夢一昼

 八月十九日

 今日は土曜日で部活が休みだ。最近は土曜日もたまに活動をするようになったが基本的に休みのことが多い。そういうわけで俺は正午まで惰眠を貪っていた。

 やはり睡眠はいい。なんというか、泥沼に沈んで全く別の世界にいる気分になる。俺自身、よく夢を見るのも理由にあるかも知れない。ある種の現実逃避か。

 俺は何度目か分からない寝覚めを強制的に断ち切り、また泥沼に沈む。


 小学生の頃の夢を見ていた。その夢は俺が経験したことのないことである。だけど、強く懐かしい気持ちを抱いた。

 そこには旅館のような趣きのある少し古い、建物があった。そこで小学生の頃の友人達と一緒に居る。ここはどこなのか、俺は何をしているのか、それは夢を見ている最中も分からなかった。ただ雨宮さんがいて、りゅうがいて、葉月がいて、居心地がよくずっとここに居たいなと思った。

 けれど俺はその中に水野さんや盛岡、そして先輩達がいることに少しして気がついた。

 瞬間だ。ぷつんと夢が終わった。


 外は雨がザーザーと降っており、太陽が隠れている。家に居るのに雨音が聞こえてくる程だ。俺は薄暗い部屋のベッドの上で、だるくてなかなか動かない体を転がして無理やりベッドから足を落とし、縁に座り込む。少ししてから立ち上がりふらふらしながら洗面台へと行った。

 水をバシャッと顔にかける。これでようやく意識が現実へと戻ってきた。

 目の前の鏡に映る俺は酷い顔をしている。髪はボサボサで目には隈ができており、おおよそ精気を感じられない。やはり、人間は表情が全てというのは本当なのかも知れないなと思った。寝癖でボサボサの頭を水で濡らす。外出する予定はないが、なんとなくだ。髪型を意識してたらずっと家の中でも最低限は整えるようになった。

 なかなか直らない寝癖を、蛇口から出る水を直接被ることで直すことにした。頭が冷えて、気持ちいい。

 それから俺は歯磨きをしてリビングへと行った。

 両親は仕事か買い物か、分からないが二人共外出している。甘奈は例によって部活だ。よって家には俺一人。


 俺はリビングの電気を点け、冷蔵庫の中を適当に探る。すると、甘奈が作ったらしいおかずがタッパーに入っていた。

 俺はそれを取り出しレンジで温めて、その間に米をよそう。味噌汁も朝の残りがあったから温めて注いだ。時計を見ると短針が一を指していた。今日、初めての食事だ。

 なんとはなしにテレビを点ける。適当にチャンネルを変えて、特段面白いのが無かったからワイドショーを垂れ流すことにした。

 ……何かをする気が起きない。こういうことは度々あった。ゲームをするのもアニメを見るのも勉強をするのも億劫だ。ただ、生きているだけ。死んだように眠るだけ。


 俺はため息をつき、テレビを消して音楽を聴くことにした。

 スマホで音楽を流しながらおかずや米を味噌汁と一緒に掻き込む。別に急いでいるわけではないがどうも落ち着いて食事をすることができないのだ。

 全てを食べ終えて、流し台に食器を置く。……まあ、やることがないのだ。食器ぐらい洗うか。

 俺はスマホをポケットの中に入れ、ワイヤレスイヤホンを耳に着けた。音楽を聴きながら食器を洗うことにしよう。

 いつぶりだろうか、こうして家事をするのは。高校に入ってからやってなかった気がする。たまにする分にはいいな。一つのことを集中してやってたら色々と考えなくてもいいから。


 みんなの朝ごはんの分も洗っていたら予想以上に時間がかかった。まあ食器を洗うのが久しぶりだったからというのもあるが。

 時計を見たら二時に回っている。俺はゆっくりと息を吐き、流し台の対面にある収納棚に背中をもたれながら座り込んだ。

 ……疲れた。もう、このまま眠ってしまいたい。イヤホンの接続を切ると雨音が家の中を響かせていた。


 俺が座り込んで一分くらい経っただろうか。不意に電話がかかってきた。俺はポケットからスマホを取り出して画面を見る。

 水野さんからだ。

 ……え、なんで?

 いや、え? どゆこと? 電話? 待ってくれ、俺家族以外と電話したことないんだ。しかも相手は女の子だし。


 ッスー……、え?


 とりあえず繋がないと。


「あ、もしもし」

「モシ、あ……、んっ!」


 こ、声が掠れた……。やべぇ気持ちわりいと思われたよやべぇやべぇよ。


「……もしかして寝起きですか?」

「あ、あー……まあ、そんなとこ。ごめん」

「別にいいですけど……早起き、ちゃんとしたほうがいいですよ」

「はい」


 説教されてしまった。そういえば今日一言も喋ってなかったな。うん、急に喋ることになると誰だって声掠れるよ。俺は悪くない。だから絶対にごめんなさいは言わない。言うもんか、水野さんなんかに。……もう言っちゃってるんだよなぁ。


「あーえっと、急にどうかした?」

「……クッキー、作れますか?」

「……は?」

「助けてください」


 その声は緊迫しており、電話の向こうでもかなり焦っているのだろうなと思わせた。きっと顔を蒼白にしているだろう。


「えーと、一から状況を教えてくれない?」

「苦いんです。……作ったクッキーが苦いんです!」

「あー、そっか」


 クッキー作るの、自信あるんじゃなかったっけ?そんな俺の心の声を読み取ったように水野さんは捲し立てる。


「だって……だって仕方ないじゃないですか! 家庭科の調理実習では上手くできてたんですよ! それに、クッキーは作るのが簡単っぽいし……私でも作れると思っちゃいますよ!」


 水野さんの必死な言い訳に俺は、


「……ぷっ、あっはっは!」

「え?あ、あの……」


 気づけば俺は声を上げて笑っていた。

 雨音は聞こえない。聞こえてくるのは俺の笑い声と、スマホの先で水野さんが戸惑っている声だけだ。

 本当に……本当に面白い! もう、今までの俺の悩みなんて馬鹿らしく思えてくる。笑い声と共に俺の中の苦悩が弾け飛ぶようだ。


「いやぁ、ごめん。……フッ、ハハ」

「えー……そんな笑うことですか? 酷いです」

「いや、ごめんって」


 俺は笑いを抑えられず、水野さんがグチグチと不平を垂れている。

 笑いすぎて出てきた涙を人差し指で拭いながら、


「それにしてもクッキーか、クッキーね。オッケー、じゃあ俺も手伝うよ」

「え、あ、ありがとうございます」

「いいってことよ」

「……なんだか、声色が変わりましたね。どうかしたんですか?」

「ん?あー、ようやく目が覚めたのかも」


 それから俺は立ち上がり、クッキーの作り方を調べながら水野さんに指示を出した。

 俺はそうしながら水野さんと話すことにする。何だか、気分が高揚しているみたいだ。いや、ふわふわしていると言ったほうが正しいか。


「でも、クッキー作るのってそんな失敗することか? まあ焦がしたなら仕方ないけど」

「そういうわけではないんですが……」

「じゃあどして?」

「えっと、作り方を間違えたのかもです」

「ふーん、レシピは?」

「レシピ見ずに作ったので」

「えー……」


 俺はその言葉に苦笑い。そりゃ失敗するでしょ。ホントに面白いな。もう、楽しい。水野さんと話すのが。


「にしてもなんで俺に?」

「友達には言えませんよ……からかわれますし」

「そっか……俺は友達じゃないってことか……」

「そうなりますね」

「え?」

「……」

「……」

「……冗談です」

「あ、あーだよね! いやぁマジに聞こえちゃったわ」


 良かったぁ! 水野さん、俺のこと友達だって思ってくれてた! うん!


「……友達だよな?」

「まあ、多分そうでしょう。電話をかける間柄なんですし」

「……そっか」


 俺は安い男だと思う。こんな言葉で、救われた気がしてるんだ。


 それからも談笑しながら、ついにクッキー作りはオーブンで焼く段階にまでいった。後は焦げないようにするだけである。


「ふー、改めてありがとうございます」


 水野さんがそう言う。

 俺は後悔をできるだけしないように生きていきたい。強くそう思った。雨宮さんと話さなくなってから。

 そのためには思いを伝えなければならない。俺はそれができなかったときの辛さを知っているから。だから、


「こっちこそ、ありがとう」


 心の底から伝えたい、今の気持ちを投げかけた。








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