二人の物語
水野さんがステージ中央に立ち、照明がパッと照らす。そこに宮野先輩が「お嬢様ー!」と声を上げながら入ってくる。当初、俺と水野さんが望んだのはこの逆の光景だ。……今は劇に集中しないと。
「お嬢様、大事なお話があります」
「どうしたの? ばあや」
水野さんは少女性を感じさせる仕草で宮野先輩に向き直った。
「お嬢様ももうすぐ十四才。結婚についてお考えしてありますか?」
「そんな先のこと……」
「ですがお嬢様と結婚したいとおっしゃった貴族の方がいるのです」
「急に言われても困るわ」
二人は抑揚をつけながら会話を進める。パリスという貴族がジュリエットと結婚したがっていること。そのパリスが今夜の舞踏会に出席すること。
水野さんは驚き、困惑しながら。宮野先輩は時折独り歩きしながらも、親身になって接する。
舞台の上に立つ水野さんは、普段の敬語ではない。けれど俺には普段通りの水野さんに見えた。
「とにかく! 舞踏会のときにパリスさんとお話するんですよ!」
「わかったわ」
こうして幕が下りていく。第一幕の終わりだ。
宮野先輩も水野さんも役に合っていた。きっと、この配役で良かったのだ。俺は水野さんがステージ裏に戻っていくのを眺めながら、心の内でそう嘯いた。
第二幕はキャピュレット家で行われる舞踏会にロミオとマーキューシオが潜入したところから始まる。つまりは、俺と橘先輩は幕が上がる前からステージにスタンバイしないといけないのだ。
俺たちは仮面をつけ、ステージ裏に近い端っこから幕が上がるのを待つ。
そして、観客の姿が顕になった。
俺は先の失敗と、水野さんと宮野先輩の演技を見て少し気落ちしていたが場面が場面、気合を入れて明るく振る舞う。
「ほら見ろロミオ、きれいなお姉さんばかりだ!」
「おい、あまり僕の名前を叫ぶな」
「おっと、悪い。……ところでどうだ、好みの女性はいるか?」
「あの人以上の女性なんていないさ」
マーキューシオはお調子者だ。それも最期のシーンで本当にそれだけのキャラクターなのか判然としなくなったが……でもこのシーンのマーキューシオは確実に調子に乗っている。思い出そう。俺にできないことはないと思い込んでいた馬鹿な小学生時代を。
「俺、女の子と踊ろうかな」
「相変わらずだな、君の女好きは」
「お前も男なら女性の一人や二人、射止めてみせろよ!」
「はぁ」
やれやれと橘先輩は肩をすくめる。
そんな俺たちの会話が終えると、照明は反対側のステージ裏近くに切り替わった。水野さんと盛岡の登場だ。
「ジュリエット。この舞踏会に君の未来の旦那が来るんだって?」
「知らないわよそんなこと。私、会ったことのない人と結婚するなんて嫌だわ」
「これから会ってゆっくりとお互いを知っていけばいいさ。……ん、あれは?」
ティボルトを演じる盛岡が俺たちの方を訝しげに睨む。同時に照明も俺たちを照らし出した。
俺はそれに合わせ、ティボルトからの視線をサッと逸らし、誤魔化すよう演じる。……台詞のない演技が一番難しいな。
盛岡はゆっくりと俺たちの方へ歩き出した。
「お前ら、どこかで会ったことあるか?」
「勘違いでは? 僕はただ、招待状を貰っただけのしがない貴族ですよ」
橘先輩が軽く応じる。さて、ここでマーキューシオの一仕事だ。
「おや、あなたはキャピュレット夫人の甥にあられるティボルト様ではないですか?」
「ああそうだがお前は――」
「ちょうど良かった! あなた様とお話ししたいことがあるのです。ささ、こちらへ」
「お、おお?」
俺は盛岡の手を引き、ステージ裏に行く。その間際、客席に決め顔を向けて親指を立てるグーサインをした。
瞬間、会場にドッと笑いが起きた。――これ、やっぱり恥ずかしいよ!
顔が熱くなっている中、ロミオとジュリエットが惹かれ合う様子を二人で眺める。すぐに出番が来るんだし冷まさないと……。クールダウンクールダウン。
ロミオとジュリエット、お互いがステージ中央にゆっくりと向かい、照明がまるでここには二人しかいないのだと錯覚するように包み込んだ。先に口を開いたのはロミオだ。
「僕はあなたのことを知っている。今朝、森で見かけその美しさに虜になった」
「お世辞はやめてください。恥ずかしいです」
「お世辞なんかじゃない。本音だ」
「……私も今朝、あなたを見かけました」
「なんと」
「私の名前はジュリエット。あなたは?」
「ジュリエット……? そうか。僕はロミオ。良ければ一緒に踊りませんか?」
橘先輩が右手を水野さんに差し出した。
よし、行こう!
俺は舞台中央へ全力で駆ける。
「まずいロミオ、気づかれた! 逃げるぞ!」
あたふたしている橘先輩の手を取り、俺と盛岡がいた反対のステージ裏まで走る。その後ろから盛岡の怒号が飛んできた。
「待て、マーキューシオ! ロミオ!」
俺たちがステージ裏まで走りきったのと同時に盛岡は水野さんのところに到着する。
「ティボルト、そんなに慌ててどうしたの?」
「ジュリエット、君と一緒にいたのは憎きモンタギューのロミオだ」
「そんな」
「クソッ! 逃げられたか」
水野さんは運命的な出会いをした喜びと、その人が対立している家の人間だったことを知った切なさを綯い交ぜにした表情をする。……守ってあげたくなるような、そんな顔だ。
「俺はこのことをキャピュレットに伝える。ジュリエットは、そうだな。早くパリス様に挨拶でもしてこい」
「うん……」
二人もステージ裏に回り、キャピュレット家で開かれた舞踏会は終わった。
ここからはロミオとジュリエット、そして乳母のシーンが続くことになる。俺と盛岡はクライマックスまでお役御免だ。橘先輩が次のシーンのためにステージ裏から降りていくのを俺は見守り、その姿が見えなくなって息を吐いた。
思っていたよりもあっという間だったな。
ミスったときの恥ずかしさやら後悔やらはもちろんあるが、それ以上にここまで無事に進められたことの安堵が体を支配した。こうして冷静になると、心拍がやけにうるさく感じる。俺の出番はもう少ししかないんだ。落ち着けー落ち着けー。
次のシーンはロミオとジュリエットで一番有名なところ。ジュリエットのバルコニーシーンだ。
俺は橘先輩の活躍が見たいからステージ裏を降り、観客からは死角になって見えないところで橘先輩の後ろ姿を目に映した。
突如、客席より手前のステージ下に照明が照らされる。そこへ橘先輩が走って向かった。
会場は本来ステージ裏にいるはずのロミオの存在にざわめく。
橘先輩は息を切らしながら挙動不審気味に辺りを見回すと、ステージに視線を向けた。
「マーキューシオと共に逃げたが、結局ジュリエットに会いたくて戻って来てしまった。しかしどうすれば会える? 忍び込んだはいいが、舞踏会に戻るなんてできないだろうし……」
橘先輩の台詞が終わり、もう一つの照明がステージ裏近くを当てた。そこに水野さんが心ここにあらずで歩いてくる。橘先輩はそれを見て、ぐっと姿勢を屈めたと同時に客席を見る。そして観客に語りかけるように「思わず隠れてしまったが、あれはジュリエットか?」と言った。声のトーン、仕草、テンポ、それら全てがバランス良く完璧な演技だ。
水野さんはステージ先端まで行くと上の空で「はぁ」とため息をつく。
「ああ、ロミオ、ロミオ! あなたはどうしてロミオなの?」
会場が感嘆に包まれた。
「お父様と縁を切り、モンタギューという名前を捨てて! それが嫌ならせめて私を愛すると誓って! そうすれば私もキャピュレットの名前など捨てるのに……」
切実な言葉が、観客の心を射抜いた。
この台詞はロミオとジュリエットの中で一番有名だ。きっと、知っている台詞が実際に語られ観客の意識はこの劇に強く向けられただろう。しかし、心を惹きつけたのは正しく水野さんの演技だ。
恋に浮かれるも、決して届かない想いの切なさ。表情も、声も、全てがジュリエットというキャラクターに観客を感情移入させる導線となっていた。
――水野さん、こんなに上手かったっけ?
橘先輩はスッと立ち上がりそそくさと水野さんの元へ。右手を左胸に当て、高らかと口を開いた。
「お言葉通りに頂戴いたしましょう。ただ、僕に愛してると言ってほしい。そうすれば、生まれ変わったも同然。僕はもう、ロミオではない」
「ロミオ様!? 私の独り言を聞いていたなんて恥ずかしい」
水野さんは本当に照れているように顔を真っ赤にして声を震わせた。見ているだけで歯がゆくなる。それはきっと俺だけじゃなくここにいる人たち全員がそうなっているだろう。それはつまり、みんなが二人の物語に夢中になっているということだ。
「お嬢様ー! お母様が呼んでますー!」
「あ、うん! わかった!」
ステージ裏から宮野先輩が叫んだ。
「ごめんねロミオ様。早く戻らないといけないの。あ、それと私、パリスという人と結婚させられちゃいそうなの。どうしよう!」
「なんだって。それならば実力行使だ。ジュリエット、僕らが先に婚約を果たそう。明日の午前九時に教会で密かに結婚式を挙げるんだ」
なんという急展開。初めてロミオとジュリエットを知った人には驚いてる人もいるだろうなぁ。俺も初めて台本を読んだときビビったもん。
けど、こんなにも唐突なことなのにどうしてこの物語から目が話せないのか。
「明日の九時ね。わかったわ。ロミオ様、愛してる」
両者を照らしていたスポットライトは消え、水野さんはステージ裏へ戻っていった。橘先輩もそれを見送ると、颯爽と俺の方へ戻る。
「なんだ、下りて見に来てたんだ」
「まあ、はい」
ステージ裏からじゃ橘先輩が見れないからな。
「これで第二幕は終了。第三幕は西園寺と盛岡の見せ場があるな。普段通り行けば大丈夫だから」
「はい」
「よし、じゃあステージ裏に戻ろうか」
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