幕間 部室にて
水野さんと一階で別れた後、俺は部室に向かった。文化祭終了までには教室に戻らないといけなくて、その時間まであと一時間を切っている。もちろん焦る必要はない時間だが、もう出し物を回り見る余裕はない。
思えば俺が文化祭で楽しいなと心から思ったのは劇をしていたときだけだった。初日や今朝は緊張で楽しむどころじゃなかったし、劇が終わってからは感情を掻き乱されて正直憂鬱だ。
今は水野さんの笑顔を見れて一安心しているけど盛岡や先輩たちのことを思うと胃が痛くなる。
「まあ、なるようになるか」
そんな戯言を吐いているうちに部室まできた。俺はいつものように戸を開け――
「うぉッ!? び、びっくりしたぁ」
誰もいないと思っていた室内には橘先輩が一人窓際で立っていた。
「先輩、まだいたんすね。驚いて声出ちゃいましたよ」
「そうか、それは悪いことをしたね」
橘先輩は近くに置いてある椅子を撫でながら外に向けていた視線を俺に直した。――後光が差していて、一枚の絵画のように見えた。
「水野には会えたかい?」
子供を慈しむように、優しい瞳で俺に問う。
「……会えましたよ」
「そうか、なら良かったよ」
それからはお互い黙ってしまった。いつもは気にならない秒針の進む音がやけに侘しさを刺激する。
静寂を破ったのは橘先輩だ。
「もう、俺は演劇部の部長じゃなくなるんだな」
「あっ……」
先輩がどうしてまだここにいるのか、それがようやくわかった気がした。
「次の部長は水野だけど、西園寺は大丈夫だと思う?」
「大丈夫、とは?」
「そりゃ、いろいろだよ」
「いろいろ、ですか」
その言葉に含まれている意味を俺はどれだけ理解できるだろう。先輩に振られたことによるメンタルとか、単純な実力とか、そういったところだろうか。
「まあ、大丈夫だと思いますよ」
理解はできなくとも、これだけは確信を持って言えた。先輩は予想外だったみたいで少したじろいでいる。
「水野さんは強いですから」
「……そうなの?」
「ええ、そうですよ」
俺みたいに弱くない。だからきっと、どんなことでも乗り越えていけるはずだ。
「それでも俺は心配だ」
気づけば橘先輩の声のトーンが下がっていた。
「……あの、話は変わるんですけど、好きな人がいるって」
余計なお世話だろうが今聞かなきゃいけないと思った。先輩の心配はもっともだし、俺自身大丈夫とは言ったが水野さんが立ち直るには少なくとも時間を費やす必要があるだろう。その結果振られたことに納得できたとしてもしこりは残る。ちゃんとした解決には相互理解が必要だ。それに、このままなあなあで終わるのは後悔しか残さないと俺は知っているから。
「あのとき、聞いてたのか。それとも水野から? まあ、どっちでもいいか」
先輩は珍しく面倒そうに応える。
「あれは嘘だよ」
「えっ――」
「俺さ、プロの役者を目指してるんだ。高校を卒業したら後藤先生の
俺が言葉を挟む暇もなく先輩は捲し立てた。
――理解が追いつかない。
「えっ、な、なんでそんな嘘を……というか本当に嘘なんですか?」
「嘘だよ。これが一番諦めがつく応えでしょ? プロを目指してるからと言っても納得できないだろうし」
そう、なのだろうか?
先輩の言葉には不思議に思うくらい説得力がある。
「それにしても知ってました、だってさ。いったい何を知っていたんだろうね?」
水野さんの想いを、自嘲気味に冷たく切り捨てた。
「本当に……」
「ん?」
「本当にいないんですか? 好きな人……」
「ああ、いないよ」
先輩に初めてネガティブな感情を抱いた。
「まあ、そういうことだから。西園寺、これからも演劇部で頑張ってね」
ツカツカと、先輩は俺の横を通ってドアまで行く。驚きやら困惑やら情けなさやらで、もう動く気力も湧かなかった。
「あの……」
それでも、これだけは言っておこう。
「今日の打ち上げ、延期にしてくれませんか?」
先輩が振り返った。
「勝手なんですけど、俺、実はこのあと予定がありまして……」
「予定、ね……いいよ。みんなが行けそうな日に行こうか」
「はい、すいません」
「じゃあね。西園寺」
「はい、お疲れ様でした」
とうとう先輩は部室をあとにした。
「なんでこんなことになるかなぁ……」
返ってくる声はあるはずもない。俺は感情のやり場がないままゆっくりと衣装を脱いだ。
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