかし、サラちゃんはこのお茶会以降地味服に身を包み込み、前髪で瞳を隠すようになる。ダイヤが石ころにジョブチェンジしてしまうのだ。もったいない。女は嫉妬されてなんぼなんだ。意地の悪い女子は本当に可愛い子のことは褒めたりしない。任せろ。仇は取ってやる。
毎年初夏と秋にロイヤルガーデンと呼ばれる王宮内の庭園で王妃様主催のお茶会は催される。五月の陽気な日差しの中、赤、白、黄色、さまざまな品種のバラが見渡す限りに満開だ。観覧料を取って市民に開放すれば儲かるのに、と庶民の感覚で思ってしまう。
「サラちゃん! なんて可愛いのかしら?」
会った途端に、王妃様はわたしを抱え上げて言った。後ろで侍女があわあわしているけれどお構いなし。王妃様は昔からこういう豪快な人だ。伝染するように周りの貴婦人達もわたしを手放しに褒め始める。一頻り撫でくりまわされた後、大人達から離れた同年代の子供が集まる席の方へ放り込まれた。用意されていたわたしの座席の椅子を、案内の従者が引いてくれる。
王太子マール・グランの婚約者、公爵令嬢サラ・ヒュー。
至る所から好奇の眼差しが向けられているのは否応なしに感じた。ちらほらと悪意が混じっていることも。前前世では気づかなかった。初めてのお茶会で浮かれていたと思う。マール以外に遊び相手はいなかったから、友達ができるんじゃないかと楽しみにしていた。あの時は「王家はこの婚約に乗り気じゃない」と勝手な噂が流されているなんて、露ほどにも知らなかった。婚約後、わたしが何の集まりにも顔を出さなかったことが原因らしいが、お茶会デビューは八歳でするものだし、それまで公式行事に参加しないのは一般的なことなのに、難癖をつけるにも程がある。仮に出席していたら「正式な参加権もないのに図々しい」と揶揄られたんだろう。屑共が。
「初めまして。サラ・ヒューです」
舐められたら駄目だ。落ち着いて振る舞え。出だしは順調。八人掛けのテーブルに既に七人座っている。爵位順に自己紹介をしてくれた。でも、名前が頭に入ってこなくて焦った。わたしのことは皆が知っているだろうから、わたしが間違えるわけにはいかない。兎に角、上手いことやらねば。力技で笑って乗り切ろう。サラちゃんは笑顔がとても輝く。周りの空気が柔らかになるほどに。卑屈になる要素など一つもない。しかし、本日を最後にサラちゃんは笑わない子供へと変化していくのだからやるせない。
「少し、失礼しますね」
一時間くらい経過した頃合いをみて席を立った。前回通りに動けば同様な展開が起きるか。実験開始だ。ロイヤルガーデンでのお茶会は、薔薇を鑑賞する人達が庭園を自由に探索しているし、来賓をもてなす為の宮であるエメラルド宮も開放されているから人の動きは多い。うろうろしてもあまり目立たない。前前世でサラちゃんはお手洗いに行く途中で凶悪犯に拉致られた。化粧室は少し離れた人目につかない場所にある。通常なら侍女に案内されるのだが「知っているから」と一人で動いたのが不幸の始まりだった。
「ちょっとよろしいかしら?」
背後からの声に、きたーー! と心中で叫びながら振り向く。五人の少女が徒党を組んで立っている。サラちゃんはかなり小柄であるから、この状況だけで怖かっただろう。皆、子供のくせに意地の悪さ剥き出しの顔をしている。というか、ずっとわたしが一人になるのを待っていたのだろうか。リアルにホラーなんだけど。
「なんでしょう」
予想通りの展開すぎて動悸が止まらない。声が震えた。恐怖はない。サラちゃんが抱いていた感情とは全く違う。嫌いな超有名アイドルに会ったみたいな感じ。嬉しくはないがテンションは上がる、というのか。けれど、わたしの反応を相手は怯えていると解釈したらしい。
「マール殿下と婚約を結んでいるそうね?」
「……はい」
「はい、だなんて図々しいわね!」
「貴女の我儘で無理やり婚約したって、皆知っているのよ」
何情報なのだか。都合よく捏造しすぎる。このお茶会には伯爵以上の爵位の貴族しか招かれていない。全員の顔を覚える為に視線を注いだ。
「貴女がいなければフランソワーズ様がご婚約なさるはずでしたのよ!」
五人いるが立ち位置的に真ん中にいるのがフランソワーズなんだろう。自ら名乗るとは愚かだ。同時に「あぁ、この一派だったのか」とすとんと納得して、三つ子の魂百までだな、と感慨深く思った。彼女らは、今後学園で同級生となる令嬢達だ。ただしエリィがうざすぎて、二番手の悪役止まりだったが。
「……サラちゃん、知らない」
イラつかせる風に答えると、
「何がサラちゃんよ! 殿下がお優しいことをいいことに、浅ましい女ね!」
と憎たらしい怒声が返った。八歳の女の子を浅ましい女呼ばわり。昼ドラか。近頃の貴族の娘はどうなっているのか。
「左右で目の色が違うなんで魔女みたい。殿下に嫌われているのがわからないの?」
「きっと呪いを掛けて騙しているのよ。なんて悪質な魔女なんでしょう」
「化け物じゃない! 教会に引き渡して火炙りにしなくちゃ!」
「気持ちの悪い目でこっちを見ないでくださらない? わたし達にまで呪いを掛ける気じゃないでしょうね!」
「本当にマール殿下がお可哀想」
馬鹿なの? 荒唐無稽すぎて返す言葉がない。まず、この世界線に魔法はない。仮にわたしが魔女ならお前ら全員やられるけど、そんな暴言吐いていいの? という疑問。そして、わたしは公爵令嬢なんだぜ? お前らより爵位上なんですけどいいの? という一般常識。きっとどれもこれも、サラちゃんが大人しいから言い返さないと踏んでのことだ。王太子の婚約者について情報は貴族中に行き渡っているはず。そして、その通り前前世のサラちゃんは震え上がった。あの時は、どう返したのだったか。
「……魔女じゃないよ。マール様に聞いたらわかる!」
そんなことを辛うじて言った気がする。そして、死ぬほど逃げた。後ろから引き留める声がしたが構わず走った。勝手知ったる王宮内だ。一旦人目のある場所へ出ればフランソワーズ達は追って来れない。だけど、結果がアレなんだから笑うしかない。思い返せば「マールに聞く」と捨て台詞を残したのに、自分達にお咎めがなかったことで、その後のフランソワーズ達の嫌がらせに拍車を掛けたんじゃないか。色々下手を打った。でも、今は違う。お前ら全員の可愛さを数値化して合計しても、わたしの半分以下だ馬鹿。相手をする必要もない。
「ごめんなさい。じゃあ、婚約破棄してもらえるよう努めます。時間は掛かるかもしれませんが頑張りますね。フランソワーズ様のことを応援します」
エリィよりマシだから。最後の言葉は呑み込んで踵を返した。フランソワーズ達は「は?」という顔をしたけれど無視した。本番はここからだ。長居している場合ではない。前前世同様、マールが数人の令息達と共に談話室へ向かったのは把握済みだ。丁度よいタイミングを逃さない為には早く行かねばならない。
エメラルド宮の奥。談話室の扉を開け静かに中へ忍び込んだ。部屋の先には更に中扉がある。半開きになったその扉の向こうから声が聞こえた。興奮して息が上がる。気づかれないようにゆっくりと近づく。
「でも、殿下の婚約者の瞳は、変わった色ですね」
ドクン、と心臓が飛び出しそうに揺れた。何を言われるかわかっている。知っている。だから、平気だ。落ち着け。
「……ああ。左右で違うなど不吉だろう?」
「え、まぁ、珍しいとは思いますが」
「別にオレの婚約者だからと遠慮はいらん。気味悪いものは悪いだろう。はっきり言えばいい」
「……そうですね。僕なら嫌ですね」
「オレもできればあんな目で見られたくないです」
ほらね。やっぱり同じだった。安心した。思ったことはそれだけ。膨れ上がった風船が弾けて緊張が解けたみたい。代わりにじりじり怒りが沸いてくる。下らない連中。下衆な会話。八歳の女の子の悪口を言って楽しいか。かつてのサラちゃんを絶望に落とした言葉を聞いても、自分が悪い、気味悪いのがいけない、と泣いて逃げる気にはならなくて、ただ、不快、ただ、ムカつく。やっぱりこういう奴だった。サラちゃんの記憶は正しかった。それがはっきりした。何故わたしはここに来たのか。わざわざ不快になりに来る必要があったのか。多分何処かで信じていた。あんな記憶は間違いだって。かっと身体が熱くなる。乗り物酔いしたみたいな吐き気。頭痛。嫌悪で体調不良になることがあるんだな、と関係ないことが思い浮かぶ。どうしよう。どうする? 何をどうすれば、マールは一番嫌がるだろうか。最高の屈辱を与えられるか。中に入って喚き散らすか、冷静に淡々と振る舞うか。理詰めで糾弾して謝罪をさせる……謝罪? ふざけんなよ。
バーンッ
半開きの中扉を渾身の力で叩きつけると思いの外いい音が響いた。室内に入って行ったらどんな顔をするか見たい思いはあったけれど、憤る熱量を胃の腑に押し込んで全速力で駆け出した。走って走って走った。逃げたんじゃない。これは始まりだ。こんなところで終わらせない為に。もっと徹底的に傷つけてやる為に。
だって、サラちゃんが泣いていて、百合子がとても怒っている。許さないから謝罪も不要。弁明の機会を与えるな。あいつには死ぬほど傷つくやり方で必ず報復してやるんだ。絶対に、絶対に、絶対に……! 呪咀みたいに繰り返し強く強く思ったから。
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