花の都ヴェローナにて
照明が落とされ、俺と水野さんと橘先輩は客席から見て左側のステージ裏、宮野先輩と盛岡は右側のステージ裏に移動した。
初めは盛岡と橘先輩の出番である。
ステージをまんべんなく照らす照明がつき、橘先輩は一歩を踏み出した。俺は
橘先輩の視線の先には、ゆっくりと尊大に歩みを進める盛岡がいた。まるでチンピラのようにガンを飛ばし、口を開く。
「おい、そこにいるのはモンタギューのロミオじゃないか? 俺はキャピュレットのティボルト。さあ、その腰にある剣を取れ!」
盛岡は鋭い剣先を橘先輩に向ける。出会ってそうそう喧嘩を吹っ掛けるティボルト――うーん、役に対しての解像度が高いというか普段の盛岡というか……。
対してロミオもとい橘先輩はティボルトの呼びかけに応じず、一人虚空を眺めてはため息をついていた。この人は物憂げな表情すらも絵になるな。
「おい、聞いているのか!」
少し、体育館に笑い声がこぼれた。
滑稽な構図だから笑いを誘うシーンではあるだろう。こうして観客が笑ってくれると俺の出番ではないのに安心するし、とても嬉しい。
「ああ、ティボルトか。僕は今、戦う意志はない。今朝、運命と出会ったのだ」
ふわふわした調子で橘先輩が応えた。
「運命だと? くだらん。戦う意志がないなら一方的に俺が斬るのみ」
盛岡は肘を少し下げ、いつでも斬りかかれるよう構えた。俺の出番はもうすぐだ。刻々とそのタイミングが近づくにつれ、心拍が異常なくらいに主張する。やはりいざ本番となると緊張するもんだ。
俺は右手で胸を強く掴む。――俺は、大丈夫だ。
そのとき、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと俺と同じように緊張している蒼いドレス姿の水野さん。
「頑張って、ください」
「――ああ」
俺一人の舞台じゃない。演劇部全員の舞台だ。
右手を解き、深呼吸する。よし――!
盛岡が一歩踏み込んだ瞬間、俺はステージに飛び出した。
「ティボルト、やめろ! こんな街中で騒ぎを起こしたら大公が来るぞ!」
客席に視線を向けなくても分かる。俺は今、注目の的だ。葉月が見ている。甘奈が見ている。知らない人が、見ている。
声、ちゃんと張れてたよな? 変じゃなかったよな?
心配は尽きない。けど、今は役に集中するんだ。
俺は貴族のマーキューシオ。相対するはキャピュレットのティボルト。隣りにいるのは俺の友達、モンタギューのロミオ。
そしてここは、花の都ヴェローナだ!
「あ? モンタギューでもキャピュレットでもねえお前はすっこんでろよ。両家の問題に口出ししてくんじゃねえ」
「聞こえなかったか? 大公が来るんだ。騒ぎが見つかれば国外追放もありえる。いくぞ、ロミオ」
「ああ」
「チッ」
俺と橘先輩はさっきまでいたステージ裏に戻った。盛岡も反対のステージ裏に戻る。
「お疲れ様です」
水野さんが小声で話しかけてきた。
「まあ、またすぐに俺たちの出番だけどね。頼むよ、西園寺」
「はい」
小声でやり取りした
俺たちは小走りでステージ中央に行き、一息つく。まずは俺の台詞だ。
「ふう、ここまで来たら大丈夫だろ」
「ああ、そうだな」
相変わらずふわふわした様子の橘先輩に観客も抱いているであろう疑問を投げかける。
「あー、ロミオ。地に足がつかない状態だが、何かあったのか?」
橘先輩は視線を客席に向け、よくぞ聞いてくれた、という風に顔を光らせながら朗らかに語り始めた。
「今朝、森の方へ散歩をしていたんだ。まだ太陽が夜の帳に隠されている暗い時間だ。僕は月明かりを反射して清く流れる川の水面を少しの寂しさを感じながら見つめていた。そのとき、天啓が降りてきたと思う他ないくらいの強い力に引き寄せられ、ハッと顔を上げたんだ。するとそこには数人を引き連れた、天使もかくやと思うほどの美少女がいた!」
「お、おう……?」
俺が応えると、体育館中を笑いの渦が支配した。流石は橘先輩だ。勢い、滑舌、記憶力、どれもが本当に凄い。
「あの人は神の創造物なのだろうか。周りにいた人たちが醜悪に見えるほど輝いていた。ああ、本当に純白の翼が背中に生えているのだろう。あの美しさ、僕は生まれてこの方始めて見た。できることならもう一度会って、愛を伝えたい……」
ここで少し、間をとる。
よし、今言おう!
