混迷
俺は後藤と共に部室にたどり着いた。なんつーか、先生と二人きりで廊下を歩くのは少し気まずいというかなんというか……取り立てて話すこともないからなあ。
まあ異常に長く感じた時間もこれで終わりだ。俺はドアを開く。
「お? まだ三年は来てないか」
「はい、そうです」
部室にいたのは水野さんと盛岡だけである。
「あーじゃあまあ基礎練だけちょいとやっとくか」
「はい」
後藤の指示で俺達は発声練習を始めることにした。夏休み明けすぐにテストときてその
「ふぁ~」
「でけえ
「まあ、若干寝不足かも」
「あーそう」
盛岡は聞いておきながら興味なさげに適当な相槌を打った。俺は言葉には出さず不満を顔で示した。
実際、寝不足なのは確かだ。最後の悪足掻きとして、昨日の深夜に勉強をしていた。結果は言うまでもない。
「やっほー」
「どうもー」
あまり時を待たずして先輩二人がやってきた。
「どうも」「うっす」「お疲れ様です」と俺達はそれぞれ答える。
「いやー今日は疲れたよー。模試をやらされてさあ」
「受験生なんだから当然だ」
「ぶー、少しは労って!」
後藤がため息を吐いて宮野先輩を無視。そして全体に気だるげな声をかける。
「とりあえず一年は基礎練やめていいぞ。これからミーティングだ。ジュリエットと乳母の役を決める」
後藤がそう言った瞬間、部室全体の空気が張り詰めた。いや、それは俺がそう感じただけであって、厳密には俺と水野さんが緊張しただけだ。
宮野先輩は、ついにかー、と声を漏らし、橘先輩と盛岡は大して気にかけた様子はない。当然と言えば当然か。俺達男組はもう配役が決まっているのだから特段気にかける必要はない。だが、俺にはどうしても気にかけないといけない理由があった。
水野さんと俺だけの願い。宮野先輩にはジュリエットを演じて、思い出として残してほしい。
「まあ決めると言っても俺の中では決まってるんだがな。時間がもったいないしすぐに言うか」
俺の心臓はうるさいくらいに鐘を打ち始めた。口の中に溜まった唾を飲み込む音が、俺の不安を主張している。
「ジュリエットは水野、乳母は宮野でいくぞ――」
「待ってください!」
あまりにもあっけなく後藤が言うと、水野さんは声を上げる。
正直なところ、後藤がジュリエット役を水野さんにすることは予想がついていた。後藤には最初の頃から水野さんがジュリエットを演じるという選択肢があって、毎日の練習で水野さんは腕前を上げていき、誰に見られても恥ずかしくない演技をできるほどになっていたからだ。素人目でも、成長は目に見える。
さて、勝負はこれからだ。
「どうした? 水野」
「やっぱり、主役は先輩がすべきだと思います」
「前も言ったが実力を見て決めている。もちろん今でも宮野のほうが一枚上手だが、水野もそれに遜色ない。だから、ジュリエットに似合ってる人選をした」
「でも、こういうのはやっぱり先輩がやるべきだと思うんです」
「んー、そう言われてもな」
後藤はどうしたものかと困惑しながら、白髪混じりの髪を右手で掻く。
まるで聞き分けの悪い子供にどう説得しようかと悩んでいるようだ。このままでは後藤が役を変えることはないだろう。
「あの、俺も宮野先輩がやったほうがいいんじゃないかって、思ってます」
「ほう」
俺の横槍に後藤だけでなく、この場にいる全員が反応を示した。
「確かに実力だとか、その役にハマるとか、まあ色々とあると思うんですけど、でも主役はやっぱり三年生のほうがいいかなと。これで最後になるわけですし」
「なるほどな。西園寺が言いたいことも分かるぞ」
このまま、押し切る。
「主役と
「でも私は乳母でもいいよ」
「えっ――」
「だ、そうだが?」
宮野先輩が言葉を挟み、後藤はその言葉を挙げて、俺に問う。
一瞬、逡巡してしまった。宮野先輩がいいのならこの話はこれで終わりじゃないか。
「いや、でも先輩のほうが絶対にいいですって! 経験とか、実力も豊富だし。そう。俺が単純にしてほしいだけかもしれないけど――」
「なあ、お前はなんで宮野さんがすることにこだわるんだ? 水野じゃあ駄目なのか?」
「ちがっ、そうじゃなくてさ」
「じゃあなんなんだよ」
盛岡の鋭い眼光が俺に突き刺さる。
俺は冷静に、自分の気持ちを確かめる。俺は何が言いたいのか。
少し間を置いて、俺は話す。
「やっぱり、高校最後の文化祭なんだし、思い出にしてほしいだろ……」
「宮野さんはジュリエットじゃなくてもいいって言ってるぞ。お前の押し付けなんじゃないのか?」
「そう……だよ」
そうだ、これは押し付けだ。宮野先輩にとっては余計なお世話かもしれない。でも、どうしても、宮野先輩が主役をするほうが正しい気がする。
「心美ちゃん。西園寺くん。私はね、本当にジュリエットじゃなくてもいいんだよ。みんなで劇ができるだけで楽しいし、大切な思い出になるから」
「そう……ですか」
水野さんが気落ちした言葉を溢す。
これ以上は何を言っても無駄だろう。客観的に見たら、おかしいのは俺達のほうだ。けれど、俺はどうしても納得ができなかった。
「うしっ! じゃあこれでこの話は終わりだ。これからのことなんだが――」
俺はどっと疲れが押し寄せ、後藤の話を聞く気力さえも残ってなかった。
橘先輩は今までの間、一言も言葉を発さなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます