第8話 取引 3/3

 しばらく互いの体温を感じてから二人は体を離して見つめ合う。


 サラサラとした茶色がかった髪に涙に潤んだ瞳。

 心がとてつもなく満たされる感覚を覚えながらこの瞬間を脳に刻み込める。


 彼女だけがいればいい。いまは、いまこの瞬間だけは何もかもを忘れられた。


 レナも同じようなことを思っていたのだろう。すっと伸びてきたレナの右手が眼帯に触れる。


「どうしたのこの目、ケガしたの?」

「いや違うんだ、これは……」


 眼帯に触れていた手を反射的に取って視線を逸らしながら言い淀む。


 いまの自分は半分人間ではない。

 それにいまレナやダイスを裏切ってネクストのために情報を盗んでいる。

 これだけでも後ろめたさを覚えるには十分だ。


「そっか。本当にネクストになってしまったのね」


 思わずレナを見る。

 自分がもう人間でないことはわかっているつもりだった。

 しかし愛する人から改めてその事実を告げられるのは、理解していてもショックだった。


「違うんだ。レナ、聞いてくれッ」


 そのせいだろう。弁解するようにとっさに彼女の肩を掴んでしまう。

 力が強かったのかレナが苦痛に顔を歪めたのを見て、ぱっと手を離し、数歩離れる。


「聞いてくれ。俺は――」


 一瞬の逡巡ののち、真剣な表情で口を開く。

 そしてここに至るまでのすべてを話した。


 なぜネクストになってしまったのか、どうやって真司たちから逃げ出したのか、どうしてリスクを背負って戻ってきたのか、すべてだ。


 話し終えるとレナは期待したような眼差しをした。


「じゃあ、人間に戻れるの?」

「あぁ、だから今は待っていてほしい。絶対に帰るから」


 そう言って秋人はデータのダウンロードが終わったUSBを引き抜く。


 これを渡せば人間に戻ることができる。

 そうすればあとはなんとでもなるはずだ。

 だが、黙っていたレナは覚悟を決めたような目で秋人を見る。


「なら私も行く」

「ダメだ! これは俺の問題だ。君まで巻き込むわけにはいかない」


 ただでさえ、心配をかけたのにさらに危険な目にまで合わせるわけにはいかなかった。

 しかしレナは頑なに首を横に降る。


「もう巻き込まれてるわ。それに私だってもう部外者じゃない」

「でも…………」

「お願い。もう私だけ置いていかれるのは嫌なの」


 懇願するレナに何も言えなくなる。

 愛する者が突然仲間たちに追われ、自分の元から消えてしまうのはまさに身を引き裂かれる思いだろう。


 秋人も同じだったのだ。

 彼女の気持ちは痛いほどわかった。


 だが答えを出す前にサーバールームのドアが吹き飛んだ。


「動くな、秋人ォッ!」

「レナ伏せろッ!」


 直後、全身を黒で固めた実働部隊がなだれ込んできて先頭にいた真司が銃口を向けてくる。


 反射的にレナの前に出ると瞬時に右の眼帯を取り去り、右半身の装甲を展開した。

 同時に猛烈な銃弾の雨が装甲を叩く。


「真司やめてッ! 彼は――」


 レナが真司に向けて叫ぶが銃弾の雨によってかき消される。


 自身の右目も庇いつつ、秋人はレナを連れてサーバーの影へとじりじり移動した。

 やがて銃撃が止み、真司の声がサーバールーム内に反響する。


「秋人、観念しろ。お前に逃げ道はない。レナ、お前もだ。ダイスを裏切った罪は重いぞ」

「待てッ、彼女は関係ない!」


 真司の言葉にそう反論したが、帰ってきたのは耳をつんざく銃声音だ。


 どうやら真司はレナも裏切り者として認識したらしい。

 状況が悪いほうにしか傾かないことに舌打ちをしながら打開策を考えようとした時、レナに服を引っ張られた。


「私が真司たちの気をひくから秋人は逃げてッ」

「向こうはお前も敵として認識してる。いま出ていけば蜂の巣にされるぞ」

「だからってこのままじゃ、ただ殺されるだけよ」


 確かにもたもたしている時間はない。

 だがサーバールームの出入り口は塞がれていて他の通路もすでに固められているはずだ。


 なにか打開策はないかと考えた末、自らの拳に目を落とす。

 出口がないなら作るしかない。


「よし、なら時間を稼いでくれ」

「わかったわ」


 コクリとレナが頷くのを見てから右腕を壁に当てて思い出す。

 あの時、トラックに跳ねられそうになった時の感覚を。


 もしあの時――トラックを塵に変えたときと同じことができるのなら、ここから逃げられる。


 一方レナは拳銃を取り出し、真司たちに向けて撃つ。

 直後、何十倍もの銃弾が反撃として帰ってくるが、構わず部隊を牽制し続けた。

 その横で秋人は眉間にシワを寄せながら、右手に意識を注ぎ続ける。


 やがて手が触れている箇所を中心として壁が徐々に赤く発熱していき、拳を叩きつけた。

 直後、爆音と共に秋人とレナの姿がかき消える。


 そして煙を取り払うように吹いた風の向こうから現れたのは外に広がる夜景だった。


「レナッ!」


 名前を呼び、弾切れを起こした拳銃を放り出したレナに手を差し出すと、彼女もそれに応じて腕を伸ばす。


 互いの手が徐々に近づき交錯しようとする。

 だがその瞬間、乾いた音と共にレナの体を銃弾が貫いた。


 つんのめるように倒れる彼女の体を思わず受け止める。

 撃たれたショックで気絶したのか、目を閉じる彼女の腹部が赤黒い血で染まっていく。


 愛する者が撃たれた衝撃に手を震わせながら顔を上げると真司が銃を静かに構えていた。


「逃すな、殺せ」


 冷たい声で真司は再び発砲し、仲間のダイス隊員たちもそれに続く。


 何故だ。何故そんな簡単に同僚を撃って涼しい顔をしていられるんだ。


 装甲で銃弾を防ぎつつ、かつての同僚に心のうちでそう問いかけたが、帰ってくる言葉はもちろんない。


 秋人にできたのは負傷したレナを抱えて、壁に空けた穴から逃げることだけだった。

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