「つまりはあれか? 一目惚れしたってことか?」
またしても笑いが起こる体育館。
よし、よし、最高だ! 演劇って楽しい!
一つ一つの笑い声に自信をつけていると、橘先輩は俺に向き直り台詞を読み始める。
「一目惚れ……ああそうだ。一目惚れだ。一目見たときから俺の頭の中はずっとあの人で埋め尽くされている。名前も知らない儚げな少女よ。あなたを思うと胸が痛いのだ」
今度は苦痛に顔を滲ませながら語った。
本来このときのロミオはロザラインという女性に恋をして、苦しんでいる。しかしこの劇では、ロザラインという人物は存在していないのだ。このあたりの改変は、後藤と先輩二人が行ったものである。部員が足りないというのが一番の理由だろうが、ロザラインという女性からすぐにジュリエットへ乗り換えたロミオはあまり好印象はないからな。まあ女の子に一目惚れしてる時点で俺はロミオに感情移入できないけど……。
俺はなるべく軽快を心がけて続きを語る。
「恋の痛みか」
「ああ」
「それなら新しい恋で痛みを掻き消すというのはどうだ?」
「何?」
橘先輩は怪訝そうに俺を見つめる。
ここで俺は客席へ向き直る手筈だ。大丈夫。客の数はもう知れているのだ。怖がらず、自分にできる最大の演技を。
俺は勢いよく客席の奥へと視線を向けた。
――目が、合ってしまった。
葉月だ。その隣には甘奈と数人の女の子がいる。おそらくは葉月たちと同じバレー部だった人たちだろう。ちゃんと見ていないから分からないけど、もしかしたら俺のことを知ってる人もいるかもしれない。……それは嫌だな。
頭が真っ白になって、台詞が喉に詰まる。数瞬の間でその台詞を唾と一緒に飲み込んでしまった。
……なんて言うんだっけ?
やばい、やばい。俺が客席に向いてからどれくらい経った。一秒は経過したか。まだ間に合う。早く、言わないと。早く、
「そんなにためるな! 僕の心臓は今も恋の病に蝕まれているんだぞ!」
橘先輩が一歩踏み出し、待ちきれないといった様子で口を開いた。……ここでアドリブとか、本当に凄いな。
こんなところで劇を台無しにするわけにはいかない。そうだ、俺はこの物語に出てくる一人なんだ。
「……ふっ。まあそう急くな。今宵、キャピュレット家にてパーティーが
さっきまでのが嘘のように、すーっと台詞が出てきた。
「……は? 僕はモンタギューだぞ。参加したら大問題じゃないか」
「俺が何も考えていないとでも? 対策はある」
「対策?」
「ああ、仮面をつけて行くんだ」
「仮面……そんなに上手くいくだろうか?」
「きっと大丈夫だ。だから、な!」
「はぁ、わかったよ。マーキューシオの案に乗ろう」
「よっしゃ決まりだ! 六時になったらまたここで落ち合おう!」
俺たちは脇目も振らず、最初と同じようにステージの裏側に戻った。
客が俺のことをどう見ていたのか、今はなるべく考えないようにしよう。
それにしても、出番が終わるとドッと疲れが襲ってくるな。汗もびっしょりだ。
対して橘先輩は暗闇でも分かるほど涼しい顔をしている。圧倒的に格が違うな。……というか、そうだ。ミスのこと、謝っておかないと。
「あ、あの、すいません……少し詰まってしまって」
「ああ、あの後、凄い上手くできてたから大丈夫大丈夫」
「……すいません」
あの後上手くできたのは橘先輩のカバーがあってこそだ。俺がやらかしたことには変わりない。
「お疲れ様です、先輩。西園寺くん」
水野さんが声をかけてきた。
「まあ、少しミスったけど」
「西園寺は引きずり過ぎだよ。切り替えていこう。次は、水野さんか」
「はい、頑張ります」
水野さんが顔を引き締め、ステージを見据える。
反対側のステージ裏には笑顔の宮野先輩がいた。
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